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自己紹介

はじめまして。
友重 徹也(トモシゲ テツヤ)と申します。
1977年生まれの46歳です。

私は現在人材サービス企業でスキルシェア領域の
法人営業の人と組織を創ることと併せ、
複業としてプロコーチを目指し、コーチングをMindset Coaching Schoolで学んでいます。

今回はそんな私の自己紹介をしたいと思います。

どんな想いを持っていて、なぜ今複業でプロコーチを目指し、学んでいるか。

これまでの人生を振り返りつつ、お伝えします。

私の目指す社会

「生涯現役で、活き活きとはたらく人を、世に増やす」
私が実現したい社会であり、想いです。

私は、はたらくことが好きです。
仕事を通じて今まで多くの出会い、喜び、
挫折、悲しみも経験しました。

そんな仕事の喜怒哀楽の総量が、
私の幸せに繋がっていると断言できます。

そんな大好きな「はたらく」という行為を、
ずっとしていたい、心からそう思っています。

だからこそ、人材サービスの会社で20年、
その未来を創るために仕事をしてきました。

人生100年時代と言われる今、
私たちの人生は長くなっています。

社会問題になっている、医療費や年金、
労働生産人口の減少、孤独など、高齢化社会の
問題も、健康で活き活きとはたらき続ける人が
増えれば、多くが解消できるのではないでしょうか。

いつまでも仕事に恋して、はたらき続ければ、
お金の心配も少なく、健康も維持でき、
幸せな人生を送ることができる、
私はそう信じています。

なぜコーチングを学んでいるのか

そんな私がなぜ今、複業としてコーチングを
学んでいるのか?
疑問に思われる方もいるかもしれません。

私は今人材サービス会社で、スキルシェアリング
領域の営業組織を預かっています。

どんなサービスかといえば、新規事業、人事、
DX、マーケティング、技術など各領域の
プロフェッショナルの方々の力を借りて、
企業の経営課題を解決する、そんなサービスです。
「スキルを開放し、社会を多様にする」を
パーパスとしています。

自ら希望して異動し、この事業に携わってから6年。
充実感もあり、仲間と共にこのサービスを社会へ広めていく中で、以下のような疑問を抱くようになります。

「自分はスキルを社会に開放できているのか?」
「会社の看板を外した時に、一個人として何を社会に提供できるのか?」
「今の状態が続いたとして、生涯現役で活き活きとはたらけるのか?」

その問いを自分に投げたとき、出てきた答えはNO。
できてない。

だから、自分自身が複業としてプロコーチを
目指すことにしたのです。

ではなぜコーチングなのか?
正直に言えば、最初は「直感」。

元々、私は小学生から大学まで何かしらの
スポーツに携わり、自分もチームも、
持っている能力を高め、同じ目的に向かって
進むそのプロセスが、どんなにしんどくても
結果に関係なく、大好きで続けていたこと。

後ほどお伝えする、コーチングでいう
「want to」でした。

なので、これをキャリアやビジネスも
含めたオールライフで人の能力を開花できる
コーチングに惹かれた、ということが
言語化できたのは少し後の話です。
(直感ってすごい)

そして、実はプロコーチを目指すのは
今回が初めてではありません。

約10年ほど前にもスクールに通い、
知識と技術を学び、実際にクライアントさんも
持つこともできました。

ですが、その後継続することができず、
プロコーチになることは封印していました。

「自分には向いてなかった。会社のメンバーたちに提供できれば十分」

そんな言い訳を自分にしていました。

今思えば、その時私に足りていなかったのは
知識でも技術でもなく、私自身のコーチとして生きる
「覚悟」が足りなかったのだと分かります。

そんな私が、改めて自分の人生を生きるため、
本業の仕事の前後や休日の時間をかけてでも、
何をやりたいか?

自分の本音に問うと、答えは
「コーチング」しかありませんでした。

なので、改めてコーチングを学ぶ場所を探し、
出会ったのが
Mindset Coaching Schoolでした。

このスクールで学ぶコーチングとは、
無意識にはたらく脳の仕組みを利用して、
やりたいこと(want to)をもとに、
ご自身で設定するオールライフのゴール実現を
お手伝いをするものです。詳しくは、後ほど。

今はスクールで学んだこと、理論を、まずは
自分自身へ実践して、人生が動いていくパワーを
体感しつつ、クライアントの方へのセッションを
開始。

スクール期間といえど、
本気のコーチングセッションを提供しています。

幼少期

ここからは、私の人生を振り返っていきます。

生まれは岡山県岡山市。家族はサラリーマンの父と専業主婦の母、4歳上の姉との4人家族。

生まれは岡山県なのですが、父が転勤族という
こともあり3歳で広島へ引っ越しへ。

母は生まれ育ったのが岡山、姉も既に友人も
できていたので岡山を離れるときに涙した
そうですが、3歳の私は新たな地への引っ越しを
喜んでいる様子だったとのこと。
記憶はとても断片的にしかありません。

