ちゃんとできなくても、起き上がれなくても、それでもここまで生きてきた事があなたが頑張ってきた証。

1.弱者という人間はいない。

社会というコミュニティの枠組みから外れたり
外れないようにと無理を重ねる。
「それが社会だから」「普通のことだから」と
いくつもの順応すべきルールやハードルが立ちはだかる。

それらのルールやハードルにうまく順応できない人
そのために心を病んだ人の事を「弱者」とみなす傾向がある。

ルールに順応する事ができないものは、心を病むものは「弱者」だろうか。
人間は状況次第で「弱者サイド」にも「強者サイド」にもなる。
自分は「弱い人間ではない」と言い切れる人
「努力が足りない」と簡単に他人に言える人は
たまたま報われる環境にあっただけなのではないだろうか。

自分が現在どういう状況にいるかは、その時々の環境に大きく左右される。
どんな人でも困難な環境下で育てば、それ相応のトラウマや傷を抱える。
前回noteに投稿した怪物のように
家庭環境や子供の頃についた傷は大人になっても影響を及ぼす。

傷ついた心の声を無視され、人から軽蔑され、なかった存在、
もしくは腫れ物のように扱われれば
心が凶器となり他人や自分自身に向かうことは想像するに難しくない。

そして凶器が自分自身に向き命を落とす人は
2019年の日本では1万9959人にのぼる。先進国7カ国の中で最下位だ。
世界では少なくとも年間約80万人が自殺している。


2.どんな境遇にあろうと、人間としての尊厳を捨てない。

2016年、第69回カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した
ケンローチ監督「わたしは、ダニエル・ブレイク」

働くこともできず
国からの支援をうけることもできない主人公、ダニエル・ブレイク。


ひょんな事から知り合った片親の貧困に苦しみながら生きる家族と
苦しい生活の中で互いに支え合う。
身近な存在、声がけや自分にできることでサポートしあう姿は、
そこにいるだけで心が温かく生き続けるための希望となる。

しかし支え合うだけでは暮らしていけない現実もある。
好きで生活をする事が困難になった訳ではないのに、
好きで働けなくなった訳ではないのに、
生活をするための援助を受けるための大きな壁が行く手を阻む。

ダニエルブレイクは映画の終盤、手紙にこう綴った。
”私は依頼人でも顧客でもユーザーでもない。
怠け者でもたかり屋でも物乞いでも泥棒でもない。
地位の高い人には媚びないが隣人には手を貸す。
きちんと税金を払ってきた。施しはいらない。
私はダニエル・ブレイク。
人間だ。犬ではない”

ーどんな境遇にあろうと、人間としての尊厳を捨ててはいけない。ー


3.生きているだけで戦っている

「障害や病気があるのに支援を受けられない」という問題は
多くの若い人にとっては少し他人事のように感じるかもしれない。

けれどはたから見れば’普通の人’だとしても
「日常生活の中で薄っすらと、でも確実に存在し続ける生きづらさ」
を持つ人は、沢山いる。

以下に掲載するコラムニストのアルテイシアさんが
自身の会社員時代にあった理不尽な出来事、自分を追い詰めた日々は
そんな日常の中に生きづらさを持つ人達の(特に女性の)共感を呼び、
勇気づけられるものだ。

以下、コラムから一部抜粋。

”「女は子供を産むからな」と進学や就職で差別され、
産休・育休を取ると迷惑がられる社会で「じゃぁ子供を産まない」
と選択すると「けしからん、わがままだ」となる。
「女には期待しない」「がんばっても無駄だ」と頭を押さえられ
頑張らないと「やっっぱり女は仕事ができない」と見下される。
そんな地獄を次世代に引き継ぎたくない。
だから私は声を上げ続けるし、同時に下の世代の女の子たちに言いたい。
「こんな地獄で、生きてるだけでえらい!!!」と”

シギの弱者の歌詞にある

"誰だって自分に嘘をつかずに生きていれば

心がひどく落ち込んで

病んでしまう時だってあるさ

それは弱い人間じゃない

頑張って来たってことだ

「何も頑張れてない」って

自分を責めるかもしれないけど

ここまで生きてきたそれだけで頑張ってきた証だ"

            ーシギ「弱者」よりー

という部分と、アルテイシアさんの主張が重なるように感じた。

人間は誰でも間違える。転ぶ時もある。
立ち上がれなくなる時もある。
そういう時があるだけで、その人そのものが弱い訳ではない。
ダメな訳ではない。決してその事を忘れたくない。
人間は強くもあり、弱くもある。
自分が辛い状況にある場所から逃げることも、
自分を生かすための戦法のひとつだ。

4.生きやすい社会を目指すことは甘えではない。

「昔の日本はもっと大変で苦しいものだった、甘えだ」
そんな声もあるだろうと思う。

昔より今が良くなったから、現状を我慢するべきだとは思わない。
むしろ、先人の人が昔より今を良くしてくれたのなら、
今よりもさらに未来を良くしようと今を改善していく事が、
自分だけではなく未来を生きる人にとっても大切な事だと感じる。
現状を甘んじて受け入れ、我慢し苦しむ必要はない。
常に良くしようと進化する事が生きるものの自然な欲求だ。

傷ついたものに鞭打つ人は、
鞭打つ人自身が優しくされなかった環境にあった可能性もある。
「社会は辛いものだ、大変だ」とハードルをあげ、そのままにしておくのではなく「社会は辛いのが現状かもしれないけれど、私と私の周りの環境だけは自分や人の弱さを受け入れ手を差し伸べあえる環境にしていこう」という意識を持つことが、互いの生きやすさに繋がるのではないか。

しかしそう思えるためには、
自分の心の声に納得して生きていることが必要だ。
自分が自分に納得できないまま生きていると、
自分を尊重できない故に人が自分を生きることも尊重することができない。

自分が選択できることは、自分の心で選択していく。
そこに抵抗がある場合は、何が自分を素直に生きさせないようにしているか
過去の出来事を振り返って紐解いていく必要がある。

誰よりも自分は自分と生きてきたのだから。
いろんな人がいろんな事を言うけれど
辛いことも楽しいことも、一番知っているのは自分自身なのだから
自分をどう生かすかは、自分が決めていいこと。
誰かに主導権を手渡して、気遣って無理をして苦しまなくていい。
自分で自分の人生を選択していく事は甘えではない。
自分を生かすための責任ある行動だ、それくらい強く言っても
おかしくはないと思う。




自分を生きたいと願う人や、社会で心を削られてしまった人が思っている本当の声を隠さずに歌に残していきます。人が自分の人生を自分で生きていくことを音楽で支持していく活動をします。どうぞこの活動を広げるサポートをお願いします。