伊東マンショ神父・中浦ジュリアン神父・小笠原玄也 小倉から熊本へ 信仰の旅と殉教への道

伊東マンショ肖像画・ドメニコ・ティントレット画・1585年


ウルバーノ・モンテ年代記の肖像画・写真提供・小佐々学氏


黒田官兵衛孝髙が1587年築城した中津城・大分観光協会提供


伊東マンショ神父・中浦ジュリアン神父・小笠原玄也 小倉から熊本へ
信仰の旅と殉教への道

 一六一二年(慶長十七)十一月十三日、長崎のコレジオに於いて病気(胸膜炎)のため死去した伊東マンショ神父と、一六三五年(寛永十二)十二月二三日、熊本に於いて殉教した小笠原玄也が、一六○八年(慶長十三)から一六一二年(慶長十七)の四年間、小倉に於いて共に歩んだことを知る人は少ない。小倉教会における伊東マンショ神父の一六○八年から一六一二年の四年間の宣教活動と慈悲活動(ミゼリコルジア)、長門・周防(萩・山口)に於ける宣教活動とキリシタン信徒組織(コンフラリア)の構築、日向の国・飫肥に於ける宣教活動、一六一一年(慶長十六)十二月の禁教令以後の小倉と中津に於けるキリシタン信徒組織(コンフラリア)の構築について、また当時の若き小笠原玄也の信仰の戦いについて考察する。 

豊臣秀吉による九州統一
 豊臣秀吉の九州征伐が終わった一五八七年(天正十五)キリシタン大名シメオン黒田官兵衛孝髙(如水)が豊前六郡(京都、中津、築城、上毛、下毛、宇佐)に領地を賜り、豊前中津に居を定め築城を開始した。同年三月、黒田官兵衛孝高の感化により豊前中津に於いて、大友宗麟の嫡子・義統(ドン・コンスタンティーノ)、毛利秀包(シメオン)、妻は宗麟の七女・マセンシア、毛利家家臣、熊谷元直(メルキオール)、黒田利則、黒田直之(ミゲル)、黒田長政(ダミアン)が受洗した。 

 豊臣秀吉は毛利勝信(森吉成)には隣の領地、企救(規矩)と田川の二郡、小倉六万石を与えた。この時、森吉成は毛利姓を名乗る様に言われて毛利壱岐守吉成となった。小倉を首都として整備して、小倉の旧城を改修し新たに小倉城を築城した。 

一五九九年(慶長四年)十月、黒田官兵衛孝高(如水)はセスペデス(Gregorio Céspedes)神父を招いてイエズス会の修道院・教会を作らせ宣教を開始した。 

一六○○年(慶長五)九月十五日、関が原の戦いの後、黒田官兵衛孝高(如水)は嫡子・黒田甲斐守長政に与えられた福岡名島(福岡博多)に移り、換わって同年十二月、細川忠興が丹後国宮津(十二万石)より豊前中津(三九万九千石)に移封してきた。関が原の戦いの少し前、七月十七日、大坂玉造の細川邸を石田三成の軍勢が包囲して、忠興の妻、ガラシャ夫人を人質として差し出すように要求した。小笠原玄也の父、小笠原少斎は、忠興の言い付けた命令に従い、ガラシャ夫人を介錯した後、屋敷に火を放ち殉死している。自殺を禁じているキリシタンの教えを守りながら、夫・忠興の意思に殉じたガラシャ夫人の壮烈な死は、忠興に衝撃と深い感動を与えた。また、オルガンティーノ(Soldo Organtino)神父はガラシャ夫人の遺骨を拾い、小西行長が作っていた堺のキリシタン墓地に葬ったが、関が原の戦いの後、忠興の願いによって盛大な葬儀ミサが行われた後、ガラシャの遺骨は忠興が細川家菩提寺・崇禅寺に改装した。葬儀と埋葬をしたオルガンティーノ(Soldo Organtino)神父に対して、忠興は深く感謝するとともに、深い尊敬の念を抱いた。 

セスペデス(Gregorio Céspedes)神父はガラシャ夫人をはじめ、細川忠興の弟・細川興元、忠興の長女・お長、次男・興秋、次女・お多羅をキリシタンに導いた。これらの人々の改宗に重要な役割を果たしたことによって、細川家とはきわめて深い繋がりがあった。忠興のセスペデス神父に対する感謝は尽きることなく、そのまま豊前中津に留まるように要請し、亡き妻ガラシャ夫人の毎年の追悼ミサを依頼している。 

大坂玉造の細川邸:現・大坂中央区玉造二、カトリック大阪カテドラル聖マリア大聖堂が細川邸屋敷跡に建っている。 

崇禅寺:現・大阪府東淀川区中島五、曹洞宗に属する細川家菩提寺。 

一六○○年(慶長五年)七月十七日、ガラシャが死んだ翌日、十八日、オルガンティーノ(Soldo Organtino)神父は玉造の細川邸の焼け跡から焼け残った遺骨を拾わせ、小西行長が作っていた堺のキリシタン墓地に葬ったが、関が原の戦いの後、忠興の願いにより盛大な葬儀ミサが行われた後、忠興が菩提寺である崇禅寺に改葬した。一六三二年(寛永九)三代忠利が熊本に移封後、一六三七年(寛永十四)泰勝寺(現・立田山自然公園内)を建てて祖父母の泰勝院(幽斎)・光寿院(麝香・マリア)、母秀林院伽羅紗の墓を造った。一六四五年(正保二)四代光尚のとき、祖父・忠興が八代城で死去したので、妻ガラシャの横に忠興の墓を建てた。 

セスペデス神父が豊前・中津で働き始めた一五九九年(慶長四年)以後、一六〇〇年(慶長五)細川家が豊前に移封された後は、小笠原玄也の妻みやの父であるディエゴ加賀山隼人正は中津郊外の下毛郡の奉行をしていて、セスペデス神父と共に教会を立ち上げるために働いていた。加賀山隼人正はシモン清田朴斎と共に「教会の柱石」と称えられるほど豊前に於ける信徒の中心だった。 

一六○二年(慶長七)細川忠興が交通の要衝の地小倉に移り、新たに城を構えたのに伴い、教会も活動の場を小倉城下に移した。忠興は教会に小倉の最も良い土地を与えている。 

一六○三年(慶長八)のガラシャ夫人の追悼ミサ後、忠興は二七人の死刑囚に恩赦を与えた。許された二七人は洗礼を受けキリシタンになった。このほかに、教会に多額の献金や寄付をして、忠興はキリシタンの良き理解者と保護者になっていった。この時期の十年間、忠興とキリスト教の関係が最も良い関係だった。 

