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vol.3 理想と現実のはざまで

編集長不在のまま進む企画

内定をもらってから慌ただしく移住準備を進め、東京でお世話になった人たちへの挨拶も十分にできないまま新しい生活が始まった。初出社したときは彼も一緒だった。青空が広がり、太陽の日差しが照りつける中、青々と雑草の茂る川沿いの道を、私たちは能天気に徒歩で出勤した。7月だというのに。だいたい25分くらいだろうか。会社に到着したときには、リュックを背負った背中が汗で滲んでいた。

10名ほどの社員が集まり、大きなミーティングテーブルを全員で囲んだ。自己紹介と意気込みを私たちが伝えると、社長だけとってもうれしそうに声高に笑っていた。

晴れてふたたび編集者になった私だったが、すぐさま高すぎる壁にぶち当たった。それはあろうことか社長の存在だった。入社するまでのあいだも社長は待ちきれないといった様子で、毎週長文のメールと何ページにもわたる熱のこもった企画書が送られてきた。私が不在のまま、新しいWEBメディアの立ち上げが決まり、企画は雪だるま式にどんどん膨らんでいったのだ。

企画書には、社長の理想とする世界観が目一杯込められていた。このメディアに対する意気込みが相当なものだと伝わってきた。連載の執筆者候補として上がっていた人たちは全国で活躍する有名建築家や住宅系の専門家や有識者ばかり。社長だからこそ生み出せる企画だ。ただ、雑多な印象を受けた。「編集」の必要があると感じた。

ところが、この通りにしなくてもいいと前置きがありながらも、企画書はすでに多くの関係者と共有されていて動かしがたい状況になっていた。すべてが社長の描いた筋書きどおりに進むことを促され、私はまるで舞台役者のような立ち回りを期待されているようだった。さあこれを形にしてみなさい、ただしあと3ヶ月で。
そう、私が着任する前にすでにWEBメディアの公開日までもが決まっていたのだ。

入社してからというもの、毎晩暗くなるまで会社のデスクにかじりついた。毎朝出社しては、社長の膨大な知識量に追いつこうと与えられた参考資料をいくつも脳に流し込んだ。そこへさらに畳みかけるようにして増大する社長の構想。投げられたボールを返そうとしても、返さないうちに新たなボールが飛んでくるようなやりとりが続いた。

もっとも、私に足りないのは住宅業界の知識だけではない。WEBの知識だってなかった。何しろWEBサイトの編集はおろか、ゼロからの立ち上げは初めてだったのだ。社長の企画通りに形にしようにもスキルや知識が足りないし、とはいえ私は他人の企画を丸ごと形にするために再び編集者になったのではない。ああ、どうすればいいんだ……。

前途多難な移住生活を支えてくれたのは、広い空と美しい夕焼けだった。

私より1ヶ月半ほど後に入社することになっていた彼とは、その間離れて暮らしていた。毎晩LINEで連絡しても私の口からは弱音や愚痴ばかり。彼は私の話を聞きながらいつの間にか寝てしまうのだった。
「早くこっちに来て。仕事を手伝ってほしい。こんな毎日辛すぎるよ。助けて。ねぇ……聞いてる??」。

信頼できるパートナー探し

企画の精査とともに進めたのは、WEBサイトを実際に形にできるパートナー探しだった。「ローカルメディア WEBデザイン 浜松」。そんな検索ワードでヒットしたのが、浜松在住で同世代のWEBデザイナーのSさんだ。Sさんについてネット上から情報を手繰り寄せると、WEBデザイナーとしてフリーランスで働きながら、ローカルに根差したデザイン活動をしているデザイナーのようだった。浜松で立ち上げるメディアなのだから、地元のデザイナーに頼みたい。それは私がこだわったポイントの一つだ。