幼稚園~小学生時代

引っ越しした広島で幼稚園に入ると、
友人たちと遊ぶのが好きで好きで仕方なく、
早く幼稚園へ連れていってくれと母に毎日
お願いし、ジャングルジムで友人の登園を
待っているような子供でした。

小学生になると、地域に強豪サッカークラブが
あり、2年生になると当然のように自分で
入りたいと親に申し出て入部を決定。

なぜだったかは全く覚えていませんが、
ごく自然に入部したことだけは覚えています。

全国大会に出場するようなチームだったので、
小学生ながら平日も休日も、暗くなってボールが
見えなくなっても、コーチたちの車のライトを
つけて練習するような環境でした。

その練習後、上手な仲間は選抜され、
ナイター施設がある上級生のグランドへ
向かうのですが、当時サッカーをしていたにも
関わらず、ぽっちゃり体型で並の運動神経の私は
当然呼ばれることもなく、ナイター練習場へ
向かう友人をただただ羨ましく思っていたことを
覚えています。

そんなごく並の選手だった自分は、
「とにかく練習は休まない」
ということは自分で決めていて、大雨で低学年の
練習は任意となった時も休まずグランドへ向かい、泥だらけでボールを追いかけていました。

小学4年生になると、父の転勤で
今度は愛知県名古屋市へ。

物心ついてからの転校は初めてだったので、
この時は友人と離れること、並の選手ながら
好きだったサッカークラブも辞めることになり、
今度は私も涙したことを覚えています。

転校した名古屋でショッキングだったのは、
「方言」。

当時の私は父が広島出身、母が岡山出身で
家庭内は広島弁か岡山弁しかなかったので
それが標準語。

そんな私へ、大いに名古屋弁を話す友人に
「変なことばしゃべってる!」と笑われた衝撃は
今でも覚えています。

「おまえも訛ってるのに!(心の声)」。

「郷に入っては郷に従え」という言葉を
小学4年生ながら叩き込まれた瞬間でした。

でも子供は柔軟なもので、小学校の部活で
サッカーや野球をしていると、ごく自然に
その後名古屋弁を私も話していました。

そして小学6年生になると、またまた父の転勤で
今後は東京へ。

東京ということで少し構えていたものの、
日野市という西東京の比較的のんびりした
地域だったこともあってか、あまり抵抗なく
受け入れられました。

当時私は発育が早く、小学6年生で
伸長173センチと大柄だったので
その影響もあったかもしれません。

そして続けていたサッカーは、地域のクラブチームだと小学6年生からの入部は認められず、
地域の野球チームへ。

大柄な体型を活かし、ヒットは年間でたった
6本しか打てませんでしたが、うち3本は
ホームランという「一発屋」の野球少年でした。

この小学生の転校を繰り返した体験から、
周囲の人と様子をみつつ、人と環境に馴染むということは自然と鍛えられたのだと思います。

中学生時代

中学生になり、選んだスポーツは体型を
活かせると思い、バレーボール部へ。

ここで覚えているのは、中学生ながら
練習内容や方法を私たちに任せてもらえたこと。

同級生はそれぞれ個性はありながらも、地域のライバルチームに勝って都大会へ行く!という
目標は一致していたので、先生がいなくても
真面目に練習していました。

当時の顧問の先生は、そんな私たちの様子を
陰から見守る暖かな方。

思えば、自分の能力を高めつつ、
チームの能力を高めること
に面白さを
見出したのはこの時からです。

高校生時代

高校は中央大学附属高校へ。

とてもラッキーなことに、私は学級委員や
運動会で応援団長をやるなど先生に気に入られており、当時あった「指定校推薦」という通っていた
中学校で1つだけの枠を射止めて入学することが
できたのです。

高校は極めて自由な校風の男子校(当時)で、
学生服なし、茶髪にピアスも問われない高校。

しかし入部したバレーボール部は、
超スパルタで学ラン必須でした。

顧問の先生は全日本のコーチも経験された、
還暦間近とは思えない活力と情熱溢れる方。

練習は週7日、合宿は年3回(合宿へ向かう電車は
地獄行きにしか思えませんでした)、練習中は
水も飲めず、トイレで水を飲んでいました。
当然のように厳しいご指導をたくさんいただくことに。

