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安民的創作論A 奇しくも

 つい最近まで「きしくも」と読んでました。物書き歴2年半の群鳥安民です。
 2年半も創作を続けていると、色々な気付きが得られました。もっとこうした方が読者の胸に響く。それが解ると、自信の作風にも変化が表れてきたかもしれません。

 私は過去に少しだけ演劇を齧ったことがあるのですが、最近になってまたその熱に浮かされるようになりました。今回綴る文章は、小説に留まらず演劇脚本の視点も加えた、マクロな個人の創作論になります。

噺を展開させるには

 物書きを始めた当初、結末を基盤に置いて物語を書いていました。結果的にこうなったらハッピーエンドで読後感スッキリ!というところまで行き着くために、そこまでの過程はおざなりになっていたのです。
 そのような作風だとファンタジー感が強くなってしまい、現実から離れがちな空想に留まってしまいます。それを心得て自作を振り返ってみると、純文学と言うには相応しくない作風だなあと思いました。
 けど、意外な展開に持っていったり、沢山の登場人物で物語を華やかにしたり、そういった青っぽい世界観は、今でも捨てていません。それを維持しながらもっと面白い作品になるにはどうしたらいいのか。答えは、物語の密度にありました。
 結論から言うと、大切なのは、事象の解像度を上げること、因果関係を明確にすることです。

心情描写

 私の初投稿小説は、主人公に関わる女子の意図が、最後にクラスメイトの口から明かされる展開になって終わっています。実は彼女にはこんな過去があって、こういう思惑で動いてたんだよ!って告げられ、ラストシーンで主人公が彼女に会いに行く。賑やかしい青春物語です。
 この、最後に種明かしをして締めに持っていくというやり口は、素人がやりがちな展開なのかもしれませんね。種明かしは物語において一つのインパクトにはなりますが、やはり安易です。もっと読者を惹き付ける肝心な要素を、逃げずに描かなければ勿体無い。でもそれが難しい。

 少女はいじめられていた。苦しんでいた。辛かった。悩んでいた。そして励まされ、生まれ変わった。新しい自分になって、不器用にも想いを伝えようとした。ネタバレになりますが、ざっくりそんな経緯が裏に在ったのでした。
 人が苦悶したり、喜んだり、狂ったり、恋したり。そういう感情をあらわにする状況こそ、読者の関心を惹けるのではないでしょうか。それを後述して明かすのではなく、現在進行形で語らせることが重要です。だってそうでしょう? 「昔は大変だったんだぜ?」なんて自慢じみた苦労話を聞かされるくらいなら、その苦労している様を実際に目の当たりにした方が心に入ってくるじゃありませんか。
 詳細な説明はキャラクターの理解を助けてくれますし、愛着を湧かせやすい。また、何故その様な行動をしたのか因果関係が見えやすくなります。書き手としても、そこを明らかにすれば、見落としていた矛盾が見えてくるかもしれませんし、手を拱くべきではない創作工程なのです。

因果関係

 因果関係を明らかにすることは重要な拘りポイントです。それは、人物の行動に留まりません。どうしてその様な事象が発生したのか、物事の仕組みを解きほぐしながら解説していくこともまた、心情描写と同じでリアリティを高めてくれます。極論、自然災害や宇宙人の登場なんて奇々たるものまで説明し尽くそうと思うと、学者並みの知識が要求されますがね。そこまで拘れるようなら、物語に信憑性が出てくるでしょう。

「君にめぐりあえた奇跡」なんて言われますが、それだけじゃ薄っぺらくないですか? もし出逢えたAさんとBさんが、国交の無い別々の国で生まれていたら。中世と現代という別々の時代を生きている人間だったら。バックグラウンドを明確にしていくことで、奇跡の尊さが重くなっていきますよね。
 ところで、奇跡と呼ばれる事象にもまた、それ相応のバックグラウンドがあるわけでして。そこら辺をもうちょっと深めていきましょう。

私達は自分が主人公の物語を生きている。

 よく言い囃されるお題目ですね。ということは、私達もまた何らかの主に創作された存在ということになります。ここではその主の事を「神」とでも呼んでおきましょう。
「神様はなんて薄情なのかしら」なんて、現実を生きる人間の科白であっても、上記を踏まえると、私にはそれがメタ発言に思えてなりません。物語を生きる登場人物が、創作主である神に対して物申しているのですから。
 広く捉えるなら、神的な宗教の話をすること、自分の人生を客観的に俯瞰することもまた、メタ的な行為なのかもしれません。

「これは奇跡だ!」って出来事に出くわしたことはありますか?「奇」跡に遭「遇」することを「奇遇」と謂いますが、奇跡そのものと、それに遭遇することは別物と考えるべきです。
 奇跡に遭遇することを奇遇という。これを命題として、奇々怪々な運命の筋道を数学的に見ていきましょう。

逆:奇遇→奇跡に遭遇

 逆として、奇遇とは、奇跡に遭遇しているわけです。
 例えば、100万人に1人、100万円が当たる抽選で、自身が当選したとしましょう。奇遇ですね。では、誰かに100万円が当たること自体は奇跡でしょうか? 違いますね。必ず当たるシステムなのですから、当然必然でしょう。
 これだけの情報では、事象の解像度が粗く、奇跡とは呼べません。物語らしく奇跡たらしめるには、その抽選が行われた奇特な経緯を詳細にする必要があります。それが次です。