セスペデス神父を中心に加賀山隼人正と清田朴斎が教会活動として最も実践したのが、『慈悲』すなわち、貧困に喘ぐ人達への援助、病人の救済と養護、癩病人の収容だった。キリシタンのなかから、ミゼリコルジアの組長、および組員達が決められ、集められた寄付金は、貧乏な寡婦や孤児、病人、その他の貧しい人達に配布された。ミゼリコルジアの組員達は貧しい身ではあったが慈悲の業や慈善事業を好んだので、小倉の街外れに癩病患者達の家を作った。また孤児院を教会の中に設け、孤児達を保護し養育していた。 

一六○六年(慶長十一)司教ロドリゲスの『イエズス会年報』には、小倉には二つの教会があり、グレゴリオ・デ・セスペデス(Gregorio Céspedes)神父、イルマン(修士)ジョアン・デ・トーレス、斉藤アンドレ(日本人)が居て、宣教に従事していた。 

一六○七年(慶長十二)二月、カミロ・コンスタンチオ(Camillo di Costanzo)神父が加わり、十月には、イルマン(修士)ディオゴ・ペレイラが来て、五人の宣教師が小倉教会の宣教を担っていた。 

一六○八年(慶長十三)司祭に叙階された伊東マンショ神父(三八歳)がセスペデス(Gregorio Céspedes)神父の伴侶(助け)として小倉に赴任してきた。伊東マンショ神父は教会の柱石である加賀山隼人正、清田朴斎達と共に働き、イエズス会『一六一○年度日本年報』には、『豊前の城下小倉には、十人のイエズス会員がいた。長岡(細川忠興)殿もその子内記(細川忠利)殿も、いたく同情を寄せていた。その所には二千人の受洗があった。』と報告されている。また、忠興の嫡子『細川忠利が中津の教会のすべての費用を負担している。』と述べている。   

一六○八年(慶長十三)中浦ジュリアン神父(三九歳)は、伊東マンショ神父とともに司祭に叙階され博多教会に赴任して、筑前、筑後、秋月教会などを巡回して指導していた。中浦ジュリアン神父は伊東マンショ神父を訪ねて小倉に来ている。その時、加賀山隼人正、清田朴斎、小笠原玄也達を知り、それ以来、中浦ジュリアン神父は小笠原玄也と共に信仰と人生を歩む同胞となった。後年、小笠原玄也一家の信仰を支えたのは中浦ジュリアン神父だった。 

イエズス会の指導者達、及び九州地区菅区長セルケイラ(Luís de Cerqueira)司教達は、長門・周防、九州の東部、豊後及び日向領で新たに布教を始めようと考え、その重責を伊東マンショ神父に託した。交通の要衝、小倉は地理的位置により優れた宣教地だった。 

北には下関海峡を挟んで、かつてフランシスコ・ザビエル(Francisco Javier)が初めて日本にキリスト教を広めた山口(長門・周防)があり、南には元キリシタン大名・大友宗麟の領地・豊後、及び伊東マンショ神父の故郷・日向の国があった。小倉教会の巡回地域として、長門・周防が属していた。しかし、伊東マンショ神父が知りえた、長門・周防での非常に困難な宣教の状態は、目を覆いたくなる戦慄する殺戮と迫害が、毛利輝元により展開されていた。 

イエズス会『一六○五年度日本年報』によると、一六○五年(慶長十)八月十六日、毛利家の重臣であり、長門教会の柱石メルキオール熊谷元直(五○歳)が、萩に於いて、一族十一名とともに処刑され殉教している。

メルキオール熊谷豊前守元直は斬首。メルキオールの妻、次男・二郎兵衛、末子・フランシスコ猪之介、(熊谷元直の娘婿)天野元信、元信の子・与吉(十一歳)、お快(八歳)くま(二歳)、幼児、(熊谷元直妻の弟)佐波善内(次郎右衛門)、三輪八郎兵衛元佑、中原善兵衛、一族十一名は寺院に閉じ込められて焼き殺された。また、メルキオール熊谷元直と天野元信の大勢の家来達、約百人以上が殺害されている。 

『(メルキオール熊谷元直)はその時(斬首による処刑)のために少し準備をさせてほしい、といとも穏やかに請うた。部屋に入って、別の上等の着物に着替え、首に聖遺物入れをかけ、聖画像の前に跪坐し、そこで、祈祷中に斬首された。そして、首級は彼の着物に包まれて毛利殿のもとに運ばれた。彼はメルキオールの死に満足せず、自分と親戚関係にある者を除いて、彼の妻、子、孫をも殺すように命じ、全員をいっしょにして寺院で焼かせた。同じように、紛争の当事者の一方であったメルキオールの婿(天野元信)をも、メルキオールとその婿の大勢の家来たちをも殺させた。その数は、噂によれば百人を超えた。』
(ジョアン・ロドゥリーゲス・ジランJoão Rodrigues Giramの書簡) 

その三日後、一六○五年(慶長十)八月十九日夜、盲目の伝道師ダミアン(四五歳)が、湯田一本松の処刑場に於いて、斬首に処せられ殉教している。 

『(ダミアンは)処刑される予定の場所に着くと、すぐに跪坐し、大声で幾つかの祈りを唱え、それから、暫時心の中で祈り、最後に、しっかりと何の動揺も悲しみも見せず、むしろ、それを永久に享受しに行く人のように大いなる安らぎと喜びを見せて首を伸べ、一撃を受け、斬首された。』
(ジョアン・ロドゥリーゲス・ジランJoão Rodrigues Giramの書簡) 

斬首されたダミアンの遺体は、細かく切断され川に流された。次の日の早朝、仲間の信徒(ベント)が捜索し、川沿いの木立の中に、隠し忘れたダミアンの首と片腕を見つけた。殉教者ダミアンの遺骸は鄭重に長崎のセルケイラ司教の元に届けられ、礼拝堂に安置された。 

一六○七年(慶長十二)ユスティノ狩野与五郎とその妻が、湯田一本松に於いて、火刑に処せられ殉教している。『三日間、山口の街路を引き回して恥辱を与えた後に生きたまま火焙りにした。』
ジョアン・ロドゥリーゲス・ジランJoão Rodrigues Giram 一六一三年一月十二日付の書簡 

長門教会の柱石・メルキオール熊谷元直、盲目の伝道師・ダミアン、信徒達の中心・ユスティノ狩野与五郎を失って以来、長門・周防の教会は閉鎖され、神父は訪れることができなかった。 