もうひとり私が頼りにしたのは、私と同じ大学の先輩で、昔から一緒にいくつかの仕事をともにしたことのある、グラフィックデザイナーのMさんだった。彼はデザイン業とは別に、会議やワークショップのファシリテーションも得意とする人だった。今回のような込み合った案件を整理していくには、ファシリテーションの技術を持ち合わせた人に入ってもらう必要があるだろう。Mさんは当時京都に在住していており、さらにWEBデザインをあえて仕事にして来なかった人だったが、半ばすがるような形でお願いした。

プロジェクトに参画してもらったプロデューサーとWEBディレクターとのやりとりは刺激的で充実していた。

ローカルでローカル性のない情報発信

強力な助っ人を得て安心かと思われたが、私の心はなかなか晴れなかった。膨大な企画書とは別に、私が最後まで受け止めきれないことがあったのだ。それは、東京発信のメディアに負けない、浜松発の“全国版”のWEBマガジンをつくりたいという社長のビジョンだった。

面接時には、ローカルメディアに関心と価値を置く考え方に共感したが、新しく立ち上げるメディアでは、全国からの情報を集めるポータルサイト的なコンセプトが打ち出されていた。どこから発信するかというローカル性を表現できない構成。情報だけを集めるのなら、どこでもできる。浜松でやる意義が腑に落ちなかった。

私は編集という仕事を通じて浜松のローカルに根ざしたかった。それが私が憧れていた地方暮らしだったから。ローカルの会社でメディアの編集を仕事にすれば、それが叶うと思っていた。私は浜松でローカルメディアの編集を仕事にしたかった。高い壁を乗り越えられないジレンマ。思い描いていた地方暮らしができないジレンマ。平日は毎晩深夜まで働き、週末は新しい生活を整えるために忙しく、次第にローカルの面白さを探訪する気力も無くなっていったことは痛恨の極みだった。

彼と二人三脚で取り組むブログ連載

東京から彼も合流し、迎えた約束の3ヶ月後、なんとかWEBサイトの公開にこぎつけた。これで一息つけるとホッと胸をなでおろしたのもつかの間。今度はトップページのデザインを変えて欲しいと改修の命がくだった。いつになったら悪夢から目を覚ますことができるんだろう。疲弊しながらも、MさんとSさんとの協働は続いた。

そんな中、個人的には唯一、私が浜松に来てやりたいと思った企画をスタートさせた。それは、街をフィールドワークして、暦ごとにこの地域らしい暮らしを紹介するブログだった。彼と二人三脚で取り組む企画だ。

彼には類稀な俳句の才能があった。東京にいる時から私以上に日々まち歩きをしており、その情景や体験を言葉にする力があった。彼の才能を生かした企画をすることで、彼自身にこの仕事に携わる誇りをもって欲しかったし、ただ私についてきただけではない、彼の存在価値を社長に認めてもらえるという期待もあった。

週末は二人で浜松市内の名所巡りをし、ブログの執筆に力を注いだ。

二人三脚で取り組むこのブログでは、七十二候の暦に合わせて浜松市内近郊の名所を巡り、その季節に合った生活を「暮らしの歳時記 浜松編」として紹介していった。季節感とローカル性を組み合わせ、四季の移り変わりを感じつつ、どのように浜松で暮らすことができるのか。先人からの知恵を借りながら、浜松らしい暮らしを探求していく内容だ。

お月見のときには、小夜の中山を訪ね、静岡県ならではの白玉の真ん中を凹ませた「へそもち」を作る。酉の日にはまちなかにあるお寺の酉の市に出かける。冬至には地元で採れた柚子で柚子湯に入る。桜が開花するときには、浜松最古の神社でこの地発祥の品種の原木を見る……など。

菊の花が開く頃には、浜松の産地直売所で菊を買い「菊枕」を作った。

念願のローカルに根ざした生活。仕事でとことん翻弄されながら、プライベートでは「丁寧な暮らし」を心がけ、さらにそれをコンテンツにするなんて大変ではないと言ったら嘘になる。けれど、私にとっとは「ここでしかできない暮らし」を探求することが、東京から移住した実感を得る手がかりだった。

ところが、この企画もそう長くは続かなかった。それは私の体調不良から端を発したことだった。

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