天草下島北東地区・御領におけるキリシタン教会と信徒組織(コンフラリア)の成立と衰退・消滅


2022年12月9日 

2022年6月全国かくれキリシタン会誌30号・投稿論文
明智十兵衛光秀・細川ガラシャ・細川興秋・直系子孫・中村社綱氏(左)髙田重孝(右)

天草御領に於けるキリシタン教会と信徒組織(コンフラリア)の成立と衰退・消滅

はじめに
天草に於いて「カクレ(潜伏)キリシタン研究」が盛んにされてきたが、その研究対象は主に「天草崩れ」1805年(文化2)に発覚した今富、﨑津、大江、高浜地区と、それに伴う下島南西部地域とその周辺のカクレ(潜伏)キリシタン信仰形態の変容過程の解明にあった。

問題点1. 2つの地区の真逆の矛盾が以前から指摘されていた。

① 1805年(文化2)に発覚した「天草崩れ」今富、﨑津、大江、高浜地区と、下島南西部地域その周辺のキリシタン信仰形態の変容過程の解明とこの地区に残存するキリシタン墓碑の少なさ。

② 下島北東部地域・特に御領地区周辺のキリシタン組織・コンフラリアとキリシタン教会の存在証明の難しさ。この地区に残存するキリシタン墓碑(991基)の多さ。

問題点2. 2つの地区の真逆の違いが多くの研究者の疑問点であり研究課題だった

① 1805年(文化2)に発覚した「天草崩れ」今富、﨑津、大江、高浜地区と、下島南西部地域その周辺のキリシタン信仰形態の変容過程は多くの研究者により既に解明されている。また厳しい迫害時代にこの地域に存在していたキリシタン墓碑が破棄・投棄されている記録も分かっている。

② この論考で初めて下島北東部地域の志岐領内・五和町周辺の御領地区を中心としたキリシタン組織の成立と発展の経緯、同地区での信仰組織の衰退、及び消滅の過程(御領地区のキリシタン史)が解明された。キリシタン組織の衰退とそれに伴うキリシタン墓碑(991基)の残存過程は、1648年(慶安元)鈴木重成の仏教政策推進によりこの地区のキリシタン組織がキリシタンから仏教徒へ変容する過程に於いて、キリシタン禁止令・宗門改め制度「五人組み・檀家寺制度・1659年」「類族改め令・1687年」等の発布に伴い、先祖のキリシタン墓碑を破棄破壊せずに共生共存して守られた。

御領地区に於いて特に重要視されるのは、1566年、ルイス・デ・アルメイダ(Lufs de Almeida)により始まった宣教の歴史が、大村純忠の末弟・志岐諸経と嫡子・正願により継続的に拡大し、秘かに維持された禅寺・了宿庵(キリシタン教会)を核としたキリシタン組織の存在にある。このキリシタン組織を頼り1635年(寛永12)山鹿郡鹿本町庄「泉福寺」より御領へ避難した細川興秋の生存と嫡子興季(御領組み大庄屋)、興秋を支えた了宿庵の正願和尚の存在である。細川興秋生存の証明と御領周辺のキリシタン史は、単に細川家の系譜を書き換えるに留まらず、天草のカクレ(潜伏)キリシタン史全体の研究を再検討しなければならない歴史であり、天草キリシタン史を書き換えることになる。大きな意味で日本のキリシタン史全体の中でも重要な意味を持つ新しく非常に稀有なキリシタンの歴史である。

序説 天草五人衆の豊後小牟礼城における戦い
天草五人衆がキリシタンになる重要な要因
 
1586年(天正14)12月、薩摩の島津義久は豊後の大友宗麟を討つため、実弟の家久を日向縣(現・延岡市)経由で、佐伯、津久見、臼杵方面へ進撃させ、実弟の義弘を肥後高森より阿蘇方面を経由して豊後竹田方面に進軍させた。

 日向方面での戦いでは、大友宗麟軍には薩摩の猛攻を防ぐことができず、佐伯の数ヶ所の諸町村と、宗麟が立て籠もる臼杵城が残されていた。薩摩軍の3日間の猛攻を耐えた宗麟指揮の臼杵城は、薩摩軍の次なる戦いに備えるための退却で危機を脱すことができた。薩摩軍の侵略により、宗麟時代にイエズス会が築き上げたキリスト教の教会、修道院等の教会関連施設はことごとく破壊されて、イエズス会は本部を山口に移して一時的に避難した。

1587年(天正15)1月、豊臣秀吉の四国より派遣した讃岐の仙石権兵衛と土佐の長曾我部元親の家臣たちが臼杵に到着した。その後、府内(現・大分市)戸次川での戦いで、四国連合軍(仙石・長曾我部軍)と薩摩軍が激突したが、豊後大友軍・四国連合軍は大敗した。長曾我部元親の嫡子・信親が戦死。2,300人以上の戦死者を出して、仙石と長曾我部連合軍は四国へと船に乗って撤退した。

 方や島津義弘率いる薩摩軍は肥後高森より阿蘇方面を経由して豊後竹田方面に進軍、豊後竹田周辺の城々を攻略して徐々に豊後を制圧していたが、弱冠18歳の志賀親次(しがちかつぐ)が立て籠もる竹田城だけは4度の猛攻撃を掛けても攻略できなかった。

 志賀親次は1568年(永禄11)直入郡岡竹田の岡城主の志賀道易(同駅)の嫡男として生まれた。母は大友宗麟の正妻・奈多氏の連れ子であった。父道易と母は親次がキリシタンになることに断固として反対していたが、豊後の国主・大友宗麟ドン・フランシスコをキリシタンとして尊敬していた志賀親次は、1585年(天正13)自らの意思でキリシタンになることを決意して密かに府内のコレジオに赴き洗礼を受けて、ドン・パウロの教名を授かった。

 志賀親次の居城竹田の岡城の近くに、薩摩軍に投降した一万田紹伝の治めていた小牟礼城があった。薩摩軍はこの小牟礼城に同行していた天草五人の領主に監視と防御として配置した。

 一万田城付近から薩摩軍が撤退したことを知った志賀親次は、一万田の小牟礼城を奪還するために自軍を率いて小牟礼城を包囲した。城中に取り残された天草五人の領主と兵士たちは、薩摩軍からの援助を断たれて孤立無援と化した。

志賀親次がこの時取った小牟礼城にいる天草五人の領主に対しての行動は実にキリシタンらしく勇敢で慈愛に満ちた行動である。志賀親次ドン・パウルが天草久種ドン・ジョアンに対して取ったキリシタン同士の慈愛に満ちたやり取りのこの行動に寄り、他の四人の天草領主は命を救ってもらったことで徐々にキリシタンになって行った。
フロイス著 「日本史8 大友宗麟編Ⅲ」第70章(第2部87章)221~223頁

「志賀親次ドン・パウロは領地の近くに、豊後の反逆者に一人、一万田紹伝殿の所有する一城があった。薩摩軍はその城に、天草五島の五名の城主たちを監視と警護の役として配置していた。彼等の内、ドン・ジュアン(天草久種)とその部下だけがキリシタンであった。薩摩軍が敗走するやいなや、志賀親次ドン・パウロは直ちに、その五人の城主を殺して一万田殿に属する城(小牟礼城)を奪還しようとして、自らの兵をもって敵軍のこれら城主たちを包囲した。志賀親次ドン・パウロは多数の精鋭の兵士たちを率いていた。これに対して城中の者は外部からの援助を断たれていたので、ひどい不安と焦燥感に陥っていた。志賀親次ドン・パウロは城の麓に来ると、城中の天草久種ドン・ジョアンがいるかどうかと訊ねた。彼は天草のドン・ジョアン(天草久種)がそこにいると聞くと、彼の許に使者を遣わして次のように伝えた。

「某(それがし)、貴殿とは未だ面識なきも、貴殿がキリシタンたることを存じ申す。某、ただそれのみの理(ことわり)にて、貴殿ならびに貴殿麾下のキリシタンに対し深い愛情を示さんがために、かく罷り出でたる次第。さればただちに城から降り、某の許へ訪ねこられよ。某、貴殿ならびに御家臣に対しては、何らの害も加えることなく無事にお助け申すであろう。その他の異教徒の城主らは城に留め置かれよ。彼等は豊後および天下の敵なれば、全員殺害する所存なり」と。 

天草久種ドン・ジョアンは志賀親次ドン・パウロに、生命を助けてくれた大いなる恩恵と、自らに示された高貴で寛大な申し出に対して深甚なる謝意を表明させた。だが彼は、自分たち五名の城主は、天草に於いて隣同士で古い友情に結ばれており、ことにまた縁故関係にもあって、ほとんど一心同体ともいうべき間柄だから、できうることならば、ドン・パウロが全員を助命し自由にされたいと懇願した。そして、もしそれができぬということならば、仲間たちがこの戦いで生命を失っていながら、自分だけが帰郷するわけにはいかないから、自分もまたここで仲間と共に死ぬ覚悟である、と告げさせた。志賀親次ドン・パウロは心気高尚で立派なキリシタンであったので、「そのような事情があるならば、ドン・ジョアン(天草久種)殿に対する愛情に免じて全員を許そう」と答えた。

