【短編小説】 帰りしなに

 吐く息が白く、左頬に当たる風が痛いくらいに冷たい夜、私と彼はコンビニからアパートに向かって歩いていた。こうしてコンビニから並んで歩く帰り道がとても好きだ。恋人同士なのに腕を組むことも、手を握ることもなく2mほどの距離を保って並行に歩くのが私たちの丁度いい、いわば適切な距離だった。

 「今日は月が綺麗だな。」

 コンビニ袋をぶらぶらさせて夜空を見上げながら彼が言った。彼はペットボトル一本でもコンビニ袋を買う人だった。今日は帰って暖かい部屋で食べようと買ったハーゲンダッツが二つ入っている。私は彼にならって空を見上げる。自分が吐いた白い息がちょうど月にかかって少し歪んだ形に見えた。三日月と半月の間くらいの形をした月が星も見えない黒い夜空にポツンと浮かんでいた。

「ねえ i love youを月が綺麗ですねって訳した人って誰だったっけ?福沢諭吉?」

と私は彼に尋ねる。彼は目を細めて笑った。

「なんで福沢先生なの?それは天は人の上に人を作らずの人だよ。月が綺麗ですねって訳したのは夏目先生だよ。」
「そうだ夏目漱石だ。ロマンチストだよね、夏目先生。」

彼は偉人をなぜか先生と呼ぶ。昔の恩師を語るように、自然に先生呼びをすることに最初は戸惑ったが今では気にならない。  

「じゃあ私は死んでもいいわ、って訳したのは誰だったっけ?」
「それは二葉亭四迷ね。」
「ああ、そうだった、ねえなんでその人はフルネームなの?」    
「だって苗字と名前の区切りがちょっと曖昧なんだもん。」

 ちょっと照れたとき左上を向くのは彼の癖だ。その時に見える顎のラインが凄く好きだった。インテリぶっているくせにところどころ抜けている彼から知識はひけらかさない方がいいんだよ、聞かれたら答えるくらいが丁度いいと出会ったころに教えてもらった。私にはひけらかすほどの知識なんて持ち合わせていないので「はあ。」と曖昧にうなずいた記憶がある。

「私、月が綺麗ですねより、死んでもいいわの方が好きだな。なんか凄く重たくて好き。」
「君案外そういうところあるよね。まあ月が綺麗ですねもどうかと思うけど。」
「なんだ、月が綺麗だなって言ってきたから、愛してると言われたのかと思ってたのに。残念。」
「俺はi love youを月が綺麗ですねとは絶対訳さないから。」
「じゃあなんて訳すの?」
「君だったらなんて訳す?」

 質問に対して質問で返すのはズルイ。彼はいつもそうだった。その度に私を少し寂しい気持ちにさせる。少し拗ねながら私は答えた。

「私だったら、君は面倒な人ですね。って訳すよ。」

彼は少し目を丸くした後
「なんで?」
と尋ねた。

「人と人なんて面倒なことだらけじゃない。それさえも愛おしいと思えたら、それは愛以外のなにものでもないでしょう。」

彼はふっと笑いながらもう一度空を見上げた。

「確かにそうかもしれない。君は顔に似合わず繊細だよね。何周も何周も考える。そして自分が必ずしも正しいとは思っていない。人を傷つけるよりも自分が傷つくことを選ぶ人だ。」

褒められているのか貶されているのか、どちらともとれる彼の言葉は胸の奥を温かい気持ちにさせてくれた。今日は彼の腕に包まれて寝ようと心に決めた。

「私ね、面倒くさいって言葉が嫌いなの。投げやりですごく雑。私が繊細なんじゃなくてあなたが図太いだけでしょう、って。あなたは私に面倒くさいって言わないから好き。」

アパートは大通りから2本ほど奥に進む。曲がり角を曲がると街灯が少ない。彼はポケットから携帯を取り出してアプリでライトをひらいた。急に足元が明るくなって夜道に私たちの足音だけが響く。一人でこの道を歩く時は少し不気味で心細いのに、隣に彼がいるだけで違う道を歩いているような気持ちになるから不思議だ。

「ねえさっきの質問の答え教えて。あなただったら i love youをなんて訳すの?」
「え、その話終わったんじゃなかったの?」
「いいから教えてよ。」
食い下がって彼に尋ねると、
「本当に君は面倒な人ですね。」
と左上を向いて微笑んだから私は笑った。


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