中学時代とはうって変わって、超がつく
スパルタ指導。最初15人いた同級生も、
半年もすれば半分の8人になっていました。

選手としてはごく平凡ながら、同級生が
減ったのと、身長が180センチあることだけで、
なんとかレギュラーになっている、
そんな選手でした。

それでも、当時全日本のエースだった
中垣内選手に憧れ、フォームを真似して
練習をしていたことを覚えています。

そして、この超スパルタ指導の環境下でも、
私は練習を休むことは1日もありませんでした。

辛くてしんどいけど、練習を休むことは
逃げるようでイヤ。

そして何だかんだと、チームで切磋琢磨し
目標に向かっていくプロセスは好きだったのです。

お陰で、高校3年間を皆勤賞で過ごすことができ、
心身を鍛えてもらいました。

この3年間は、私に大いに自信を与えてくれました。
「あれだけきつい環境でも、逃げずにやり抜いた」と。

大学生時代

附属高校からそのまま中央大学へ進学し、
今度はラクロス部へ入部します。

中央大学のバレーボール部は大学の中でも
1部強豪チームだったこともあり、そもそも平凡な
選手だった私は大学から始める人が多いスポーツであれば活躍の可能性があると考え、バレー部の同級生が先に入部していたラクロス部へ。

※ちなみにラクロスは、男子と女子でルールも
人数も違い、男子はアメフトのようにヘルメットと防具をつけ、棒の先についている網を使ってボールを扱い、ルールはアイスホッケーのようなスポーツです。

当時は監督もコーチもいなかったので、上級生が
練習を考え、チームをマネジメントするという
学生主体の環境でした。これがよかった。

大学3年生になるとチームを動かす側になり、
私は副キャプテン兼ディフェンスリーダーへ。
ディフェンス面でのチーム戦術を考え、教え、
組織能力を高める役割となりました。

これが非常に面白かった。
どうやれば個人の能力を引き出し、チームとして
最大のパフォーマンスを発揮できるかを考え、
実行することが楽しくて仕方がありませんでした。

大学3年生の時に、当時の関東2部リーグから
1部リーグへの入れ替え戦に全国からOBが
集まってくれ、勝利した瞬間にグランドで
みなと抱き合った時の高揚感は、今も強く印象に
残っています。

そして就職活動を終え、復帰した大学4年生の
最後のリーグ戦前。

いよいよラストシーズンと意気込んでいた時に、
アクシデントは起こります。

練習後の居残り練習でオフェンスとディフェンスで
1対1の勝負をしていた際、相手のステップに合わせて身体を反転させた際、膝を強烈に捻り、激痛で
しばらく起き上がることができません。
左膝十字靱帯を断裂したのです。

ご存じの方も多いかもしれませんが、靱帯は
自然治癒はしません。

なので、治すとなると手術が必要です。
復帰までは6ヶ月以上。

それは即ち大学ラクロス選手として引退を
意味します。

私は手術をしませんでした。

テーピングをガチガチに巻いて最後の
3試合だけリーグ戦に出場。
この時はもう「気合と根性」でした。
高校のスパルタ教育が活かされます。

なんとか前年昇格した関東1部リーグ残留は
死守して、私はラクロス部を引退をします。

ラストシーズンは苦しい状況ながら、
大学4年間はこのラクロス部のお陰で天国も地獄も
味わい、非常に充実した時間を過ごすことができました。

社会人時代(損害保険会社)

私が社会人になったのは2000年。当時就職氷河期と言われる時代で就職活動にはとても苦労しました。

受けても受けても内定をなかなか得ることが
できず、メンタル的にも追い込まれていました。

そんな時、後にも先にも一度だけ、
父がドライブに誘ってくれて二人で近所を走り、「やれることをやるしかない」と気持ちが
落ち着いたことを覚えています。

そんな苦労を経て内定をもらったのが
損害保険会社でした。

苦労した就職活動でしたが、損害保険会社は
希望していた業界です。

理由は、「先生のような仕事」と聞いていたから。
嬉しかった、というより安堵した、が正直な気持ちでした。

ご存じの方も多いかと思いますが、損害保険は
代理店を通じて保険商品を販売しています。

つまり、代理店が保険を売れるようになるよう、
先生のように教えてあげる仕事、という訳です。

「人の能力を高める」という私の本音で
やりたいことに合致していたので、やりたかった
仕事につけた思いでした。

研修を経て、配属先は仙台へ。

仕事を始めると、実際その要素もありましたし、
そうではなく、極めて泥臭い部分も多分に
ありました。

でも、とにもかくにも仕事を覚えて成果を出す。
そのことに必死でした。当時は土曜日にサービス出勤することなど、当たり前のようにやっていた
時代です。

そんな社会人スタートの1年目、12月最終営業日。

病気により入退院を繰り返していた父が危篤との
連絡が入ります。

「なんとか間に合ってくれ、、、」

祈る気持ちでそれ以外考えることができず、
仙台から東京へ一心不乱に戻りました。

そして病院に到着して半日後、父は天国に
旅立ちました。

享年55歳。

幸い父の最期を看取ることができましたが
この時「人生の終わり」に立ち合い、
命は有限であることをリアリティをもって
認識できたのです。

その後、悲しみを乗り越えるには仕事に
打ち込むことが一番でした。

幸運にも恵まれ、成果を残すこともできました。

ただ、この仕事を続けることを次第に違和感を
覚えるようになっていきます。

「先生のような仕事」の理想と現実。
何か、「社内で生きていくプロ」になっている
感覚。
半期の評価面談事に、この会社ではたらく人の状況を
変えたいと人事部へ行きたいと言っていたこと。