彼等が城から降りてくると、志賀親次ドン・パウロは彼等を素晴らしい饗宴に招待し、ドン・ジョアン(天草久種)には自らの立派な武具若干を、そして彼の兄弟ダン・バルトロメウには他の武具を与えた。そして彼らが日向の国に無事に入るまで付き添って行って見送った。

一同(他の天草の4人)はこうした行為を目撃して驚嘆した。とりわけ天草の四名の異教徒の城主たちは、キリシタンが互いに大いなる愛情と誠意をもって交わしているのに接して、感謝の印として後日キリシタンになる機会があれば説教を聞きたいととの意向をほのめかした。」

1587年(天正15)1月、豊臣秀吉は、先鋒として宇喜多秀家軍を九州に送り込み、続いて2月10日、黒田官兵衛髙孝を指揮官として実弟の羽柴秀長に5万の兵力を持たせて、日向方面に南下させた。この報せを受けた薩摩軍は羽柴秀長軍を戦うために、豊後に展開していた兵力を一旦日向の国の防衛線である髙城まで引き下げ、薩摩軍総勢25,000人として形勢を立て直し戦いに備えた。島津軍にとって日向の髙城は9年前の1578年(天正6)、豊後の大友宗麟との直接対決により勝利した「縁起の良い地の利を知った土地」だった。
9年前に勝利を呼び込んだ名将・山田有信を再び髙城に配置して備えを万全にしている。

1587年(天正15)3月29日、縣城(現・延岡)陥落。4月6日、黒田官兵衛髙孝、羽柴秀長軍は日向の耳川を渡り、徐々に髙城周辺に包囲網を築いた。4月17日、島津義久・義弘・家久が2万の薩摩軍を率いて都於郡城を出て、髙城へ進撃。髙城の南の丘陵である根白坂において激戦が行われた。根白坂での戦いが、島津軍による組織的抵抗の最後になった。
この後、5月6日、薩摩の島津家は秀吉に降伏した。

1587年(天正15)豊臣秀吉の九州平定では豊臣家に人質を差し出して、島津が降伏すると、天草五人衆も秀吉の配下となり志岐の領地は安堵された。肥後国には佐々成正が着任。成正が肥後国衆一揆の責任を取らされて自害した後、1588年(天正16)肥後は北半分が加藤清正、南半分(天草含む)が小西行長に服属した。1589年(天正17)小西行長の要請した宇土城普請では命令に服さず、これに他の天草の豪族たちも同調して行長と対立した。この小西行長の普請命令が天草合戦の直接的原因である。

第1章 天草のキリシタンについて
第1節 志岐麟泉時代のキリシタン受容
 志岐鎮経(しげつね)戦国時代から安土桃山時代にかけての天草の武将。天草五人衆の一人で、現・天草郡苓北町志岐にあった志岐城を拠点とした志岐氏16代目当主。肥後国志岐城主。別名・志岐麟泉(りんせん)で呼ばれている。

志岐氏の領地は現在の下島北の東西部、苓北町富岡、志岐を中心に、現・五和町を含む旧・御領組の二江、鬼池、手野、城河原、佐伊津、御領、広瀬、本泉,下河原、新林、本村が大まかな地域であった。

志岐城跡地
当時の志岐城は現・県道44号で南に下がった「麟泉の湯」近くの丘の上に城と屋形があった。現・富岡港の上にある富岡城とよく間違われるので注意が必要。

富岡城は寺沢藩時代になって代官所(館)として築かれた独立した番所(砦)で、後に増築されて城郭を成すようになった。1621年(元和7)より富岡城城代を三宅藤兵衛重利(細川興秋の従兄弟)が15年間勤めたことでも有名である。1637年 (寛永14) 11月「天草の乱」の時にキリシタン一揆(乱徒)軍が包囲して攻撃、激しい戦い行われた。

志岐鎮経(麟泉)
志岐鎮経(麟泉)は肥後天草諸島志岐城主・志岐重広の嫡子。1566年(永禄9)ルイス・デ・アルメイダ (Lufs de Almeida) を招き、キリスト教布教を許可して、天草に於けるキリスト教布教の先駆けとなった。志岐鎮経(麟泉)自身は、南蛮貿易の利益を目的として布教を許可した。そのため偽りの受洗をしてドン・ジョアン(聖ヨハネ)の教名を授けられた。麟泉の命により多くの領民がキリシタンになった。志岐富岡港が南蛮船入港に適してないことが判ったために、1570年(元亀元)に志岐での宣教会議でイエズス会は寄港地を長崎・福田へ決定した。南蛮貿易により利益が得られないことが判明した途端、鎮経(麟泉)は棄教して禅宗へ転宗、1570年(元亀元)からキリシタン領民に対して迫害を始めた。多くの善良なキリシタン家臣が棄教を迫られて、志岐からキリシタンが多くいる長崎や島原有馬、大村へ逃げ出して避難した。鎮経(麟泉)は長崎へ避難した2名のキリシタン家臣父子(ガスパルとディオゴ)に対して刺客を送り殺害している。

麟泉は養子諸経(もろつね)にも棄教を迫り、一度は諸経も受け入れて禅宗へ改宗して法名を「悟道眞元空法禅定」と号したが、キリシタン信仰を棄てることができなかったために、1579年(天正7)頃に養父麟泉より命を狙われたので御領の石本家を頼り逃亡避難している。諸経の志岐より逃亡避難後、麟泉の実弟・経弘(つねひろ・後に改名して親重)が諸経に代わり、志岐家の実権を麟泉と共に担っている。

志岐氏は豊後の大友宗麟の影響下にあったが、1578年(天正6)12月、日向国髙城・耳川の戦いで大友氏が薩摩島津軍に大敗した後、1580年(天正8)頃には、佐賀の龍造寺氏の傘下に属している。後に有馬晴信が龍造寺に反旗を翻した時、島原畷の戦いで龍蔵寺隆信が戦死。その後も九州制圧戦に島津と共に行動を共にしていた。麟泉の弟経弘(改名後親弘または親重)が島津義虎の嫡女を娶る(志岐文書一 志岐系図)

1587年(天正15)豊臣秀吉の九州平定では豊臣家に人質を差し出して、島津が降伏すると、志岐氏も秀吉の配下となり志岐の領地は安堵された。肥後国には佐々成正が着任。成正が肥後国衆一揆の責任を取らされて自害した後、1588年(天正16)肥後は北半分が加藤清正、南半分(天草含む)が小西行長に服属した。1589年(天正17)小西行長の要請した宇土城普請では命令に服さず、これに他の天草の豪族たちも同調して行長と対立した。天草合戦の勃発である。

小西行長は志岐城を攻撃するために3,000の兵を袋浦(現・富岡湾)へ上陸させたが、その夜、麟泉は夜襲を仕掛けて小西軍を壊滅させた。壊滅的攻撃を受けて小西行長は新たに6,500人の兵を揃え、加えて加藤清正、有馬晴信、大村喜前(よしあき)に助成を依頼。これにより小西軍は総勢1万で富岡の志岐城を攻撃。敗北を前に麟泉は、実弟経弘(改名後親弘または親重)の妻が薩摩出水城主・島津義虎の嫡女だった縁を頼って薩摩出水に落ち延びた。麟泉の弟経弘は対岸の有馬領へ逃れている。その後1590年(天正18)正月一日、本渡城での攻防戦があり、城主天草種元は討ち死し多くの犠牲を出して本渡城の戦い・天草合戦は終了した。後年、麟泉は天草への望郷の念に駆られ天草へ戻ったとされ、伝承では現・天草市親和町大多尾で死去したと言われているが、麟泉の死去した場所は特定されていない。

完訳フロイス『日本史九』大村純忠・有馬晴信編Ⅰ
第17章(第1部72章)247~254頁
ルイス・デ・アルメイダ (Lufs de Almeida) 修道士が志岐と天草で布教を始めた次第