対偶:奇遇でない→奇跡に遭遇していない

 対偶として、奇遇とは言えないなら、奇跡に遭遇したわけではないのです。
 100万円の抽選会。これはどうして行われたのか。実はこの100万円、100万人のギャンブラーから1円ずつを貰い受けたもの。100万分の1の確率で100万円が当たるなら、1円なんて惜しくもないでしょう。これを企画したのはとある陰謀を企む謎の男。抽選会は成功。もう1度開催してくれと騒ぐギャンブラー達。男はこう提案する。「次回、掛け金は好きな額にしていい。掛け金が大きいほど、当選倍率は上がるぞ」挙ってギャンブラー達は金を投じる。陰謀男は確信する。これで親父の借金を返せる、と。
 な~んちゃって。今、さらっと考えた架空の噺です。ここまで見えてくるとどうでしょう。闇の裏側を知ることで、降って湧いた様に行われた抽選会(カジノ)にリアリティが増しましたね。また、自身がギャンブラー、若しくは陰謀男の関係者か、遭遇した経緯も明らかになれば、自身がこの抽選会に参加する道理も腑に落ちるでしょう。

 命題の対偶の真偽まで明らかにしたところで、奇跡と奇遇の理を感じていただけたかと思います。

視点の違い

 疑問に思われた方はいますでしょうか。「奇跡って説明がつかないものなのに、説明することでリアリティが出るってどういうこと?」って。
 ここで、言葉の意味を整理しておきましょう。

【奇跡/奇蹟】常識で考えては起こりえない、不思議な出来事・現象。

デジタル大辞泉

【奇遇】思いがけなく出あうこと。意外なめぐりあい。

デジタル大辞泉

 奇跡、奇遇には、とちらも「奇」が入っているように、予想外の不思議な出来事に関わるものです。しかし、奇跡が発生した足跡、その「奇」を説明するのは誰なのか。それは、奇跡を起こした創作主です。そして、奇遇の「奇」も同じです。当事者から見れば不可解な繫がりかもしれませんが、創作主から見れば全て仕組んだ事柄に過ぎません。
 ここで、「神」の話に繫がってくるわけです。これは信仰的な思考ですが、私達は神の采配によって、人生という舞台の物語の中で踊らされているわけです。人は神の手によって作り賜われたものだとしたら、説明のつかない自然現象も、私達が自分の意思でしていると思っている所作も、神のプログラミングによるものなのかもしれまん。

 ボカロとボカロpの関係もこれに相当するものがあると思ったので、関連する楽曲を貼っておきます。

ピノキオピー - 匿名M feat. 初音ミク・ARuFa / Anonymous M

 奇跡と遭遇。心情描写と因果関係。その解像度という明白さ。
 登場人物と創作主(当事者と神)。その視点の違い。
 あくまでも私論ですが、ご理解いただけたでしょうか。説明が下手なんで伝わらなかったかもですが、要するに、客観的によく観察してみれば面白いんじゃない?っていう。そんな作家の戯言でした。

蘇生?

 最後に、最近私の身に起こった奇遇を1つ。
 以前、自殺する夢を見ました。私は希死念慮を抱えているので、そんな夢を見るのは尤もでしょう。問題はその死後です。夢は自分の頭の中で繰り広げられるものですから、自分が知り得る範囲内での展開しか起こりません。つまり、死んだ後の状態を夢見ることは不可能なんじゃないか、ということです。
 単なる夢なら良かったのですが、この時、私の呼吸が止まっていました。現実に。私が睡眠時無呼吸症候群を発症するようなことは、今までありませんでした。
 これは呼吸停止が自殺の夢を見せたのか、自殺の夢が呼吸停止の引き金になったのか。その因果関係は私には判りません。
 ですが、こうして執筆していますので、無事目は覚めたわけです。あの時、夢の中で心臓マッサージをされたことを覚えています。魂が抜けていく寸でのところで、自分が心臓マッサージをされる状況を俯瞰していました。何であれ、夢がその展開にならなければ、私は永遠に目覚めなかったのかもしれません。
 では、どうして心臓マッサージをされる展開になったのか。憶測ですが、合理的な身に覚えがあります。
 その日、眠る前に、自宅でテレビドラマが点いているのを見ました。それは「CODE 願いの代償」で、坂口健太郎さんが必死に心臓マッサージをしているシーンでした。
 これは奇遇ではない。私は納得しかけましたが、その偶発性を更に遡ってみました。テレビを点けたのは父。父は在宅中、必ずテレビが点けるテレビっ子です。では、それがCODEだったのは偶然か。父は番組というよりテレビを見たくて点ける節があるので、CODEを意識的に点けたわけではないと思います。
 もっと飛躍します。何故、CODEがこの時期に放送されたのか。何故、人は演じるのか。何故、テレビというものが発明されたのか。何故、私の両親は出逢ったのか。もうキリがありません。
 この一件だけで、私の推測し得ない奇遇は無数に存在します。奇跡というものは、思いがけないめぐり合わせが束になって起こるものなのですね。


 あなたに伺います。あなたが生きているのは、本当に奇跡ですか?

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