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繋がりすぎた濃い世界で、私たちはどうやって何を「食べて」いくのだろうか。

気が付けばあっという間に3月末である。月日はどんどん過ぎていく。私自身は、ここまで世界的に深刻になろうとは、というのが素人ながらの体感である。

見る角度と世界

時間感覚的には、「来週からどうしよう(というもの家には小さいこどもがいて甥っ子は小学校に通っているため、初期のころは明日からの生活と仕事どうしよう!?というのが大半を占めていた)」というのが、「来月からどうなるのかな(あのイベント楽しみにしていたのに。とか、あの人に会えるの楽しみにしていたのに。など)」になり、「今年はどうなるだろう(主には仕事の案件はどうかわっていくだろう)」さらには「来年は、世界はどうなっているだろう(そもそも世界の在り方はどうなっているのか)」というところまでの時間スケールの伸びである。

とはいえ。私自身はといえば、もともと自分の内側の世界を掘ったり、逆に高次的に物事を考えるのが好きなため、これもまた何かの「ギフトgift」だと当初からずっと思っていたところではある。(もちろん、悲しくつらい出来事ではあるため、各所で様々な人が様々な思いであることは前提として認知したうえで。)

「gift」の語源は「神から賜るもの」という意味である。環境に関してもそんな側面が早速出てきている。物事は見方を変えると世界もまた変わる。


集まりすぎた濃い世界

疫病はこれまで人類が幾度と経験してきたものであり、そして厳しい戦いであることはご承知のとおりである。そして、疫病がもたらされるようになった大きな原因は人口増加、そして、その根源にあるのは農業である。

以下はビックヒストリー大図鑑からの引用である。

’農業は狩猟採集よりもはるかに多くの人口を養うことができるが、摂取する食品が限られるため、人間の健康にはよくない面があることがわかってきた。人口が増え、いくつもの共同体が密集して互いに関係をもつようになると、様々な病気が急速に蔓延し、甚大な被害をもたらす場合がでてくる。’

’人や家畜が密集しているようなところでは、細菌やウイルスが家畜から人間へと宿主を変えることが容易になる。たとえば麻疹(はしか)は、牛にとっては致命的な病気である牛疫から進化した。’

’狩猟採集民がネズミと接触することはほとんどなかったが、農耕民の定住地は大量の生ごみがでるため、げっ歯類にとっては申し分のない生息地である。’

そしてまた現代、科学とテクノロジーが時代に伴って進化してもなお、このようにあり続ける(流行る)というのはやはり命(病原菌を含む)というシステムはすごいとも思いながらも、やはり、私たち人類はあまりにも増えすぎ密集しすぎたのではないだろうか、という問いがでてくることを否定はできない。

農業とは何なのだろうか。豊かにするはずだったものはそうではなかったのかもしれない。’農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。’などを筆頭に有名なハラリのホモサピエンス全史から。

’人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量を確かに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。’

’では、それは誰の責任だったのだか?王のせいでもなければ、聖職者や商人のせいでもない。犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物種だった。’

そして次の言葉はとても刺さった。

’ホモ・サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ。’

私たちは、豊かになるためにではなく、かえって自らを犠牲にしてきたのかもしれない。

家畜化された「食べる」から、循環としての「食べる」へ

今回の件で冒頭の「来週からどうしよう」の頃、思っていたものの中で大きかったのは、「食べるものをどうしよう」ということだった。物流をはじめとする経済が止まると、食べるものをはじめとする日用品が滞ってしまうことは、災害全般時の常である。けれど、ふたを開けてみたら、マスク(&トイレットペーパー等紙類)パニックは起きているものの、食料品はそこまでではさそうである。むしろ、給食や外食産業で予定されていた材料が余ってしまって困っている、というところである。なんとも悲しい。

たくさんの人を支えるために作られた食べ物(そして農業という仕組み、そしてその後の産業化)たちは、今現在、逆に行き所をなくして余っている、というわけである。

確かに、大規模化・システム化しすぎた農業は、そもそも’繋がり’:それは人の手であり、命の連鎖でもあるのだが、を断ち切ってしまうものかもしれない。分業、高度化し、なにか食べることも作業化されていく感覚になってしまう。

けれど本来、食べることは喜びであり、また、土を触ること、そこで小さく命を回すこと、は原始的な’創造’である気がしている。

一人ひとりが小さく家庭菜園をして・・・という暮らしを全員できるかというとそれは難しいと思われる。かといって諦めるのではなく、「半農半X」という言葉がかつて流行ったが、私たちが離れすぎてしまった「食べ物を作る」ということに対して、今一度、「自分たちの手に戻す」というベクトルを向ける必要があるのだろうと考えている。

円環的進化の中で

円環的進化の記事を以前書いたのだが、

新しく来る周期でポイントになるものの一つが、「食べる」ことの価値やデザインの再構築だと思っている。それは、社会のデザインにつながる。人口を減らしてかつてのように原始的に・・というのではなく、何か新しいやり方があると思っている。

なのでみなさんにぜひ問いたい。

問い:繋がりすぎた濃い世界で、私たちはどうやって何を「食べて」いくのだろうか。










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