「口之津に向かい合い、そこにある入海の反対側に、肥後の国が一つの岬の様に突き出している、ひとつのまとまった土地がある。そしてその地は五人の殿に分割され、彼らがそれを所有している。そのひとつが志岐という土地の名から志岐殿と称する。ところでコスメ・デ・トーレス(Cosme de Torres)神父は、志岐殿いる所が、(自分のいる)口之津に近かったのと、その殿は有馬の国主(有馬)仙厳に一人の息子(五男・諸経)を子供の代わりに引き取っていたので、この殿とその家臣たちを聖なる福音の吉報へ招き寄せることが適切だと思った。実はその殿自身、今までに数度そのことで司祭に願う所があったのである。それゆえコスメ・デ・トーレス神父はルイス・デ・アルメイダ修道士が五島の島々から帰った後(1566年6月末)20日経って、彼に別の修道士ベルショール(Belchior Nunez Barreto)を伴わせて、この新たな志岐で布教を開始するために派遣することに決めた。アルメイダ修道士がそこに着くと、殿およびその地の住民たちは彼に大いなる鄭重さと歓待ぶりを示し、さっそく彼に乞うて、自分たちはデウスの教えを伺いたいので、それについて説教をしていただきたいと言った。殿が家臣たちを呼ばせたところ、大広間は人々であふれ、一同は非常に入念に傾聴した。

 アルメイダ修道士は、新しい土地でデウスの教えを広めるのに、下層の民衆の間から始めることがどんなに全く不適当であるかということを豊後における宗門の発展から経験的に教えられていたので、彼は、まず最初に殿をキリシタンにできるかどうか探ってみることにした。殿は最初の説教を聴いた後、家臣に向かって、我らの聖なる教えは真理だと褒めたり彼らにそれを聞いてもらいたいと要請し始めた。そして修道士と話して、その後、次の様に乞う所があった。『予に洗礼を授けていただきたいが、それを秘してほしい。なぜなら家臣たちは、予が新しい異国の宗教を奉ずるのを見れば、ドン・バルトロメウ(大村純忠)に対してなされたように、彼らが予に叛起しはしまいかと切に案ぜられるし、それはイルマン殿にとっても決して良い結果とはなり得まい。だが家臣たちがキリシタンになってしまった後には、予は自らキリシタン信仰を公にしたいし、皆が説教を聴聞して、いとも神聖なその教えを受け入れるように命ずるつもりである』と。だが修道士は、彼の正体を見極め、その本心を探り、彼の性格を見届けた。彼が知ったことは次の通りでであった。すなわち彼はもう六十歳を超えた老人で、裕福であり、自らははなはだ勇猛果敢な人物で、下のどの地域でも畏怖されていた。また彼は富むためとならば、自分のやれるところでは強奪までした。偽ることを好み、陰謀や策略にはなはだ巧みで、真理にはほとんど心を傾けず、熱心な悪魔への奉仕者で、心から悪魔に献身しているように見受けられた。

ところでたまたまこの頃(1566年11月頃)一艘、ポルトガル人の船が領内の港のひとつに来航して、彼の心には貪欲の気持ちが働いた。そして彼はこう考えた。自分がキリシタンになれば、それによって伴天連やポルトガル人たちに大いに恩義をきせることになり、常にポルトガル船が自領の港にやってきて、それから莫大な利益を収め得よう、と。そこで彼は自分がデウスのことを理解しているかのように装って、修道士に対して切に洗礼を乞うたのであった。だが修道士は、殿の動機がどこまで内心の、そして真実のものであるかもっとはっきりするまで彼をそのままにしておいた。そしてついに修道士は内密に殿の家臣たちに向かって、殿の事をどう思っているかと尋ねてみた。彼らは修道士にこう言った。「殿を動かしているのはキリシタンになりたいとの一念にほかならず、殿は談話の間にも、デウスの教えを弁護しておられる。それゆえ殿に受洗なされるがよい。なぜならそれによって、もう改宗しているキリシタンたちは強められるし、異教徒たちは今より容易にキリシタンになるであろう」と。 修道士は殿にカテキズモ(教理)の説教をし続け、洗礼の秘跡を授けるのに十分と思われることを教えてしまった後、彼に洗礼を授け、そしてドン・ジョアン(聖ヨハネ)の教名を与えた。殿の他に、その一人の兄弟(経弘)甥たち、及びその他の貴人や庶民も洗礼を受け、総じてその数は500人ほどに達した。

 殿はその悪意を数ヶ月間秘していた。だが彼はそれを故意に抑えていたに過ぎなかったから、やがてそれはまた露われて、人が語るところでは彼は夜ごとに悪魔と語らい、心の底からその悪魔を拝んでいるとの事であった。実はこの習慣は彼の許ですでに深く根を下ろしていたのである。こうして彼は早速その信心から阿弥陀寺を建築し始め、そしてキリシタンたちがその建築を援助するように要請した。ところでこれらのキリシタンたちは、常に下の当地方における最良の、極めて確乎として、しかも信心深い人たちに属していて、誠実であり、自らの霊魂の救いということで熱意に満ちていたので、デウスの御言葉の種子は、ここでは肥沃な土地に落ちたものだと思われた。彼らはそのような人たちであったので、幾度となく殿にこう答えた。「デウス様の御掟は、キリシタンたちがそのような偶像のための仕事に従事することを禁じております。どうか私たちが安んじてその教えの下で過ごせるようにさせていただきとう存じます。ところで殿がお建てになろうとしておられる寺院の建立の件ですが、それには殿が仏教徒の御家臣をお用いになるべきで、私共キリシタンに割り当てられた仕事をその方々にしていただくにつきましては、殿は、私たちが受け取るはずの報酬をその方々に取らせるとよろしいと存じます。と申しますのも、私たちは、自分たちの霊魂にいとも明白な害を被って報酬を頂くよりは、そのようなものを受け取りもせず、寺院の建築というようなことに係わらずにいたいのですから」と。

 しかし殿は彼らが述べた理由に全然理解を示さぬばかりか、むしろ一層ひどい威嚇をして強要しようとしたので、デウスを信仰し、デウスに対する畏れということに一層基づいていたキリシタンたちは、故郷、封録、親戚、友人、家屋、その他携えて行くことができない物を捨てて、好便を見つけるや否や密かに対岸に逃亡した。これらの人たちの中にガスパルという教名のキリシタンもいた。彼は他の連中よりは殿と自由に話ができる身分の人であったが、殿は、彼にも他の大勢の人たちと同様に棄教を迫った。しかしこの善良で真実のキリシタンであるガスパルは、自分並びに他のキリシタンたちの為に口を切って、殿が自分たちを説得しようとすることが不適当な理由を殿に開陳した。そして付け加えて「殿はどうかそのような説得をなさらないでいただきたいし、なされても無駄でございます。なぜなら私をずたずたに切り裂くことができましょうとも、私は決して棄教しはしませぬし、かの寺の建築に手を貸すことをありませぬから」と言った。殿は残酷な人物であったから、彼に対して極度に激怒し、彼を殺させることをただちに決定した。だがガスパルは天性善良な人であり、そのためにキリシタンのもとでも異教徒のもとでも好まれていたので、殿が何日に彼を処刑することに決めたかが直ちに彼に報ぜられた。そこで彼はこっそり夜分にその土地を後にして、息子のディオゴと共に乗船して長崎に渡った。そこはキリシタンの土地であったので、彼は望み通り、司祭と教会の保護のもとに生活することができた。

 志岐殿は彼らが逃亡したことを知ると、その怒りはなお一層高まった。それというのも彼には、そのことから他の連中も同様に自分の領地から去るようになりはしまいかと案じたからである。それゆえ殿は心の中で、彼らを逃がしておくまいと決心した。そして抜け目なく骨折ったあげく、ガスパル父子が長崎にいることを突き止めた。そこで彼は自らの決心を遂行しようとしてひそかに一人の男(刺客)を派遣した。無実のキリシタン、ガスパルとディオゴは、その夜、長崎村から少しばかり離れた貧しい小屋で眠っていたが、その時かの刑使が侵入し、刀で惨殺した。しかし彼らの霊魂は、その信仰を証して永遠の栄光の世界に入って行った。

 志岐殿は、その他の時にはまともな判断ができる期間もあって、そうした時には家臣がキリシタンになったり、教会を建てたり伴天連やイルマンたちから世話になっていても彼は全然差支えがないという態度であった。そこでコスメ・デ・トーレス神父は長期にわたってミゲル・ヴァス(Miguel Vaz)修道士を遣ってその地に住まわせ、同様にガスパル・ヴィレラ(Gaspar Vilela)神父も都から帰ってきてからその地に住んだ。彼らは皆からよく世話してもらい、またこの島の人たちは、既述のように生まれつき質朴であり誠実だったので、当地のキリシタンたちはいつも立派な信心生活を保っていた。

 志岐殿(志岐麟泉)は実子に代わって息子としていた人(諸経)を決してキリシタンにしようとはしなかった。それどころか、この時から17年がたってからの事であるが、殿はその養子(諸経)を殺して、同家の相続権を、自分の甥(経弘の子)でガスパルという教名の一人の非常に立派な貴人であるキリシタンに与えようと決心した。だがそのことが人々に知れ渡ってしまい、また養子(麟泉の弟・経弘)はそれより先、薩摩出水城の屋形の一女と結婚していたので、その老人(麟泉)は、自分が全く不当な手段で手に入れていたその財産をその養子に残して置くまいと考えて、自分の城に放火することを決心した。事実そのように行われ、その際、彼が所有していたものはことごとく焼けてしまった。だが彼(諸経)自身は天草(御領)へ逃れた。ついで彼(麟泉)は再び自分の養子(諸経)と和解した後に、再び彼を殺そうとの計画を実行するに至った。そこで彼(麟泉)は、薩摩の国主によって、完全に肥後の国に追放され、そこで捕虜の様にして保留され、まだ所有していた銀で一千クルザードを超える金を没収された。追放されて6、7年後、遂にこの不運で哀れむべき老人は、不遇と背教のうちにその悲しく不幸な生涯を終えた。

