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「英語力」って何だっけ?

最近、英語の学習方法に関する記事執筆の依頼を多くこなしている。その中で、「英語力」という言葉をよく見かけるようになった。文字数も節約でき、意味もふんわり読者に通用するので便利な言葉ではあるのだが、個人的にはあまり多用したくない。

なぜなら「英語力」という言葉には明確な定義がない。TOEICでハイスコアを叩き出せることなのか?話せることなのか?会話さえできれば読み書きできなくてもいいのか?英語は英語のまま理解できなきゃダメなのか?ネイティブの発音以外はモグリなのか?

「英語力」の定義は人によって違う

4年間の教師生活と自身の学習経験を踏まえた私の答えは、「英語力」の定義は人によって違う、である。英語の習得方法も、ゴールも、人それぞれに違うのだから、重要なポイントも必要な知識レベルも人それぞれなのだ。

習得方法で言えば、音声から言葉をとらえる方が得意な人もいるし、ゆっくり文字を追う方が向いている人もいる。英語を理解するプロセスに絶対的なものはなく、その人が「自分に向いている」と感じた方法が良い方法だ。

英語を学ぶときに映像などのイメージで掴みたい人もいるし、日本語訳や日本語の解説がある方がいい人もいる。個人的には日本語の補助があった方が効率的に学習を進めることができると考えているが、頑ななまでに「日本語訳禁止」を掲げるスクールもある。

英語習得の目標だって人によって違う。「英語圏に移住したい人」と「とにかく高校の単位だけ欲しい人」では必要な勉強の量も質も違う。単位が欲しいなら教科書に書いてあることをしっかり復習するだけで良い。移住まで検討するなら、実際に海外で生活するのに必要なレベルの会話や交渉、ときに文書作成や通知文書の読解も必要だろう。

だから、一様に「英語力アップ」とか「真の実力」とか「本物の英語力」とかいう、便利だが正体不明の言葉を連発することに少し違和感がある。そういう言葉を使うのなら、相談する側の求めている能力が具体的に何なのかハッキリさせた上で使用すべきだ。でないと「話せるようになりたいのに意味不明の長文読解ばかりやらされた」となり、「結局わからなかった、つまらなかった」→「英語ってやっぱり嫌い、私には無理だ」の構造を再生産してしまう。

英語コンプレックスと日本人

さらに悪いことに、多くの日本人は「なぜ英語を勉強するの?」「英語を使って何がしたいの?」という動機が不明確なままで、「できるようにならなきゃ」というプレッシャーとコンプレックスばかりが心に溜まっている。このような精神状態で英語を学んでいれば英語を嫌いな人、苦手な人が多いのも当然かもしれない。

ただでさえ、英語を習得する過程で嫌になるような瞬間はあらゆるところに見つかる。少しのミスも許さないような学校英語の採点システムもそうだが、英語の言語構造だって日本語と違いすぎるし、覚えることが多すぎる。

例えば、発音だって日本語に比べて母音や子音の数が多すぎるし、微妙な発音の違いだけで全然違う単語になったりする。英単語のスペルは発音通りのアルファベットではないことも多い。

三単現のsなど、原理はよくわからんが「とにかく覚えないといけない」規則も多いし、さらには単語とその活用形(複数形の作り方とか、動詞の過去形とか、集合名詞の数え方とか)を無限にも思える英単語と一緒に覚えないといけない。面倒くせー!

そんな状態で「英語力」とかいう定義の不明瞭な、しかし有用そうな言葉をぶら下げられたら飛びつきたくなるのも無理はない気もするが、無闇に飛びつくと「会話がしたいのにTOEICやらされた」みたいな問題を誘発してしまう。

「英語で何をやりたいか」を具体的にしておくことが大事

「英語力アップ」を提供する側とされる側のミスマッチを防ぐには、サービスを提供する側もされる側も「どんな能力を」「どのくらい向上させたいか」を明確にしておく必要がある。もちろん人によって理解度や学習の進み方に差は出るのだが、最終的な目標が「ひとりで海外旅行に行ける」と「通訳・翻訳者になる」と「海外ドラマを楽しむ」では全く違う。

現代にはオンライン英会話とか英作文添削サービスとかアプリとか、便利な英語学習ツールが多い。それでも、お金を払ってそれを利用するのは結局自分自身だ。主体性がないと、知識や技能も効率よく身につけることができない。遠回りの果てにモチベーションを失って「やっぱり英語は嫌い」になるのはあまりにもったいない。

これから英語を学ぼうとする人は、ぜひ学習の動機と理想の将来像を明確にしてから教材を選ぶことをおすすめする。

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