『閃光のハサウェイ』を観る前に考えていること。
劇場作品『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』が、2021年5月7日に公開される予定だ。まだ少し先のことなのだが、原作小説を読んだり、YoutubeでPVを観たりしていて考えたことが、すでにいくつか出て来た。
まだ本編を観てさえいないわけで、もちろん印象批評の誹りを免れ得ない。なので、これは「論」と呼びうるほどのものではなく、単なる「見る前に考えていること」以上のものではないということだけ、留意していただきたいと思います。
◆ハサウェイの年齢
主人公のひとりであるハサウェイ・ノアは、宇宙世紀0080年生まれの青年。作品舞台は宇宙世紀0105年なので、年齢は25歳ほど。
小説版『閃光のハサウェイ』(富野由悠季・著、角川スニーカー文庫)が刊行された1989(平成元)年にハサウェイと同じ25歳だった読者というのは、ちょうど、テレビ版『機動戦士ガンダム』が放映された1979(昭和54)年のとき15歳だった世代に当たる。
具体的には、1964(昭和39)年生まれの世代だ。
25歳のハサウェイという存在自体が、富野由悠季の作品需要者意識の表れであるとともに、小説『閃光のハサウェイ』が、ファースト・ガンダムの対象としていた視聴者にむけて仕掛けられていたことを窺わせている。
今回、劇場版『閃光のハサウェイ』の監督を務められる村瀬修功さんが、ちょうど1964年生まれであることを考えると、映画版『閃光のハサウェイ』というのは、《最初の》ハサウェイ・ノア=小説版のハサウェイ=1960年代半ば生まれ世代が親目線で生み出す、次の世代のハサウェイ――正統な《第2世代》ハサウェイ像を示すのではないか。
そして〈第2世代ハサウェイ〉は、1960年代生まれにとっての子ども世代である1980年代半ば生まれから、現在25歳前後となる1990年代半ば生まれあたりを、メッセージの受け取り手として想定していると考えることはできないだろうか。これは、2010年代に『機動戦士ガンダムUC』の受け取り手であった世代と、当然ながら重なっている。
もし小説版と映画版に大きな相違が見られるとしたら、これが読解するひとつの鍵になるのではないか、と考えられる。
◆マフティー・ナビーユ・エリンについて
反地球連邦組織「マフティー・ナビーユ・エリン」の目的が、同様に反連邦だからといって、いわゆるジオン系の組織と同じでないということについては、留意しなくてはならない。
ジオン公国軍の残党組織を始めとして、地球連邦に対する戦闘行為を行った者たちが非常に多くガンダム作品には登場するが、それらは国家vs国家とは見做されなかったために、テロリズムとして片づけられたに過ぎない。
ジオン”軍人”たちはどう心を整理したとしても、連邦政府に「反省」を促すために攻撃したなどという表現は、使用できなかったはずだ。
彼らが望んだのは連邦の降伏であり、本音を言えば連邦の破壊だった。
でもマフティーは連邦を破壊しようとは考えていない。彼らの望みは連邦政府の腐敗を正すことであり、彼らの目的は、連邦組織の浄化である。彼らは実のところ、潜在的には連邦を愛している。〈あるべき姿〉の、連邦を。彼らは連邦政府の権力機構自体を批判する気がない。批判しているのは、その力の使い方である。
だから、「テロリズム」という言葉でマフティーを捉えるのは、『閃光のハサウェイ』を単純に《国家vsテロ組織》の物語――『ガンダムW』や『ガンダム00』に近いものとしての――であるという誤解を生む可能性がある。特に、2000年代に〈テロとの戦い〉を、2010年代にISIL/ISISを目の当たりにしてきた現代では。
マフティーの目的は、過激で大規模だが(暗殺を正統化している点が見解を分けることになるだろう)、言ってしまえば〈デモ活動〉に近いものであって、つまり、理念的にはリベラルなものに近い。新左翼的なものに近い。卑近な例でいえば、反抗期の中学生のような。彼らは本気で〈親〉の破滅を望めはしない。〈親〉の破滅は自分の破滅に直結している。
だから『閃光のハサウェイ』は、《国家vsテロ組織》の物語であるとともに、《体制 - 前世代 vs 体制内に存在せざるを得ない青年》の物語であり、究極的には、《父vs子》の物語に行き付いてしまう。連邦の軍人であるブライト・ノア――そのかわりとしてのケネス・スレッグ――と、”反”連邦組織のハサウェイ・ノアの物語に。
◆ハサウェイの生年と、作品テーマ
宇宙世紀0080年生まれのハサウェイは、以前、1980年前後生まれ世代との重ね合わせが行われたのではなかっただろうか?
テレビ・ゲーム『SDガンダム GGENERATION』シリーズにハサウェイが初登場した2000(平成12)年、彼は20歳となる1980年生まれとほぼ同年代の青年として画面の中にいた。
彼を、1.5世代ハサウェイと呼ぼう。
彼は、病んだ1990年代に青春を消費し尽くした、当時の就職氷河期世代として発話しえた。
では、第2世代ハサウェイの叫び――
「じゃあ教えてくれよ、この仕組みの深さを破壊する方法を――」
という言葉は、果たして、1980年代~1990年代生まれ世代による如何なる発話たりえるのだろう?