 志岐のキリシタンたちは不断に前進した。彼らは自分たちの教会を持っており、其処へ祈りのために参集した。志岐領を新たに相続した殿は、常にキリシタンに反対していたが、彼はあまり厳しく彼らに対処しはしなかった。それは彼にはその点思うようにすることができなかったし、彼はキリシタンたちの奉仕を利用したく思っていたからである。

 1568年にガスパル・ヴィレラ神父が志岐に赴いてしばらくそこに居住した時に、彼は布教に大変熱中し救霊の事に熱意を燃やしていたし、絶えず説教をし続けていたので、その地の異教徒たちは心を動かされて彼の説教を聞き、彼らはデウスのことを理解したので、600人が洗礼を受けた。」

第2節 二人の志岐諸経(もろつね)について
志岐諸経(もろつね)について
今までの天草の資料集によると、麟泉の養子になった大村純忠の末弟・志岐諸経(もろつね)と麟泉の実弟経弘(別名親弘・親重)が混同して記載されている。諸経は志岐城の戦いの前、1579年(天正7)頃に養父麟泉より命を狙われたために御領の石本家を頼り避難している。(イエズス会資料・東禅寺住職過去帳より)

志岐経弘(つねひろ)について
諸経の代わりに麟泉の実弟・経弘が志岐城戦で敗れた後、甥の有馬晴信を頼って有馬に逃れたが、経弘(親弘・親重)の妻子以下は、豊臣秀吉の命により小西行長の領地・宇土へ移住させられた。その後経弘は宣教師の斡旋により妻子のいる小西行長の領地・宇土へ移った。  

小西行長の家臣となった経弘は生計のため若干の扶持を与えられていたが、志岐での領主としての収入と比べれば格段の違いだった。経弘は今まで理解したがらなかったキリスト教の教えを受け入れなければならない立場に立たされ、教理の説教を聞き聴聞した後、奥方や多くの家臣と共に洗礼を受けた。小西行長に従い文禄・慶長の朝鮮の戦いにも参戦した。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いで小西行長軍に従い戦って敗れ、その後は加藤清正に召し抱えられていた。

志岐経弘(親弘・親重)は1607年(慶長12)3月15日病死。遺体は八代の本昌寺に埋葬された。法名蓮乗院総宗安居士。経弘(親弘・親重)の嫡男・親益(ちかます)も1630年(寛永7)7月6日、同じく八代で病死。遺体は父経弘と同じく本昌寺に埋葬された。法名蓮姓院宗仙居士。次男の親昌(ちかまさ)は、1637年(寛永14)加藤家が改易されたのち八代から志岐に戻り、祖母の縁を頼って出水の島津氏・入来院重髙の招きに応じて召し抱えられていた。志岐親昌は1646年(正保3)9月9日、45歳で病死。出水の蓮昌寺に葬られた。法名傑心宗莫居士。その子孫は出水に於いて幕末まで続いた。

『天草郡史料』第2輯の誤記
御領の東禅寺の「住職過去帳」に記載されている大村純忠の末弟・志岐諸経の「了宿庵主」(後の東禅寺)としての経緯と「天草郡史料」に記載されている志岐諸経と考えられていた志岐麟泉の弟・志岐経弘(親弘・親重)の2人の経緯が、今回新たに比較すると「天草郡史料」第2輯に記載されている志岐諸経(親弘・親重)は、実は志岐麟泉の実弟・経弘(後に親弘、親重と名を改めている)とその嫡男・親益、次男親昌だと思考している。

「天草郡史料」第2輯では志岐諸経と、麟泉の実弟・経弘(改名後親弘・親重)を混同している。

また、志岐麟泉の実弟・経弘(親弘・親重)と嫡子親益の埋葬された八代の「本昌寺」の存在が確認されない。八代、宇土周辺の寺社仏閣総覧にも「本昌寺」の記載はなく実在した寺なのかの確認が現在のところ取れていない。埋葬された寺が確認されない限り二人の墓の存在も確認できない。本昌寺ではなく宗覚寺にあるという情報が寄せられていて確認中。
*宗覚寺(そうかくじ)八代市妙見町2445 ☎ 0965・33・4705

志岐諸経は天草御領の「了宿庵」庵主、1607年(慶長12)5月2日歿、73歳、法名悟道眞元空法禅定。「了宿庵」は後1597年(慶長2)「東禅寺」になって行く。(東禅寺過去帳)

志岐経弘(親弘・親重)1607年(慶長12)3月15日、八代で病死。八代本昌寺に埋葬。法名蓮乗院総宗安居士。嫡男・志岐親益、1630年(寛永7)7月6日、八代で病死。八代本昌寺に埋葬。法名蓮姓院宗仙居士。次男・志岐親昌、1646年(正保3)9月9日、45歳で病死。出水蓮昌寺に埋葬。法名傑心宗莫居士。「天草郡史料」より

御領の「東禅寺過去帳」は、その時代の住職により記載され続けるので一次史料としての価値を持っている。片や「天草郡史料」は後世に纏めて編纂された史料なので、誤記が生じる可能性がある。今回「東禅寺過去帳」と「天草郡史料」とを照らし合わせて初めて「了宿庵」庵主になった志岐諸経と志岐麟泉の弟経弘(改名後親弘・親重)に関しての間違いが明確に認識できた。志岐諸経についての新しい資料の発見により以後の天草の資料が書直されることを期待している。

*東禅寺過去帳
*『天草郡史料』第2輯、775~778頁(原史料)臨川書店 昭和58年
*玉木 譲著『天草河内浦キリシタン史』第6章、志岐の攻防、166~170頁   
 新人物往来社 2013年

参考文献
『切支丹風土記』 九州編 宝文社 昭和35年
今村義孝著『天草のキリシタン』 257頁
『天草の歴史』 本渡市教育委員会 昭和37年
キリシタンの花開く68~94頁、信仰の火は燃え上がる95~114頁
今村義孝著『天草学林とその時代』天草文化出版社 平成2年
今村義孝著『近世初期天草キリシタン考』天草文化出版社 平成9年
『天草学林・論考と資料集』 第2輯 天草文化出版社編 1995年
『五和町史』五和町史編纂委員会 平成14年 
 玉木譲著『天草河内浦キリシタン史』新人物往来社 2013年
 玉木譲著『天草キリシタン遍路』熊本日日新聞社 2018年
『天草郡史料』第1輯、第2輯、臨川書店 昭和58年

第2章 天草合戦後の志岐領のキリシタン組織
第1節 日比屋ビンセンテ了荷の指導による組織の新編成
1579年(天正7)志岐城攻防戦の10年前、養子であった諸経は、養父麟泉より命を狙われて殺害され様になったので、妻子と共に天草の御領へ逃亡避難して石本家(キリシタン)により匿われ保護されている。当時石本家は御領城跡周辺を領地として貿易により得た利潤により周辺のキリシタン組織を擁護していた。諸経の「了宿屋敷」がどこにあったかは不明だが、石本家所有の御領城跡地内に於いて匿われていたことは確実な事と考えている。

1589年(天正17)小西行長の宇土城普請を拒否して、天草五人衆が結束して戦いの火蓋が切られた。同年、9月22日、小西行長により志岐城攻撃が始まった。志岐氏の敗北の後、1590年(天正18)正月一日、本渡城での攻防戦があり、城主天草種元は討ち死し多くの犠牲を出して本渡城の戦い・天草合戦は終了した。

『志岐城の戦いが終了すると小西行長は志岐領の統治権と政策を日比屋了荷(ビンセンテ兵右衛門)に与え、志岐領内の体制を改めて整えている。日比屋ビンセンテ了荷は、小西行長の非常に近い親戚であり、堺の会合衆・日比屋了珪の息子で、ガスパル・ヴィエラ(Gaspar Vilela)神父から堺で最初にキリシタンの洗礼を受けている。ビンセンテの妹は小西行長の兄・小西如清と結婚して、その娘マリアは有馬直純の最初の妻になっている。ビンセンテの妻は小西行長の養子となった小西美作の娘アガタである。』
ルイス・フロイス著『日本史12』108章(第3部38章238頁)

小西行長から志岐領内の統治権と政策を任された日比屋ビンセンテ了荷は、長崎にいたオルガンティーノ(Soldo Organtino)神父の指導と援助を得て志岐領内に教会を建設して活発な宣教活動を展開している。