イエズス会『一六一一年度日本年報』には、『昨年(おそらく一六○九年)そこ(萩)に行ったのは修道士だけであったので・・』とある。 

斉藤アンドレ修道士と共に行ったカミロ・コンスタンチオ(Camillo di Costanzo)神父(イタリア人)はその容貌で神父であることが一目で判り、逮捕され殺害される危険があまりに大きかったので、旅を途中で断念して日本人の斉藤アンドレ修道士だけが迫害下の信徒達を訪ねている。小倉にいる三人の神父のうち、日本人は伊東マンショ神父だけであり、迫害の激しい萩・山口に、怪しまれずに潜入して宣教活動を遂行できるただひとりの司祭だった。 

逮捕されれば殺害される危険を犯してまで遂行しなければならない宣教の旅。伊東マンショ神父の心の葛藤と不安、斬首、火焙りなど、死への恐怖と戦慄は計り知れないものがあった。また、伊東マンショ神父の心を苦しめた懐疑と葛藤に『神の沈黙』があった。 

本来、キリスト教は、人を励まし希望を抱かせ、幸せに生きるためにある宗教なのに、なぜ、そのキリストを信じる信仰故に、悲しみ苦しみ、迫害されて拷問を受け殺されるのか、なぜ、神は黙しておられるのか、祈りのうちに問いかけても答えのない不条理の重圧に伊東マンショ神父の心は押し潰されていた。キリストを信じる故に殺されるという、あり得ない事、起こってはならない事が、伊東マンショ神父の前に現実として起こっていた。神父としてなにもできない無力感に打ちのめされていた。信徒達を見捨てるのか、キリストを棄てて生きるのか、キリストを棄てずに自分が殉教するのか、そこには『沈黙する神』の答えを求めて苦しむひとりの信仰者の姿があった。 

『涙とともに種まく人は、喜びのうちに刈り取る。種入れをかけて、泣きながら出て行く人は、束をたずさえ、喜びながら帰ってくる。』  詩篇一二六篇 五節 

詩篇の言葉に生かされて、迫害の恐怖と戦慄を克服して、神に信頼し全てを神に委ねて雄々しく立ち上がり、迫害下に怯えながらも神を信じている長門・周防のキリシタン達を慰めるために、伊東マンショ神父は殉教を覚悟して宣教の旅に出ていった。 

死と隣り合わせの宣教の旅は、極限の緊張を常に伊東マンショ神父に強いた。布教への熱意と自分を匿う信徒(大概はその町の重立った人々・庄屋・名主・裕福な商人・高名な武士)を危険に曝すのではないかという恐れを抱きながら日々を過ごしている。そして、信徒の助けを借りながら不安げな足取りで移動のため次の場所へと踏み出すのだった。神父達を匿う信徒達も、もし見つかり訴えられたら、一家全員が拷問の末に処刑されることを知っていたので、命を懸けて匿っていた。五年後の『一六一五年、一六一六年度日本年報』に、中浦ジュリアン神父や他の二人の神父達がどの様に匿われていたかが詳しく記載されている。伊東マンショ神父も同じ辛い体験をしていたことが理解されるだろう。 

『一六一五年、一六一六年度日本年報』より
『私(中浦ジュリアン神父)は一年間に三度小倉へ行きました。それも辛い苦労をし、明らかに生命にかかわるような危険を冒しながら夜を日に継いで歩いていったのです。豊後には二度行きました。そして各地で大勢の人々の告白を聴きました。しかし、そこで私が滞在していた家からほとんど外へは出ませんでした。なぜなら、それらの町々で私を匿ってくれた人々が(彼らはそれぞれの町で重立った人々でした。)私に外出することを許さなかったからです。そのため、私は、忍耐強く主の御慈悲にすがりながら、不安や部屋の窮屈さ、寒さ、暑さ、飢え、渇きなど私の人生で(それまで)経験したことがないほどの辛い苦しさに耐えたのです。私は、すんでのところで命が危ういほどの病気に三度陥りました。夜歩きながら何度となく倒れ、足を捻挫しました。主に讃えあれ。私たちはこのような苦労を、楽しく時を過ごせるようになるためではなく、我らのキリシタンの信仰と敬虔さを鼓舞しようとして耐えているのです。それも、より自由に主に奉仕できる日が獲得できるように、この(日本の)教会に天にまします主が平和をお与え下さる日まで。』 

『ここは私が身を隠していられるような隠れ家ではありません。入口以外には穴一つなく、わずかに、窓がわりに(幅)二パルモほどの隙間があるだけです。このとても暑い季節に、私はこの場所で六日間も激しい暑さに耐えながら閉じこもっていました。六日目に私は公然と聖務を行い、その後で自分の巣に戻りました。もうこれ以上、見つからずにここに留まることはできません。』 

『私は、現在私が滞在している背の低い藁ぶきの湿気の多い小屋の、明かりを奪われた暗闇の中で、小さな明り取りから差し込む光を頼りに教会法の定める時刻に祈りを捧げています。私はこの小屋に昼も夜も潜んでいるため、あふれるほどの湿気のせいで(起こる)腰や足の痛みにより、何日もの間(満足に)休むこともできないほどでした。私の匿い主は(私という)秘密について非常に用心深いため、全員がキリシタンだというわけでない使用人や、まだ幼い子供達を信用するわけにもいかず、とても遅い時間になってから同宿の手を通じて私のもとに昼食を届けさせていますが、それも、少量の米と副食としては塩漬けの鰯だけというわずかなものです。私はしばしば「暗闇の朝課・テネブレ」を変更せざるを得ません。というのは、(告白を)必要としている何人かの人々の(もとに)告白を聴きに行くために、深夜になって夜中の人々が深い眠りに落ちるまで待たなければならず、そのような場合には約束の場所に到着するのが明け方になってしまうからです。にもかかわらず、告白を聴くと、このような困難の中にいるのに、私は自分の心が、何の疑いももたれることなく自由に日本中を歩き廻ることができた頃よりも、ずっと伸々していると感じます。同じような慰めを身体の中にも感じます。それは(私にとって)ほとんど取るに足らない不快さや苦痛よりは、古くからの嫌気から解放されたと感じられるからです。』 

また、その旅は、ジアンノネ(Giacomo Antonio Giannone)神父の『一六一九年報告』にあるような旅だったと思われる。 

『私達は常に夜間、日本の着物を着て雨や風の下に歩き、山中の百姓家に泊まり、自分に委せられた地区に於いて各自、あるときは自ら秘蹟を授け、あるときは手紙によって信者を励ましています。』 