自分は市場で通じるビジネススキルを
身に付け、社会の人事部的役割を担う人材サービス会社へ転職することを決断するのです。

社会人時代(人材サービス会社)

2004年、インテリジェンス(現パーソルキャリア)へ中途入社。

入社への決め手は、上記に加え「はたらくを楽しもう」というブランドスローガン、「人と組織を多様な形で結ぶ、インフラとしての人材サービスを提供し、社会発展に貢献する」という存在意義と、
それを本気で浸透させようとする、ベンチャー
気質でやんちゃだけど、真面目なところが
惹かれました。

最初の配属は人材派遣の事業部。

社会の人事部としての役割を果たし、法人も、
個人のキャリアも支援できる仕事は、社会課題の
解決に繋がり、やりがいがありました。

27歳で中途入社するときに、
「1年でマネジャーへ昇格する」と決め、
早朝から時に終電まで、土日も含めて夢中で
働きます。

そして実際には1年半後にマネジャーへ。

当時の私は人の気持ちをうまく扱うことができず、
衝突を生んだことも。

自分の能力不足に悩むことも多々ありましたが、
幸い上司にも仲間にも恵まれ、持ち前の粘り強さ、人と組織の能力を高めることへの欲求の強さだけで大手通信キャリアや金融機関を担当し、成果を
出すこともできました。

ちなみにコーチングスクールに通い、プロコーチを目指したのはこのタイミング。

30代半ばで一定成果も出し、今後のキャリアを
考えている時でした。

でも挫折し、封印したのは前述のとおりです。

その後、人材派遣だけでなく、中途採用や採用媒体も含め全社のサービスを大手企業へ提案する
総合営業を3年、エンジニア派遣の事業部で2年
経験を積んでいきます。

そして40歳の節目を迎えるタイミングで
キャリアを考えます。

このまま事業部で進んでいけば、昇格も
視野に入ってくるタイミングで私は自分に
問うのです。このままで悔いはないか?と。

答えは否。

自ら異動を選択し、別のサービス提供を
決断します。

それが今も所属しているタレントシェアリング領域の事業部です。

社内新規事業コンテストの採択第1号で立ち上がったこの事業部は、サービスの領域も、組織も、まさにこれから発展途上というタイミング。

ここで今まで人材サービスで培ってきた法人営業と、各領域のプロフェッショナルな方と仕事をすることでマーケットと組織を創り、自らも高めたい。

そんな想いで異動を希望し、
新たなキャリアをスタートします。

最初の1年間は、今までの管理職ポジションを
捨てたのでメンバーからのスタートでした。

発展途上とは、すなわち新規顧客開拓が至上命題。

なので、40歳にしてターゲットリストをつくり、
テレアポからスタートする日々が始まります。

そして、法人の経営層に対し、潜在ニーズを
引き出し、提案し、解決する営業は今までとは
比にならない難易度。

今まで経験してきた法人営業が全く通用しません。

なので、私の生存戦略は、
「とにかく素直にハイパフォーマーに学ぶ」です。

年下だろうとなんだろうと、頭を下げてひたすら
学び、実践し、振り返ることの連続でした。

そうしているうちに、異動から5ヶ月かかりましたが、月間MVPを受賞することができたのです。

この時の体験は私の自信となりました。

40代からでも、一から学び直し、行動すれば、
出来ないことが出来るようになる。

自分の能力開発はまだまだできる。
そう思えた瞬間でした。

異動から1年後にはマネジャーになり、
3年後にはゼネラルマネジャーとなって組織を
預かるようになりました。

そして異動から6年経った今、
冒頭の自分への問い、

「自分はスキルを社会に開放できているのか?」
「会社の看板を外した時に、一個人として何を社会に提供できるのか?」
「今の状態が続いたとして、生涯現役で活き活きとはたらけるのか?」

その問いに対する答えとして、
「複業のプロコーチ」を目指すことを
決断したのです。

ここまでお付き合いいただき、
本当にありがとうございます。

今までの人生を振り返り、
自己紹介をさせてもらいました。

次回からは、今私が学んでいる
「コーチング」について触れていきます。






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