元々1566年(永禄9)に志岐麟泉のキリシタン容認により、志岐領内にはキリシタン信徒組織がすでに構築されていた。すでに存在していた信徒組織が30年後の1596年(慶長元)に新たな領主ビンセンテにより、より強固なものに一新されたと考えられる。志岐領内は14の村々からなりそのすべての村に教会が建築された。その時石本家の所有する御領城内にも志岐諸経の指導する教会(了宿庵)があった。1597年(慶長2)了宿庵は東禅寺と号している。この時代の御領におけるキリシタンの指導者は、大村純忠の末弟で志岐麟泉の養子になり、麟泉から追放された志岐諸経であり御領に於いて「了宿庵」庵主だったと考えられる。志岐諸経は1607年(慶長12年丁未)5月2日死去。享年73歳で死去しているので、その時まで諸経は指導的立場で御領地区のキリシタンたちを導いていたと思考している。新しい指導者日比屋ビンセンテの元、既存の信徒組織をより強固なものに編成し直して「信徒信心会」コンフラリアを立ち上げている。

「これらの諸地域では、信心会の成果が非常に豊かであり、本年(1596年)には新しい兄弟会の基礎が固められたが、その会長には殿自身(日比屋了荷・ビンセンテ兵右衛門)が成るであろう」
1596年度日本年報、ルイス・フロイス著

この年1596年(慶長元)二江(現・五和町)に「聖母のコンフラリア」が設立されている。その組織には400名が参加している。二江のキリシタン教会は「現・侍どんの墓」と呼ばれている二江小学校裏手の高台にある場所がキリシタン教会跡地である。

第2節 志岐の画学舎について
志岐のレジデンシア(住院)にあった「画学舎」
ルイス・フロイス著『日本史12』108章(第3部38章238頁)

「この(志岐)島には1592年(天正20)11月の終わりから93年(文禄2)の6月まで、すなわち、まもなくシナから定期船が来航する時まで、副管区長ゴーメス(Pedro Gómez)神父が他の同僚たちと共に身を寄せていた。その他、同島には、絵を描く少年たちや、銅板製作者、その他の司祭や修道士たちがいたが、*アガタは深い愛情と温情の業を持って一同を援助した。」

*アガタ、ビンセンテの妻で小西行長の養子となった小西美作の娘アガタである。

志岐「画学舎」 
志岐画学舎は美術工芸学校の事で、ジョバンニ・ニコラオ(Giovanni Nicolao)の指導のもと洋画教製作法の教育と宗教画の製作、銅板彫刻の技術の習得等が教えられた。

志岐に「画学舎」が設立されたのは天正遣欧少年使節が1590年(天正18)に持ち帰った活字印刷機と銅版画印刷機が初めて日本に持ち込まれたことによって、印刷所の設立が可能になった。この印刷機、銅版画印刷機により革新的技術が日本にもたらされ、美術史における画期的革命が起こった。
完訳フロイス『日本史12』 大村純忠・有馬晴信編Ⅳ 第107章(第3部37章)

228~232頁 八良尾の神学校(セミナリオ)
志岐に「画学舎」があった時期は1592年(天正20)11月の終わりから1593年(文禄2)6月までで、その後島原の八良尾へセミナリオと共に移動している。フロイスの日本史1593年(文禄2)の報告書によると、八良尾のセミナリオに於いて美術教育が行われ、4少年使節が持って帰った宗教画や肖像画の模写が行われていたが、美術を学ぶ少年たちの技術は著しい進歩を遂げ、ヨーロッパから持ち帰った物と見分けが付かないくらい程、精巧に描けるようになった。彼らの描いた多くの宗教画や聖画が日本各地にある教会の祭壇画として納められた。また銅版を彫る者たちも技術を向上させ、ローマからもたらされた印刷された画像を、本物そっくりに彫る技術を身に付けた。こうして銅版技術の向上により、教会のみならず、個人で聖画を持ちたいと望む人々の希望が満たされた。

参考文献 渡邊千尋著「殉教の刻印」有家版「セビリアの聖母」復刻の全課程 長崎文献社 2013年

 1598年(慶長3)8月5日、3度目の来日をしたヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)神父は、1599年(慶長4)3月、長崎のセミナリオを天草下島の河内浦に移した。それから5ヵ月後の8月、河内浦は不便なためにセミナリオと「画学舎」だけ、長崎から海路の利便性の良い志岐に移している。1599年(慶長4)志岐の修道院に附属して「画学舎」が再建された。セミナリオの院長はマテウス・コーロス(Mateo de Couros)神父が就任している。

この「画学舎」に於いて、宗教画に精通した日本人絵師の同宿が数多くの教会のための祭壇画を描いている。また教会で使用するためにヴァ―ジナルやパイプオルガンに似せてパイプ(銅筒)の代わりに乾燥させた竹を用いて日本独自の竹で出来たパイプオルガンを数台作成した。この後、1600年 (慶長5) セミナリオは再度長崎に移されたが、その時「画学舎」も長崎に移動したと思考している。

1589年(天正17)1月初め、天草合戦終了後、小西行長から志岐領内の統治権と政策を任された日比屋ビンセンテ了荷は、長崎にいたオルガンティーノ(Soldo Organtino)神父の指導と援助を得て志岐領内に教会を建設して活発な宣教活動を展開している。

小西行長は壊滅した志岐城の西の最も良い場所に2百間四方、約4万坪の広大な土地を与えている。この土地に新しくキリシタン教会が立てられ、教会のレジデンシア、画学舎が併設された。

「この周辺の22軒の農家の扶持米を教会維持のためにあてがった。それは白木尾地区の事であろう」本渡市史より

1599年(慶長4) から1600年(慶長5) 関ヶ原の戦いで不穏な情勢を避けて、日本の司教ルイ・セルケイラ(Lufs de Cerqueira) は長崎に在ったセミナリオの生徒30名とイエズス会員16名を率いて、ここ志岐に避難している。

白木尾地区の向かいに、鈴木重成が1644年(正保元)に建立した万松山国照寺(曹洞宗)がある。鈴木重成はキリシタン撲滅のために、天草の重要なキリシタン教会跡に、曹洞宗の本山にあたる4ヵ寺を建立している。

第3章 天草御領地区のキリシタン教会と信徒組織の成立
第1節 御領・佐伊津のキリシタン信徒組織・コンフラリアの成立過程

芳證寺の説明板
『当寺は正保2年(1645年)の建立で、開祖は中華珪法。代官鈴木重成の両親の菩提寺としてその戒名を取り、月圭山芳證寺と名付けられ、寺領十二石を受ける。芳證寺文書によると、この芳證寺は中世城跡であり、後にキリシタン教会が立ち、鈴木重成時代には茶屋が置かれ、その後に芳證寺が建立されたと記されている。元禄13年(1700年)焼失し、享保5年(1720年)再建落成。大門の山号の文字は、鈴木重成代官の筆跡である。』
御領まちづくり興会

芳證寺の説明板に書いてあるキリシタン教会がいつ建立されたかが以前から問題視されていた。キリシタン教会(キリシタン寺)が作られていたのならその背後に必ず信徒組織(コンフラリア)が存在していたはずである。その存在は判っていたが、明確な信徒組織の成立過程は不明だった。志岐氏領内の領民の大多数がキリシタンであった。その数は13,000人とイエズス会の記録にある。志岐領に於ける御領・佐伊津のキリシタン組織の成立が、志岐麟泉の改宗時期である1566年 (永禄9)以後であることはイエズス会の記録から判っていたが、その成立過程の明確なことは判っていなかった。いつだれがキリシタン教会を作ったのか、信徒組織(コンフラリア)はどのように活動していたのかをイエズス会の記録と天草御領の「東禅寺の住職過去帳と芳證寺過去帳」から考察する。

東禅寺過去帳調査 2020年9月26日、東禅寺・北川顕正住職様、中村社綱氏、髙田重孝、花岡聖子。10月10日、芳證寺・村上和光住職夫妻、中村社綱氏、髙田重孝、花岡聖子

第2節 天草御領のキリシタン教会と信徒組織(コンフラリア)
元々天草の佐伊津、御領は細川興秋の側室(佐伊津城・関主水の娘)と嫡子興季の郷里であり、また確固たる基盤を持つキリシタン信徒組織コンフラリアが存在していた。1617年(元和3)のコーロス徴収文書に天草内野村の信徒代表として3名の名前が記載されている。(内野村とは現在の手野一帯を指し、井手組庄屋の長嶋家が代表)。天草御領のキリシタン大長嶋九兵衛(安当仁)、ささ原与兵衛(備前天)、飛瀬外記(伊那所)。