『山や谷の中の困難きわまる道を夜間歩きまわり、再び信仰を取り戻したこの地方のキリシタンに秘蹟を授けながら村から村へと仕事を続けています。』 

毛利の城下町・萩には迫害に曝されている信徒達が三○○人いた。伊東マンショ神父と斉藤アンドレ修道士は、萩(及び山口)の信者達が一層助け合うことができるようにキリシタン信徒組織(コンフラリア)を各地に創設した。禁教下、巡察師ヴァリニアーノの教えた信徒結束を図るための組織(コンフラリア)を作り、迫害に備える教えを見事に実行している。 

イエズス会『一六一一年度日本年報』には
『小倉のレジデンシアからひとりの神父(伊東マンショ)は長門・周防両国へ巡回を行ってそこに散在している信者達を訪れた。彼はその巡回にあたってかなりの成果を納め、聖体を受けられる人々に、告解、聖体両秘蹟を授けたが、それも、或る人々には初めてであった。教理の説教を聴いた七○人の成人に洗礼を授け、また信者達が相互いをいっそうよく助け合うために、或る所でサンタ・マリアのコンフラリア(信徒組織)を設立した。

彼が訪れた場所の中に毛利の城下町(萩)もあった。そこには三百人の信者がいたが、しかし目下、そこに必要であるから、できるだけすべてを密かにした。昨年そこに行ったのは修道士だけであったので、このたび神父がそこに行ったのは初めてのことであった。そこで彼らは神父の訪問で大きな慰めを得、勇気づけられ、今後もそこを訪ねられるように門戸が開かれた。 

神父はまた、よく信仰を続けてきた山口の古い信者をも訪れたが、彼らからもたいへん歓迎され、もてなしを受けた。その町の奉行(益田景祥)は異教徒でありながらキリシタン達に反感を示さず、かえって好意を寄せているので、神父は何の妨げもなく、そこでまったく自由に聖務を遂行することができた。そして神父は彼を訪問して、彼自身もまた神父を訪れて神父に対して数々の世辞を言い、最も丁寧な言葉と友情の印を表していた。そして神父の出発にあたっては、彼は街外れまで見送り、別れのときに、神父がキリシタンを訪問するため山口へ来る場合、いつでもまったく自由に、また公にそれをしてよい、また何の心配もなく何日でもそこに滞在してもかまわない、そしてもしも毛利がそのために怒るならば、自分がその責任をとると言った。このようなわけで、これからはいつも自由に、かの地のキリシタンを訪問することができるから、彼らも、神父自身も非常に勇気づけられた。』
(ロドリゲス・ジラン João Rodrigues Giram神父、一六一二年三月十日付け・長崎) 

山口では、キリシタンに対して理解ある徳の高い奉行(益田景祥)が宣教の許可を与えてくれ、伊東マンショ神父は自由に信徒達を訪問して慰め、告解を聴き秘蹟を授けている。萩での命懸けて行った秘密裏の宣教とは違い、山口での働きは伊東マンショ神父の心に大きな喜びと慰めを与えた。ここでも将来の迫害に備えて信徒組織(コンフラリア)を組織している。 

この後(おそらく一六一一年)伊東マンショ神父は故郷・日向の国・飫肥に伝道のため訪れている。故郷には、母・町の上、弟・ジェスト伊東勝左衛門、姉・御虎(故伊東祐勝の妻)、藩主伊東祐慶(すけのり)をはじめ、親戚の中にも多くのキリシタンがいた。前回の長門・周防とは違い、飫肥は迫害の心配のない、喜びに溢れた心穏やかで安らぎに満ちた故郷だった。飫肥では城内に迎えられて、もてなしと破格の待遇を受け、家臣達に教理を教え、約五○人に洗礼を授けている。 

伊東マンショ神父がどの道を通って飫肥に行ったかイエズス会の報告には記載されていない。しかし、イエズス会の上層部が豊後、及び日向領での新たな布教を考えていたことから、豊後、日向領に住んでいたキリシタン達を慰め励まし、告解を聴き秘蹟を授けながら巡回したであろう。 

現在までキリシタン遺物やキリシタン墓碑等が残され、キリシタン事例等が報告されている土地を探してみると、豊後(大分県)では、豊後高田市、杵築市、別府市、湯布院町、大分市、野津町、臼杵市、津久見市、佐伯市、本匠村、直川村、宇目町、日向領(宮崎県)に入って、延岡市、日向市、高鍋町(秋月藩)、佐土原町、高岡町、宮崎市、清武町、北郷町、都城市、日南市飫肥(伊東家飫肥藩)。ほぼ東の海岸線(現在の国道一○号)に沿ってキリシタンの足跡が確認できることから、おそらくこれらの土地の信徒達を訪問しながら飫肥へ行ったと推測される。 

『同じ神父(伊東マンショ)は、日向の国の重要な土地(飫肥)日向の国の大部分を治める領主である異教徒の親族(伊東祐慶)に呼ばれて行き、その城下に住んでいるキリシタンを訪問した。殿自身も、多くの家臣と共に教理の説教を聴き、その真理を理解して、信仰が救霊のために必要であることもよく悟っていたが、しかし或る人間的な理由のため、すぐに洗礼を受けることを遠慮した。しかしそのとき、ある家臣とほかの人々、約五十人の成人が洗礼を受け、彼らも、神父自身も、大いに満足した。なお神父はそこにいる少数の信者の告解を聴き、準備の出来た人に聖体の秘蹟を授けた。このような成果を納め、そして将来そこへ出かけるたびごとに一層大きな成果を納める希望を持って、神父は(小倉に)帰ってきた。』
(ロドリゲス・ジランJoão Rodrigues Giram神父、一六一二年三月十日付け・長崎)

細川忠興の迫害
同じ頃、今までキリシタンを保護していた細川忠興が、徳川家康と幕府の圧力により徐々に態度を変え始めた。家康よりキリスト教と手を切らなければ細川藩を潰すと脅されていた忠興は、幕府に対して弁明するかのように積極的に仏教を擁護し始め、キリスト教と訣別する機会を探っていた。そのような時、一六一○年(慶長十五)八月二十日、細川忠興の父、細川幽斎藤孝(七七歳)が京都で亡くなった。この機会を捉え、忠興の心(政策)は急速に仏教に傾いていった。同年、九月十八日、小倉に於いて盛大に仏式で細川幽斎の葬儀が執り行われた。翌年、一六一一年(慶長十六)二月、小倉教会の近くに、忠興の亡き父・細川幽斎のために菩提寺・泰勝寺を建立している。 

『予の国には伴天連もキリシタンもいらない。グレゴリオ・デ・セスペデス(Gregorio Céspedes)神父が生きている間は我慢もしよう。彼への愛があるからすべてを破壊せずにいるのだ。』暴君は我らを国から追放した後、その空いた場所に何を作ろうかともうすでに構想を練っていた。それどころか、我らの教会近くの土地を手に入れて、亡き親のため、寺院を建立していた。』 