宇野常寛『母性のディストピア』(2017)の「序にかえて」にあるような、「グローバル/情報化の急速な進行と、そのアレルギー反応としてのナショナリズムの噴出」への失望だろうか。「政治は茶番と化して久しく、経済においてはかつての工業社会下で「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれた頃の肥大した自己像を引きずった人々が[……]座して死を待つだけの状況にありながら、そのことから目を逸らしている」社会状況に対する怒りだろうか。
予想されていた東京五輪による経済的恩恵も、流行り病によって期待はできなくなったいま、前出書の指摘はほぼそのまま2021年にも当てはまるのかもしれない。
小説版のハサウェイ=1960年代生まれ世代は、まだ豊かだった世の中に心を浸しながら、その豊かさを生み出している社会の歪みや市民の管理体制に対して、嫌悪することが有効でありえた。将来に希望を持ちながら、市民であるにもかかわらず社会に「反省」を煽ることに、心酔さえできたろう。
だが、今はむしろ流行り病への対応に対する人々の態度をみても感じられるように、政府の管理体制にむしろ縋るような世論の情勢がある。社会に「反省」を煽る態度など容易い。それは将来に希望がないことの裏返しだ。
『閃光のハサウェイ』のテーマ――〈体制〉に対するマフティーのテロリズム――は、小説発表当時と比べ、現在の方が、格段に重く響く。
◆作品受容の戦略について
『閃光のハサウェイ』は、『ガンダムUC』『ガンダムNT』に続く、宇宙世紀の次の100年(宇宙世紀0100年代)を描くという「UC NexT 0100 PROJECT」に連なる作品だ。3部作のあとには、宇宙世紀0123年が舞台の『機動戦士ガンダムF91』が控えている。
本稿が述べていることはけっこうシンプルで、ようするに、富野監督世代と、ファースト・ガンダムを受容した第1世代(映画版『ハサウェイ』の作り手の世代)と、そして1980~1990年代の視聴者・読者という3つの世代をまず認識することが、映画版『閃光のハサウェイ』を読解するためには必要で、この3世代の視座を混同しないようにするだけでもかなり分析の助けになるのではないか? というものだ。
ここで、『閃光のハサウェイ』の映画化に際し富野由悠季さんが寄せたコメントについて触れておこう。
「すなわち、大人になったガンダムファン世代は、ファンの力だけではリアリズムの閉塞感と後退感を突破する力はなかったと自覚もしたからこそ、その申し送りを本作に託していらっしゃるのではないかとも想像するのだ。
アニメがリアルである必要はないのだが、映画という公共の場に発表されるものであるのなら、少なくとも幅広く若い公共に響くものであっても良いのではないかと信じるのである。
製作する世代が若くなり、それを享受する観客がさらに若くなれば、それら次の若い世代が、いつか人の革新――ニュータイプ――への道は拓いてくれるのではないかと信じるのである」
このメッセージ末尾で、富野さんは、上の引用にあるように自分より若い、2つの世代を明確に意識されていることがわかる。映画版『閃光のハサウェイ』の送り手自身も、明確に意識しているだろう。
観る者だけがこれを意識していなければ、滑稽にすぎるかもしれない。
富野由悠季は、1941(昭和16)年に生まれている。60年安保世代と70年安保世代に挟まれた世代、といえるだろうか。
小説家でいえば、60年安保世代の大江健三郎が1935年生まれ。柴田翔が1935年生まれ。庄司薫が1937年生まれ。70年安保世代としては、1948年生まれの三田誠広や、同じく1948年生まれの橋本治、1949年生まれの村上春樹がいる。どちらかと言えば、60年安保世代と近い。
大学時代に60年安保闘争の〈敗北〉を目の当たりにし、20代で70年安保の〈失敗〉を見てしまった世代だ。リベラリズムでは世界が簡単に変わらないことに気づいてしまった世代。それでも、彼はハサウェイとマフティー・ナビーユ・エリンについて書いた。おそらく、書かざるを得なかった。
2021年、令和という時代にそれが未来へのバトンになろうとしている。留意しなければならないのは、3つ目の世代だけ、”変数”だという点だ。
25歳の青年は現れ続ける。2000年代生まれも、2010年代生まれも、第3のハサウェイとしてその映画を観ることになるだろう。
だから、第3、第4のハサウェイは現れ続ける。
メッセージで、富野さんが「いつか」と述べているのはそのためだ。
映画版『閃光のハサウェイ』を観た世代は――その何割かは――原作小説に遡行するだろう。そうすることで、最初のハサウェイ=1960年代生まれ世代に出会い直す。その何割かはさらに遡って、富野作品に出会い直すことになるだろう。
感傷的過ぎるのかもしれないが、これが、ひとまず『閃光のハサウェイ』を観る前に私が考えたことである。
こうしたハサウェイというキャラクターの生まれ直しと、受容者の過去への遡行という現象に、ニーチェの永劫回帰を想起してもいいし、それを発展させた(んだと捉えてるんですけど、違っていたら教えてください)ジル・ドゥルーズの『差異と反復』(1968)の「一者」議論に引き寄せてもいいかもしれない。
もしかしたら第2弾もあるかもしれません。他のキャラに触れられなかったので……。
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