この地域は1617年(元和3)8月29日付けで、中浦ジュリアン神父が中心となって作成した『イエズス会士コーロス徴収文書』に署名しているキリシタン代表者達が治める地域であり、信徒組織・コンフラリアが強固に確立されている地域でもあった。同地域とコーロス徴収文書に重複する村名と代表者名を下記に揚げる。

内野村 大長嶋九兵衛・安当仁、ささ原与兵衛・備前天、飛瀬外記・伊那所、二江村 松田杢左衛門・はうろ、宮崎権兵衛・理庵、茂嶋与三兵衛・はうろ、坂瀬川村 川崎市右衛門・平とろ、溝野上与四右衛門・さんちょ、前田弥右衛門・とめい、下津深江村 西嶋金七郎・志ゆ阿ん、西嶋右馬丞・ふらんそ、
松田毅一著『近世初期日本関係南蛮史料の研究』イエズス会士コーロス徴収文書 第45文書 肥後国 天草 1104~1108頁 

証言書中の下島キリシタン代表は34名で、その内五和町関係は、手野村3名、二江村3名の計6名の代表者名が記載されている。『五和町郷土史』47頁 昭和42年

第4章 御領の了宿庵について

第1節 興秋の御領への手引きをした「了宿庵」2代目庵主・正願初代住職・志岐諸経・悟道眞元空法禅定(有馬仙厳の五男・キリシタン)は1534年(天文3)有馬仙厳の五男として誕生している。表向き禅寺「了宿堂・了宿庵」庵主であり、御領、佐伊津地域のキリシタンの指導者だった。
興秋が1635年(寛永12)御領へ避難して来る前から御領に於いて「了宿堂・了宿庵」(キリシタン寺)を開きキリシタンたちを指導していた。1607年(慶長12年丁未)5月2日死去。享年73歳

2代目庵主正願は父・諸経の後を継いでキリシタンを擁護し保護していて、正願和尚のもと組織化された信徒組織(コンフラリア)がすでに御領には存在していた。
                    
浄土真宗・西本願寺派・北耀山東禅寺

御領にある現在の東禅寺

(☎ 0969・32・0375)
北耀山東禅寺は、隣接した芳證禅寺の北側に位置し、御領城は地形的に見て(東は海、北と南は入江に囲まれた丘陵地)この東禅寺、芳證禅寺及び御領城墓地までの領域を含んだ地域と考えられる。なお、現在地には九代の住職・大義(1829年歿)の時、石本家の「了宿屋敷」から移転した。

東禅寺・説明板
『永禄11年(1568年)発心出家した肥前大村守三男・鷹三郎が「悟道眞元空法禅定」と称し、天正7年(1579年)肥前大村から御領に移り住み、元「了宿屋敷」に禅堂を建立したのに始まる。その子、正願が慶長2年(1597年)東本願寺の末寺となり本寺を開基した。

その弟子、了宿がさらに西本願寺派に転じ、山号を北輝山と称した。九代大義(1829年没)時代に現在地に移転した。現在の建物は総欅、総丸柱にて名棟梁である吉見幸七が建てたと言うが、その木材は江戸幕府勘定所御用達にまで上り詰めた石本平兵衛(五代)が相良藩の山より選りすぐり切り出して建立した寺であり、全盛期の面影が偲ばれる寺である。』
御領街づくり振興会

東禅寺過去帳 (右)東禅寺住職用過去帳

歴代東禅寺住職略歴・東禅寺住職過去帳より

初代 志岐諸経(もろつね)
1534年(天文3)生まれ。肥前「日野江城主」有馬晴純(大村守・有馬仙巌)の五男(キリシタン)・鷹三郎(慶童丸)※日野江城跡(現・南島原市北有馬町戌)録に曰く、大村守三男 名鷹三郎克、藤原定頼の孫。志岐城主・志岐鎮経(麟泉)の養子となる
1561年(永禄4)27歳、嫡嗣正願、志岐城に於いて誕生する。
1566年(永禄9)32歳、ルイス・デ・アルメイダより養父志岐麟泉と共に洗礼を受けキリシタンとなる。
1568年(永禄11)34歳の時出家発心 禅門に入る(東禅寺過去帳)
法名 悟道真元空法禅定と号する
1570年(元亀元)36歳、麟泉キリシタン迫害を開始、長崎へ逃亡したガスパル父子を殺害
1579年(天正7)45歳、父麟泉より命を狙われて志岐城から妻子と共に天草御領へ逃亡。石本家(キリシタン)に匿われる
1579年(天正7)45歳の時、肥前大村より当村(御領)に来る(東禅寺過去帳)
1586年(天正14)12月、天草五人衆の豊後小牟礼城における戦いには参加していない
1589年(天正17)55歳、志岐城攻防戦、天草合戦には参加していない
1597年(慶長2)63歳、正願が東本願寺の末寺となり本寺・東禅寺を開基1607年(慶長12)5月2日歿、73歳、法名悟道眞元空法禅定

二代  正願 釋正願法印この頃まで仏心宗(仮のキリシタン宗門)と言う1561年(永禄4)生まれ。志岐諸経の嫡子として志岐城にて誕生
1566年(永禄9)5歳、ルイス・デ・アルメイダより洗礼を受ける
1570年(元亀元)9歳、麟泉キリシタン迫害開始。長崎へ逃亡したガスパル父子を殺害
1579年(天正7)18歳、父諸経と共に天草御領へ逃亡。石本家に匿われる1586年(天正14)12月、天草五人衆の豊後小牟礼城における戦いには参加していない
1589年(天正17)28歳、志岐城攻防戦、天草合戦には参加していない
1597年(慶長2)36歳、東本願寺の末寺となり本寺を開基し寺号を東禅寺と命名した。信仰 佛心より真宗大谷派に転じ東本願寺末寺となる。正願開基する。
1607年(慶長12)46歳、父諸経5月2日歿、73歳、法名悟道眞元空法禅定1617年(元和3)56歳、中浦ジュリアン神父(56歳)了宿庵に長逗留
中浦ジュリアン神父が作成した『イエズス会士コーロス徴収文書』8月29日付け
1629年(寛永6)68歳、ジャンノネ神父、フェレイラ神父を了宿庵に於いて5年間匿う
1633年(寛永10)72歳、ジャンノネ神父、島原で逮捕、穴吊しの刑により殉教。フェレイラ神父(53歳)長崎で逮捕、穴吊しの刑により棄教
1635年(寛永12)74歳、御領にて細川興秋(52歳)の存在を擁護し、以後7年間匿う
1637年(寛永14)76歳、10月、天草の乱勃発、興秋と共に八代に避難
1641年(寛永18)80歳、三代了宿誕生。(養子と考えられる)
1642年 (寛永19) 81歳、6月15日 *興秋(60歳)長興寺にて病歿。興秋の葬儀を正願和尚が執り行う。長興寺薬師堂南側(東禅寺墓地・御領城内跡地)へ埋葬する
1643年(寛永20)7月1日歿、82歳、墓碑は「イナキザ(稲置座)」に在り

三代  了宿 釋了宿法師。
1641年(寛永18)生まれ。興茂(嫡男)と双子の兄弟と考えられる。
父は初代代御領大庄屋・中村五郎左衛門興季(細川興秋の嫡男)
1645年(正保2)4歳、芳證寺開創建開基。
1701年(元禄14)4月、60歳、釋正願の弟、暁雲の養父、阿弥陀如来御下附寂如上人により、東本願寺より西本願寺派に転じ、山号を北耀山、寺号を東禅寺と称した。西本願寺より七髙祖御下附
1708年(宝永5)4月8日歿、67歳

四代  暁雲 釋暁雲法師。
1669年(寛文9)誕生
曾祖父は元祖・細川興五郎興秋入道。祖父は初代中村五郎左衛門興季。
父は、中村五郎左衛門興季の嫡子・二代目長岡宗左衛門興茂。
嫡子に長兄・三代長野五郎左衛門茂辰、四男・四代目・長野彦八郎茂直がいる。六男に暁雲がいる。

御本山より廣如上人御代寺号改め寂如上人から阿弥陀如来安置御免
1719年(享保四)己亥一月二十一日 享年五十歳

五代  圓尓(1743年歿)(東禅寺過去帳)朝廷から大津師号下賜。圓瑞(池田家文書) 圓尓(東禅寺過去帳)と圓瑞(池田家文書)は同一人物

六代  玄中(1769年歿)
*1753年(宝暦3)「寺社普請の節心得留」には客殿5間に7間、庫裏3間に6間とある。客殿5間=9m1㎝、7間=12m74㎝。庫裏3間=5m46㎝、6間=10m92㎝。(1間=1,82m)

七代  円中(1809年歿)
八代  圓哲
*圓哲住職の時、長崎鼻にあるキリシタン井戸枠(六角形)の麥大石(ばくだいし)が1792(寛政4)年の普賢岳災害の死者の追悼の為に東禅寺に奉納された