教会の指導者セスペデス(Gregorio Céspedes)神父、伊東マンショ神父、コンスタンチオ(Camillo di Costanzo)神父達は、教会の真近に建てられた細川家の菩提寺・泰勝寺をどの様に見ていただろうか。目の前で繰り広げられるこれら一連の細川忠興の暴挙と仏教への心変わりを、どの様な気持ちで受け止めていただろうか。将来に対する不安な予測を、迫り来るキリシタンへの迫害の予兆をどの様に感じていただろうか。 

イエズス会『一六一一年度日本年報』によると
『暴君(細川忠興)の悪しき魂は、いっそう明らかにその正体を現し始めた。すでに公然と軍勢中の信徒は信仰を棄てるよう迫られているし、はっきりこうも言っている。『予の国には伴天連もキリシタンもいらない。グレゴリオ・デ・セスペデス神父が生きている間は我慢もしよう。彼への愛があるから、すべてを破壊せずにいるのだ』と。暴君は我らを国から追放した後、その空いた場所に何を作ろうかともうすでに構想を練っていた。それどころか、我らの教会近くの土地を手に入れて、亡き親のため、寺院を建立していた。このような事態のおりに、デウスはその正しい御判断でグレゴリオ神父を我らから取り去ることを欲し給うた。すでに述べたように、グレゴリオ神父が暴君の衝動を抑えている唯一の者であった。暴君は、その死を待って我らに対する攻撃を実施すべく命令を下した。神父の死後二日目に、我が国においては教会も司祭も必要ないことを知らしめ、追放するゆえ、中津か、必要なことがいっそう好意をもって得られる他の地へ去るようにと命じた。』 

セスペデス(Gregorio Céspedes)神父が豊前中津で伝道を開始した一六○○年から一六一一年十二月までの十年間、セスペデス神父(六○歳)、伊東マンショ神父(四二歳)、清田朴斎(五十歳)、加賀山隼人正(四六歳)、小笠原玄也(二五歳)、この人達の働きは素晴らしい実りを小倉の地にもたらした。しかし、その教会の繁栄も細川忠興の心変わりの前に風前の灯となっていた。 

セスペデス神父の死去のとき、伊東マンショ神父が傍らにいたことが報告されている。
レオン・パジェス著・日本切支丹宗門史、イエズス会『一六一一年度日本年報』には「長崎での会議の後、小倉教会に戻り、教会の入口で脳卒中で倒れた時、伊東マンショ神父がセスペデス神父の体を受け止めて、セスペデス神父はマンショ神父の腕の中で息を引き取った。」と書かれている。 

イエズス会『一六一一年度日本年報』には
『今年度死去した第四番目にして最後は、スペイン人でマドリッド生まれのグレゴリオ・デ・セスペデス師である。彼は霊的指導司祭で、既に六十歳になっていた。イエズス会に入って四二年、その三四年間は日本で、終わりを迎えた。その労力も絶えることなく努力していた。この情熱は特に豊前の国の教会で示されていた。
 
豊前は、彼が最初に種を蒔き、時間をかけて水を与え、我らの主は、日々新たな芽と、その成長をもたらし賜うた。しかし、短時間に国中全てを改宗させたいと望みを持っていた師にとって、その芽の成長は小さくはないといえ、満足するには至っていない。
しかし、それ以上のものを望んでいたにもかかわらず、その国の国主、越中(細川忠興)殿の災いによって妨げられた。我等の主は、師父の死と共に、その者をキリストの羊の群れに連れ戻そうとする希望を、ことごとく断ち切られた。続いてその教会で起こったことは、師父の死の意味を一層大きなものとした。その死の有様は、我々をも、新たなキリシタンをも一層深い悲しみに誘った。
 
師父は新管区長と巡察師に挨拶のため長崎に赴き、自ら教会の帰途にあった。修道院の門前に帰り着くと、いつものように我等は愛と好意をもって出迎えた。師父が数歩進んだとき、急に目眩がしてよろめき、伴侶の一人(伊東マンショ神父)の介添えが無ければ、そのまま倒れていただろう。そして伴侶に抱えられたまま、苦しい様子でさらに数歩あゆむと、支えていた伴侶と共に地面にひれ伏し、二、三度「デウス様、お慈悲を」とだけ言うと、出迎えに集まっていた大勢のキリシタンのいる前で、そのまま死去した。今頃は、長年耐え忍んだ苦労の報いとして、天上での生活を享受しているであろう。
 
これは日曜日の朝、主日のミサに与るために大勢のキリシタンが教会に集まっていた時に起こった。集合していたキリシタンたちは、司祭に会って、健康な姿がまた見られると思っていたのに、司祭が亡くなられたというので、呆然とし、その場に駆けつけた。深い悲しみに打たれ、誰も皆、その情愛溢れる師父の死を、涙を流して惜しんだ。
 
師父が亡くなられたその土地の領主(細川忠興)は、その土地に埋葬することを許さなかったので、長崎に運ぶために遺骸を柩(ひつぎ)に納めようとしている間にも、キリシタンの群れは次第に増えていき、昼夜を問わず、限りなく深い悲しみを見せ、師父の足を抱きしめ口づけしたりして、留めなく涙をながしていた。
 
この悲しみの情は、葬儀の行われた時に一層の極みとなった。柩が閉ざされた時の聖名の嘆きは、実の父が死んだときにも勝るとも劣らぬものであった。彼らに対する師父の大きな愛、あの慈悲に満ちた顔、情愛深い優しい物腰、どの様な困難でも、あらゆる企てに飽くことなく挑戦するあの心意気、魂の偉大な情熱を思い起こせば、誰もが師父を称賛するであろう。
 
こうしたものが自らに欠けているがゆえに、また全て述べた当地の領主(細川忠興)の命令によって、この司祭が死去すると他に司祭がいないことを知っているので、その悲しみは倍加した。当の領主は、グレゴリオ師の死でキリシタン信仰も絶え果てることを望んでいた。
しかし、師父についての聖性の名声のため、生涯に師父が奉仕した偉業について尋ねる者は多くいた。これまで名を挙げた司祭たちの死について聞いていたにも関わらず、グレゴリオ師の死に際して悲しみは一層深かった。それは、悲しみが広く人々の心に見られたように、その教会全く師父の命と健康に寄りかかり、彼を非常に必要としていたからであった。それはそれに相応しい箇所で語られよう。」
ジョアン・ロドリゲル・ジーラム(João Rodrigues Giram)神父 
一六一二年三月十日付け 

伊東マンショ神父の死去
突然のセスペデス神父の死により、細川忠興の暴挙を止めるものが何もなくなった。細川忠興はセスペデス神父の遺骸の埋葬さえ許さずに長崎に送るように指示、セスペデス神父の死後二日後に残りの二人の神父とキリシタン指導者達に対して追放命令を出している。セスペデス神父の死を境に、細川忠興はキリスト教との訣別を公にして、小倉の教会を破壊、後任の責任者である伊東マンショ神父を追放した。伊東マンショ神父は、加賀山隼人・清田朴斎の忠告により、細川忠利を頼り、中津に避難、そこでクリスマスミサ(降誕祭)を盛大に行っている。その後、豊前に残されるキリシタン達がこれから起こる迫害に耐えられるように、また互いの信仰を良く助け合うために、幾つかのキリシタン信徒組織(コンフラリア)を再編成した。丈夫でなかった伊東マンショ神父の健康は、前年の仕事(長門・周防・飫肥の旅)や、迫害の勃発、命を懸けて築いてきた小倉教会の破壊と消滅という試練に耐えられなかった。体に違和感を覚え、長崎のコレジオに戻り、父のようなディオゴ・デ・メスキータ(Diego de Mesquita)神父と、盟友・原マルチノ神父に見守られながら、一六一二年(慶長十七)十一月十三日に死去(四三歳)した。 

イエズス会『一六一二年度日本年報』に、伊東マンショ神父の死亡が簡素に報告されている。 
『今年死亡した会員の二番目は、伊東マンショ神父であった。日向の国の出身で、四三歳。彼は一五八四年にローマへ行った四人の正使であって、帰国してから世間のすべてのことを捨てて、一五九一年に我が会に入った。会で過ごした二一年の間、彼はその修道者としての忠実と霊魂の救いに対する熱意によって、皆に感化を与えた。』
(コーロスMateo de Courosの書簡・一六一三年一月十二日付け) 

小笠原玄也への試み
小倉城内に於いて、細川忠興の棄教命令が多くのキリシタン家臣に向けられ、大多数のキリシタン家臣が従った。次に忠興の身近にいた小姓・小笠原玄也の信仰が試された。 

細川忠興から、父、小笠原少斎の棄教証文を突きつけられて激しく棄教を迫られ、玄也の心は揺らいだ。この世の名誉と家族の生活安定のために細川忠興の忠告を受け入れて棄教している。 

信仰の勇者と讃えられている小笠原玄也の生涯に於いて、たった一度の躓きだった。 

小笠原玄也の父・小笠原少斎は大坂玉造の細川邸に於いて、細川忠興の妻・ガラシャ夫人を介錯したのち殉死した。小笠原少斎の適切な処置により細川家は安泰であり、以後、忠興は少斎の遺族に対して手厚く報いている。 

少斎の長男・長元には細川忠興の姪・おたねを妻として与え、重用して家老職(後六,○○○石)を務めさせている。長元の長男・長之には忠興の弟・細川休斎の娘・こまんを養女にして与えた。少斎の次男・長良(六○○石)には忠興の妹・おせんを嫁がせている。三男・小笠原玄也(六○○石)には、忠興の寵臣、豊前のキリシタンの支柱である加賀山隼人の長女・みやを同じキリシタンとして選んでいる。 

小笠原玄也は細川忠興の小姓を務めながら、妻みやと共に小倉の教会に出席している。みやの父、加賀山隼人正(六,○○○石)の下で、教会のためにも働いていたと思われる。『イエズス会年報』を精細に比較して調べていくと、おそらく二人の結婚は一六○七年頃と考えられる。一六○八年に長男・源八郎、一六一○年に長女・まり、一六一一年に次女・くりが小倉に於いて生まれていることがわかる。 

玄也の棄教は、次女くりの遺書(第十五号)に『父も一度は天道に叛き・・父も二十四、五年の浪人ですので・・・』とあり、一六一○年であることがわかる。また、この時の転び証文は、細川忠利の書いた二通の手紙により確認することができる。 

寛永九年(一六三二)十一月二一日書状案の中に『三斎様(忠興)御意と及候て宗門をころひ申候』とあり、 

寛永十年(一六三三)五月二八日書状案の中に『一、興三郎事、重々不届次第、猶以承届候事、一、興三郎儀ニ、起請を書上候寫被下候、はしらせ申間敷と書申候故、國にて之罪科ハ如何様にも可申付候、』とある。 

棄教した玄也を妻みやと、みやの父ディエゴ加賀山隼人も支え励ました。ただ一人の日本人司祭である伊東マンショ神父と話合い、伊東マンショ神父も玄也の信仰のために祈った。 

その結果、玄也は改めて信仰を表明して『不転の書き物』(ころばざるかきもの)を書き、細川忠興に差し出している。玄也自筆の『不転る書物』が残されている。 

『大御所様、公方様、御意として伴天連宗門、御改め成らせ候。たとひ上意有るとしても頼み奉り候。(信仰いたします)忠興様何と仰せ出され候とも、此上はころびまじく候。後日のためかくの如く申上候。
    七月十六日   小笠原玄也』   熊本大学図書館蔵 

松井家文庫切支丹史料第一集、一六一四年(慶長一九)の転び証文を見ると、忠興公の命令により多くの切支丹家臣の転び証文が記載されている中に、ただひとり、与三郎(玄也)の証文だけが『転ばぬ』と書いてある。 

イエズス会『一六一一年度日本年報』には
『(細川)越中(守忠興)殿は教会に対して非常に激しい敵意を放つ以前にも、既述のように何人かの信徒を信仰から引き戻すのに力を注いでいた。その信徒の中には彼の寵臣(加賀山隼人)がいたが、この者は、デウスと領主といずれにより熱心に仕えるべきか判らないでいた。越中殿はこの人に、キリストの教えを棄てれば引き立てもしようが、もし拒むなら従来のように重大な秘密や用件は任さぬと語り、他に多くの特別な好意を示した。しかし、キリストの良き兵士は包み隠さずこう答えた。『私はあらゆる富、名誉、また主人の恩顧以上にキリシタンの信仰を大切なものだと思っている。そして殿にもキリシタン信仰にも同様に忠実に仕えたいと思うが、それができないのならば、私はキリストのために家財も生命も捧げるつもりだ。』と。彼はこう返答したので、暴君によって死罪か永久追放を受けるものと覚悟し、教会に赴いて告白し、あらゆる場合に備えた。暴君はその返事を聞くとそれ以上することは望まず、自分の敗北であると判断した。また他の手段を用いて多くの霊魂を試みたが、彼らは同様に堅い信念でそれを拒んだ。その中に殿の小姓(小笠原玄也)が一人いたが、(殿は)小姓がどんな態度をとるか自分の耳で聞けるよう、小姓に同様に勧めさせるよう命じた。またいっそう回心を容易にさせようと『同じ信徒である父親が信仰を棄て、それを証明する自筆の証文があるから、父の例を模範として従うように』と説得させた。しかし小姓は暴君に聞こえるほどの大きな声で、『暴君が勝利を収める希望は尽く打ち砕かれた。私はキリストの敵に対し輝しい勝利を収めた』と答えた。 