九代  大義(1829年歿)了宿屋敷(了宿庵堂)を現在地に移転・寺号東禅寺を建立する。現在の建物は総欅、総丸柱にて名棟梁である吉見幸七が建てたと言うが、その木材は江戸幕府勘定所御用達にまで上り詰めた石本平兵衛(五代)が相良藩の山より選りすぐり切り出して建立した寺であり、全盛期の面影が偲ばれる寺である。
了宿屋敷(了宿庵・キリシタン教会)がどこにあったのか。御領城内の石本家屋敷内にあったことは判っているが、明確な元の東禅寺の場所が不明である。

十代  了性(1861年歿)
十一代 大悟(1873年歿)
十二代 悦雲(1886年歿)
十三代 大安(1939年歿)
十四代 英髙(1974年歿)
十五代 顕正(現在の住職・北川顕正氏)
『五和町史』 482~483頁 五和町史編纂委員会編 平成14年 

初代住職・志岐諸経(もろつね)
悟道眞元空法禅定・有馬仙厳の五男(1607年歿)
東禅寺の初代住職は肥前大村守・有馬仙巌の五男・鷹三郎(慶童丸)と称しキリシタンである。有馬仙厳には五人の男子がいて、嫡男有馬義禎(よしさだ)、次男純忠(すみただ)は大村家へ、三男直員(なおかず)は千々石家へ(千々石ミゲルの父)、四男盛(さかり)は松浦家へ、五男諸経(もろつね)は志岐家へ養子としてそれぞれ入っている。

1566年10月20日付け ルイス・デ・アルメイダ(Lufs de Almeida)の書簡
「彼(志岐鎮経・麟泉)には男子が無く、有馬国主の一兄弟(諸経)を養子にしていたので同国主とは非常に親密である。この青年(諸経)は直に身分が察せられるほど上品で、君主ドン・バルトロメウ(大村純忠)の兄弟である。それゆえ、私は彼をキリシタンにすべく彼に対して一層の好意を寄せた。」*以下省略

了宿庵・了宿堂(初期の禅寺・キリシタン寺)
日本に於いて初めてキリシタン大名になった大村純忠ドン・バルトロメウの末弟・五男諸経(もろつね)1534年生まれであり、始め天草の志岐鎮経(しげつね・後の麟泉)へ養子に入った。諸経は兄の大村純忠の影響もありキリシタンだった。1566年(永禄9)志岐麟泉は南蛮貿易の利益を目的としてキリスト教会に近づきルイス・デ・アルメイダを招き志岐での布教を許可して、麟泉自身も受洗してドン・ジョアン(聖ヨハネ)洗礼名を受けた。

麟泉と共に諸経(32歳)諸経の息子・正願(5歳)、麟泉の実弟・志岐経弘(改名後親弘、または親重、彼の息子(親益・ガスパル)麟泉の重臣や家臣、庶民も洗礼を受け、その数は600人程になった。しかし、志岐の富岡湾は南蛮船の寄港地としては適さず、南蛮船が帰港しないことが判ると態度を一変して迫害に転じた。1568年(永禄11)麟泉は嫡子諸経(34歳)にも棄教を迫り、表面上禅宗に転宗して諸経は「悟道眞元空法禅定」と号した。

麟泉は諸経にキリシタンになることを許さず、後に麟泉は養子諸経に家督を譲ることを拒否して諸経の殺害を画策、同家の相続権を実弟志岐経弘(親弘・親重)の子、甥の親益・ガスパルという貴人に与えることを決めた。

完訳フロイス『日本史九』大村純忠・有馬晴信編Ⅰ
第17章(第1部72章)252~253頁

「志岐殿(志岐麟泉)は実子に代わって息子としていた人(諸経)を決してキリシタンにしようとはしなかった。それどころか、この時から17年がたってからの事であるが、殿はその養子(諸経)を殺して、同家の相続権を、自分の甥(経弘の子)でガスパルという教名の一人の非常に立派な貴人であるキリシタンに与えようと決心した。だがそのことが人々に知れ渡ってしまい、また養子(麟泉の弟・経弘)はそれより先、薩摩出水城の屋形の一女と結婚していたので、その老人(麟泉)は、自分が全く不当な手段で手に入れていたその財産をその養子に残して置くまいと考えて、自分の城に放火することを決心した。事実そのように行われ、その際、彼が所有していたものはことごとく焼けてしまった。だが彼(諸経)自身は天草(御領)へ逃れた。ついで彼(麟泉)は再び自分の養子(諸経)と和解した後に、再び彼を殺そうとの計画を実行するに至った。そこで彼(麟泉)は、薩摩の国主によって、完全に肥後の国に追放され、そこで捕虜の様にして保留され、まだ所有していた銀で一千クルザードを超える金を没収された。追放されて六、七年後、遂にこの不運で哀れむべき老人は、不遇と背教のうちにその悲しく不幸な生涯を終えた。」

了宿は同宿の読み違い(同義語)
御領での二代正願和尚の了宿堂(了宿庵)での活動はまさに教会を維持するための働きであり、伝道や説教をして教義を教えるという活動だったと推測される。当時、説教者や伝道師として教会に奉仕していた人々は「同宿」と呼ばれていた。彼らは剃髪して独身の誓願を立て、修道士のように取り扱われていた。しかしすでに結婚して家庭を持ちながら、また教会から生活費を支給されていた人々は「看坊」を呼ばれていた。これら看坊と呼ばれていた人々は、司祭のいない所で教会堂の世話をしながら、信者の世話もして、また信仰面では教理研究やコンフラリア(信徒組織)の指導と活動を任されていた。諸経の働きは、教会用語でいえば「看坊」にあたり、同宿も看坊も同義語として使用されていたので、諸経は「同宿」と呼ばれていて、それが訛って「了宿」と伝えられた。

同宿という言葉が御領地方の読み方(訛り・方言)で「同」が「了」になったのではないか、同宿堂・同宿庵が訛って了宿堂・了宿庵と呼ばれるようになり、豪商石本家(キリシタン)の保護の下、後の時代に石本家の御領城跡敷地内に住居(庫裏・屋敷)を構えるようになり「同宿屋敷」伝道所が「了宿屋敷」と呼ばれるようになったと考えている。

仏心宗
鎌倉時代に日本に伝わった禅宗には臨済宗、曹洞宗、後に1600年時代に伝来した黄檗宗(隠元和尚)がある。鎌倉時代、宗の国から禅宗の一派が伝えられた。栄西(1141~1215年)は臨済宗を、道元(1200~1253年)は曹洞宗を紹介した。禅宗は戒律と座禅による自力の修行で悟りに到達できると説き、武家社会に広く受け入れられた。しかし道元は禅以外のいかなる教えも容認しない姿勢を貫き、越前の永平寺に籠り、政治や権力と距離を置き、厳しい修行と弟子の育成に務めている。

「仏心宗」とは禅宗の別称。人間が皆生まれながらにして備えている仏性(仏心)を顕現することで仏となることを目指す宗門。仏の心、仏の慈悲の心、仏心を悟ることを教える宗門。禅宗は文字や経典に頼らずに、仏の心(正法)を師匠から弟子へ直接伝えて行くことを根本宗旨としている。

諸経と嫡子正願が奉じていた「仏心宗」とは、鎌倉時代から江戸時代に伝わった「仏教宗派」とは別の宗教と考えられる。禅宗を学んでいた諸経と正願が独自に名付けた名前と考えられる。おそらく禅宗教義を背景としてキリスト教教義との接点を見出し融合させ、キリシタンを奉じる人々の為にキリシタン寺(礼拝堂)を隠れ蓑に偽装(Camouflage)するために付けられた名前と推測される。諸経は1607年(慶長12)に死去。嫡子の正願が跡を継いで「了宿庵・了宿堂」を守っていた。

第2節 諸経を匿った豪商石本家(キリシタン貿易商)
1579年(天正7)頃、元志岐の領主である諸経(45歳)は麟泉から殺害されることを恐れて、当時志岐家の御用商人である天草御領の石本家(キリシタン)を頼り天草御領城内の石本家御領城地内に小さな堂庵を建ててもらい匿われた。諸経の住居は「了宿庵・了宿堂」(同宿庵・同宿屋敷)と呼ばれて御領地方のキリシタンたちの集会所・教会だった。諸経は表向き「悟道眞元空法禅定」和尚として禅宗「仏心宗」草庵の庵主を隠れ蓑に偽装(Camouflage)してキリシタン擁護の姿勢を持ち、1597年(慶長2)了宿庵を禅寺「東禅寺」と号して父麟泉より迫害を受けていた志岐領内のキリシタンたちを庇護し援助した。

長崎の石本家
 
石本家の系図によると、始祖石本庄左衛門(1544~1598年)は壱岐の島の生まれで平戸を経て長崎大村町に移住。後平戸町に於いて商売を拡大させた。屋号は長崎石本家「阿部屋」と称した。妻の名前は不明(?~1603年)