同じ頃、話題といえば殉教のことばかりであったが、一人の信徒が四歳になる幼児(小笠原玄也の長男・源八郎)に迫害が及べば信仰を棄てるかと尋ねると、その幼児は『いいえ』と答えた。このように素早く勇気ある返事が戻って来たのに驚いて、殉教者が何であるか知っているかと糺した。すると『知っている。知っている。キリストの教えのために首を切られることです。』と答えた。信徒がさらに『そのようなことになれば、かわいそうに泣くだろう』と言うと、その幼児は『そのようなことはない。それを喜び、喜び溢れる顔をして首切り役人に首を差し出します。』と答えた。その信徒は驚き、かくも幼い子供達にまで、このように激しい殉教への情熱や願望を与え給うたことを主なるデウスに感謝し続けた。』 

小笠原玄也の小倉からの追放
この後、細川忠興に『不転る書物』を差し出し、棄教を拒否続ける小笠原玄也は、細川忠興により賜っていた高禄(六○○石)を召し上げられ、二三人扶持をあてがわれて遠い田舎(香春町中津原浦松)に一家全員、隠蔽された。貧困に喘ぎながらも信仰のため忍耐して生活をしている小笠原玄也一家の隠蔽先を、中浦ジュリアン神父は秘かに訪問して幾度も励ましている。小笠原玄也・みや夫妻の子供達、次男・佐々衛門、三男・三右衛門、香春町採銅所にて生まれた四男・四郎、五男・五郎、三女・つち、六男・権之助、四女・るい、に洗礼を授け、キリシタン名(洗礼名)を与えたのは中浦ジュリアン神父だったと考えられる。 

中浦ジュリアン神父が小笠原玄也一家を秘かに訪問したとき、玄也の子供達は中浦ジュリアン神父に八年間にも及ぶ天正遣欧使節の体験談をしてくれるようお願いしただろう。囲炉裏端で中浦ジュリアン神父は遠い昔の日の楽しかった想い出を子供達に詳しく話した。大航海の素晴らしさと苦しさ、スペイン国王・フィリプ二世との謁見、王の宮殿の華麗な豪華さ、ローマへの旅、ローマ法王との謁見とその素晴らしいパレードの華やかさ、美しい都フィレンチェ、水の都ベニス、などの各都市での歓迎の様子、どの話しにも子供達は目を輝かせ胸躍らせて聞き入ったことであろう。玄也一家にとってそのひと時は夢のようなひと時であり、心休まる微笑ましい時間であったと思われる。 

『一六二○年年報』(元和六)
『キリシタンの教えのために追放された信者が此処かしこで多く見られた。その中にはディエゴ加賀山隼人殉教者の婿(小笠原玄也)もいた。彼は長岡越中殿(細川忠興)のために妻もろとも寂しい片田舎に名もない百姓、領内のやくざ者の間に追放された。・・・

今や綴れて(つづれ)垢づき破れ下がったぼろをまとい下層の職人、貧しい農民の中に混じり、最下級の奴隷か賤民階級の一人でもあるかの如く、自ら身を下ろして衣食を求め、いかなる賤務も厭わぬのである。我が会の神父はこの人が故里にあって豊富な生活をするよりも、むしろ追放の身分となり、苛酷な運命に弄ばれる(もてあそばれる)のを優れたりとするほど熱心に宗教を守ろうと堅い決心をしているのを見出した。』
(ロドリゲス・ジーラムJoão Rodrigues Giram神父の報告) 

『一六二○年年報』(元和六)
『神父ジュリアン中浦は筑後と豊前に出かけた。彼は同地で数多くの流人を見出した。その中には、殉教者ディエゴ加賀山隼人の婿(小笠原玄也)とその家族がいた。この名門に生まれて愉しい日を送ってきた士が、晴々として財産や故郷を捨てて現在の境涯を選び、今や極貧の人達の間に交って、百姓の姿(蓑を着ていた)をして、その日その日の糧を得んがために賤しい労働に従っているのは、感動すべき光景であった。』
レオン・パジェス著 日本切支丹殉教史 中巻
結城了悟著 天正少年使節の中浦ジュリアン 一〇〇~一〇四頁 

小笠原玄也の信仰
小笠原玄也・みや夫妻の神に対する信頼と信仰は、十人の子供達への教育方針に表れている。玄也・みや夫妻は、将来自分達が殉教することを知りながら、それでも子供を産み育てた。子供の命とは神からの授かりものであり、神から預かった命と考えていた。命とは神の無条件の恵みであり、殉教も神からの恵みと確信して受け入れる覚悟をしている。この世の命の彼方にある神の賜る本当の永遠の命を信じ、子供の救いにも神にある永遠の命が必要だと信じ、その信仰を子供達に教えている。子供達も玄也・みやの信じている神を自分自身の神として受け入れて信じ、親子がともに人生を歩み、死を超えて神の元へ行くためにともに殉教した。 小笠原玄也・みや・子供達の信仰は、熊本に於いて殉教した一六三五年(寛永十二)十二月二三日までの二三年間、一度も変わることはなかった。 

伊東マンショ神父の死去後、二十年間活動を続けた盟友の中浦ジュリアン神父は、伊東マンショ神父が残した全ての信徒達を自分の責任として受け入れ、迫害の中にある豊前のキリシタン達を慰めるためにたびたび訪れている。中浦ジュリアン神父は一六二七年頃以後、活動の場を口之津・高来から小倉周辺に移している。おそらく細川忠利の寛容な庇護のもと小倉を拠点にして秘かに活動していたと考えられる。香春町採銅所にある「不可思議寺」の住職・細川興秋の許で秘密裏に囲われていた。

香春町採銅所にある不可思議山不可思議寺・細川興秋が第2代目住職(宗順)

 細川興秋について
一六一五年(慶長二〇)五月一〇日、細川興秋は、大坂城落城の際、米田監物是季と共に、城内に残る兵をまとめて小隊を編成して、最後に池田武蔵守利隆の持ち場を見事に突破して京の伏見を目指して落ちて行った。一旦は自宅に戻り京の伏見の東林院に潜伏していた長岡与五郎興秋だったが、告訴する者があり潜伏先で捕らえられた。大坂方の武将としての責任を追及されて、父忠興により切腹が言い渡された。六月六日、興秋は京都伏見の東林院に於いて切腹した。 

しかし、実際は、興秋は切腹せずに、秘密裏に六月中に京都より瀬戸内海を船で渡り、豊前国田川郡香春町採銅所にある「不可思議寺」に連れてこられ厳重な警戒化に置かれた。身の回りの世話を田中半左衛門(長束助信)がして、伊丹喜助康勝が全ての警護の責任を任されていた。 

一六二一年(元和七)五月二一日付けの「長岡与五郎宛 細川忠利の書状」には、興秋が脳梗塞を罹患して、江戸から徳川家康の元主治医である与安法印・片山宗哲が遣わされ治療し、与安法印から湯治に行くことを勧めるまでに回復したことが述べられている。 

この六年後、一六二七年(寛永四)興秋は比較的自由の身となり、不可思議寺の住職として、中浦ジュリアン神父を匿うまでになっている。一六二七年(寛永四)頃、中浦ジュリアン神父も興秋と同じく脳梗塞を罹患して興秋が住職をしている香春町採銅所の不可思議寺に身を寄せて治療をしてもらい回復している。 

一六三二年(寛永九)十二月、細川忠利が肥後に移封された。小笠原藩が小倉に入ってきた後に中浦ジュリアン神父は逮捕された。領主が替わったことでキリシタンに対する庇護が失われたことが逮捕の原因になった。その後、長崎に護送され、翌年一六三三年(寛永十)十月二一日、西坂の丘に於いて殉教した。 

おわりに
一六一二年(慶長一七)十一月十三日、長崎のコレジオに於いて病気のため死去した伊東マンショ神父と、一六三五年(寛永十二)十二月二三日、熊本に於いて殉教した小笠原玄也が、一六○八年(慶長十三)から一六一二年(慶長十七)の四年間、小倉に於いて共に歩んだことを知る人は少ない。伊東マンショ神父の司祭としての小倉での四年間は誠に充実した日々だった。三八歳から四二歳の働き盛りの伊東マンショ神父の示した神に対する真摯な生き方と、迫害に雄々しく立ち向かった不屈の精神は、若い小笠原玄也(二一歳から二五歳)のその後の生き方の指針となり、深い影響力を及ぼし彼の魂を魅了した。小笠原玄也が殉教の前に書き残した十五通の遺書を読むと、その中に伊東マンショ神父と同質の純粋な神に対する信仰と魂を見出す事ができる。 

伊東マンショ神父の死去後、熊本に於いて殉教するまでの二三年の間、貧困に喘ぎながら信仰を保ち続け、迫害の真中にあっても聖貧に生き、雄々しく殉教していった小笠原玄也は、伊東マンショ神父の生き様と信仰を確かに受け継いだ人だった。信仰を自分の生き方の中心に置いて自己を確立し、信仰の自由を最後まで守り通す強い意志を持ち、命を賭けて神の前に真摯に人生を歩み通した。 

『わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとうした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けてくださるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。』  テモテへの第二の手紙 四章七、八節 

伊東マンショ神父も中浦ジュリアン神父も小笠原玄也も、人間の尊厳や人間の存在そのものまで疑わせるキリシタン禁教の時代にあって、キリスト教の信仰を自分のものとして受け止め、絶対に譲れない神を信じる信仰の自由、それに命を賭けて自分の生き方を神の前に問い続ける姿勢を持って日々を生きた。人生に於ける困難と迫害を神の御旨として受け止め、神という絶対者を信じ、神の境域にこそ永遠の命があると信じて生きた。それを信じて生きるためには確立した自己がなければならなかった。キリスト教を自分の生き方として受け止め、それを生きた人達と為政者との間に生じた確執の結果が殉教だった。殉教した人達とは、確立した自己を持ち、人間の生き方、信仰の高貴さや魂の優しさを証しする必要があったとき、ひとりの人間として神の前に真摯に生きることを選んだ人達だった。 

カミロ・コンスタンチオ(Camillo di Costanzo) 神父
一六一四年(慶長十九)マカオに追放の後、一六二一年(元和七)密入国して嬉野の不動山のレジデンシアで布教に従事、後、唐津にて信徒組織を再構築して、平戸・生月で布教に従事、その後、上五島の島、宇久島にて逮捕され、一六二二年(元和八)九月一五日、平戸の対岸、田平の焼罪岬に於いて火刑に処せられ殉教した。享年五二歳。 現・平戸市田平町 

グレゴリオ・セスペデス(Gregorio de Céspedes)神父
マドリードに生まれた。一五五○年と一五五二年の間の誕生。一五六九年一月二八日にサラマンカでイエズス会に入り、一五七四年三月二一日にリスボンを出発、同年九月六日にゴアに到着して後、約一年半インドに留まり、そこで司祭に叙階された。 

一五七六年に極東へ行き、翌一五七七年に日本に着いた。最初は九州に居たが京阪地区に派遣され、一五八七年七月の禁教令までそこで活躍した。その後、再び九州に移り、一五九三年の冬、朝鮮の役に参加していたキリシタン武士を訪問するために朝鮮に渡った。途中、しばらく対馬に滞在した。対馬の領主、宗対馬守がアゴスティニョ小西行長の娘マリアと結婚し、自らも朝鮮へ渡る前に受洗した。(零名はダリヨ)セスペデス神父は領主の妻に援助されて津島の伝道を開始し、二○人の武士に洗礼を授けた。対馬を出発するに先立って港町で、百人のキリシタンと共に御降誕祭を祝った。 

朝鮮に於いて、セスペデス神父と彼の同伴者ハンカン・リアン修士は熱心に活動し、特に対馬守の部下の間に伝道を行った。一五九八年(慶長三)八月十八日、豊臣秀吉の死去により、日本軍は十一月より撤退を開始した。日本に帰って後、再び九州で活躍した。 

一五九九年(慶長四年)十月、黒田官兵衛孝高(如水)はセスペデス(Gregorio Céspedes)神父を招いて中津の町に於いてイエズス会の修道院・教会を作らせ宣教を開始した。 

一六○○年(慶長五)から豊前で働き、初めは中津において、一六○二年(慶長七)に細川忠興が小倉城に移った時、セスペデス神父も小倉に赴き、以来そこに留まり、伝道した。一六一一年(慶長十六)十二月、長崎での会議から小倉に戻り、小倉教会の玄関で、脳卒中のため急死した。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?