長崎初代・石本新兵衛(1563~1644年)は、父庄左衛門と共に14歳の時、壱岐より長崎へ移住。1625年、平戸町乙名を拝命している。長崎の街はキリシタンの街だったので、石本新兵衛も当然の如くキリシタンになり、系図には「転びキリシタン」と記されている。新兵衛の妻の名は不明。1569~1648年まで生存して、新兵衛同様「転びキリシタン」と記されている。

二代・長崎石本家・石本庄左衛門(1587?~1651?)1638年、長崎平戸町乙名を拝命。妻の名前は不明(?~1604年)

二代目・石本庄左衛門の弟 石本九郎右衛門(1588~?)
天草初代石本家・石本治兵衛の父で「転びキリシタン」。商い(貿易)を拡大、有馬藩、大村藩、唐津藩、佐賀藩の御用商人として事業を展開。この頃に商売の利便性のよい天草御領に居住して来たと考えられる。御領石本家の始祖となる。時代的には志岐麟泉の後期時代と重なり、キリシタン藩主である大村純忠の大村藩、有馬仙厳の嫡子・有馬義禎(よしさだ)の有馬藩、千々石家の貿易商売(朝鮮・琉球との密貿易を含む)を担い、多大な経済的利潤をもたらしている。屋号は天草石本家「松坂屋」と称する。

この時代の少し前1589年(天正17)に志岐家が滅亡。志岐家に代わり天草を統治した唐津藩との商売のやり取りが始まっている。為政者側は純粋に藩に利益があればそれで良いのであり、貿易をする石本家がキリシタンでも、己の利潤のためには目をつむっている。

石本善右衛門(1620~?年)石本九郎右衛門(1588~?)の嫡子、天草初代石本家・石本治兵衛の兄。御領石本家の本家となる。石本家系図には「転びキリシタン」と記されている。時代的には父石本九郎右衛門と共に細川興秋が御領に逃れてくる以前に、御領にてキリシタンたちを経済的にも擁護していたと考えられる。了宿庵」の正願和尚と共に、御領のキリシタンを擁護し保護し指導していたと考えられる。

正願和尚と石本九郎右衛門、善右衛門が御領のキリシタン信徒組織(コンフラリア)をすでに立ち上げていて指導していた。

御領の石本家
石本庄左衛門(?~1689年)
石本善右衛門(1620~?年)の弟(次男)、兄・石本善右衛門と共に、興秋が御領で生きていた1635年から1642年の七年間を支えていた石本家の兄弟。興秋が天草に来た1635年から、細川興秋の死去の1642年(寛永19)6月15日までの7年間、石本家系図には庄左衛門は1637年(寛永14)天草移住と記されている。しかし、天草移住はすでにそれ以前と考えられる。1637年は天草・島原の乱が勃発した年。そのような時代的に不安定な時に移住することに疑問を感じる。移住の年は1637年それ以前、少なくとも5,6年前の1630年初頭と考えている。系図にはキリシタンであることは記されていない。しかし時代的にも天草・島原の乱以後の石本家の当主であるので、厳しいキリシタン取り締まりにより表だってキリシタンであることは記されていない。しかし興秋との関係から善右衛門、庄左衛門、治兵衛の三兄弟がキリシタンであることは明確な事であり「了宿堂」庵主・正願和尚と共に、興秋を陰で支えた御領の信徒組織(コンフラリア)が存在したことは紛れもない事実と考えられ石本家の系図からも推測できる。

石本治兵衛(?~1711年)天草初代石本家
石本九郎右衛門「転びキリシタン」の三男。1637年(寛永14)兄石本庄左衛門と共に天草御領へ移住と記されている。1637年(寛永14)の天草・島原の乱以後の厳しいキリシタン取り締まりにより系図にはキリシタンであることは記されていない。
屋号は天草石本家「松阪屋」と称する。

参考文献
河村哲夫著『天を翔けた男 西海の豪商・石本平兵衛』梓書院 2007年
河村哲夫著『天草の豪商・石本平兵衛』藤原書店 2012年
『天草郡史料』第二輯、775~778頁 臨川書店 昭和58年

第5章 三宅藤兵衛重利の行った天草での迫害
第1節 天草全島において開始された迫害 
クリストヴァン・フェレイラ(Cristovão Ferreira・1580~1650年)神父は1605年から1608年までの4年間、マカオのコレジオで神学を学び司祭となった後、1609年(慶長14)6月に来日した。有馬のセミナリオに於いて2年間日本語を学び、1612年(慶長17)京都に派遣され、2年後の上地区(現京畿地方)の地区長を任され活動している。1623年(元和9)12月4日に江戸で起きた「元和の大殉教」の公式記録、1627年(寛永4)9月14日付、髙来地区における殉教記録、1628年(寛永5)2月、及び5月、雲仙での殉教記録、1632年(寛永9)3月22日付け、アントニオ石田神父の殉教記録等を記している。1614年(慶長19)の伴天連追放令の後も密かに日本に留まり、主に西九州で布教教活動に従事していた。

1629年(寛永6)から1630年(寛永7)にかけて5ヶ月間、天草の大矢野島に滞在して布教活動をしている。徳川幕府の政策によりキリシタン禁教令が一段と厳しくなり、多くのキリシタンの尊い血が殉教により流された。

 唐津藩寺沢広髙の統治していた天草に於いては比較的穏便な対策が取られていたが、幕府の方針に従い、1619年(元和5)を境に天草に於いても本格的に迫害が開始された。幕府のキリシタン政策の手前、各藩とも足並みを揃えなくてはならず、天草番代である三宅藤兵衛重利にもキリシタン迫害の命が通達された。

1621年(元和7)明智光秀の孫で、熊本藩主・細川忠利とは従兄弟にあたる三宅藤兵衛重利(父は明智光秀の家老・明智左馬介、母は細川ガラシャの姉の倫)が、寺沢藩主・寺沢広髙より遣わされて第七代天草富岡番代として着任した。寺沢広髙(1563年・永禄6~1633年・寛永10)の妻は妻木貞徳の娘で、明智光秀の妻である妻木煕子(ひろこ)と同じ妻木家の出身であり明智家とは親戚関係にある。その親戚関係を頼って三宅藤兵衛(19歳)は、1600年の関ヶ原の戦い以後、細川忠興の元を去り寺沢家に奉公したと推測される。

藤兵衛は幼い頃、伯母・細川ガラシャに育てられていて、ガラシャの影響により洗礼を受けたキリシタンだった。その後いつ棄教したかは定かではない。藤兵衛自身がガラシャの姿を見て育ったキリシタンだったので、罪のないキリシタンに迫害を加えることに関して忸怩(じくじ)たる思いがあった。無実のキリシタンに危害を加えることに関して藤兵衛はどのような思いで臨んだであろうか。

 フェレイラ神父は「富岡城代三宅藤兵衛の計画に基づく迫害だった」と記し、日本の史料には「藤兵衛は常々慈悲深き侍であった」と真逆の記録を残している。

第2節 天草下島西海岸での迫害
 1619年(元和5)初春頃から、三宅藤兵衛は各郡代にキリシタン百姓を強制的に棄教させるように命じている。迫害は富岡城のある志岐から始められ、宣教された同じ工程を辿り、西海岸を南下し、髙浜、大江、﨑津方面で開始された。三宅藤兵衛重利は甥・中村五郎左衛門興季(興秋の嫡子)が佐伊津の庄屋をしている御領地区では迫害をしていない。さすがに甥・興季の前では惨い迫害はしていない。それが三宅藤兵衛の中にある元キリシタンの良心だった。三宅藤兵衛重利の迫害記録を書いたのは当時御領の了宿庵(東禅寺)を本拠として匿われ宣教していたフェレイラ神父(1629年度、1630年度イエズス会報告記録)だった。
レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』下巻 131~133頁

『天草のキリシタンの管理を託されていたイエズス会の二人の神父(フェレイラとジャノネ)は、今年(1629年)の初めにこの群島を訪ね五ヶ月間逗留した。然し、この良き収穫が、七月に起こった迫害の為に一部破壊された。

 天草の領主寺澤志摩守は、志岐の代官兼群島の奉行として、棄教者で、且つ熱烈な迫害者たる三宅藤兵衛重利を選んだ。藤兵衛は代官、すなわち支配役に、百姓を強制的に棄教させよと命じた。最初の厳命は、奉行の所在地富岡の城を含む志岐で実施された。

 最初、家長たちが簡単な言葉と威嚇とで攻撃を受けた、或る者は下ったが、また他の者は頑として動じなかった。婦女子が監禁され、而もその数は、間もなく二一三人になった。
 その夫たちは、監禁されている妻の許に、貧弱な食物を少しばかり運んでやらなくてはならなかった。この哀れな人々は、懊悩のパンと苦悶の水で生きていたと言える。この最初の試練は七日間続いたが、誰一人死ななかった。藤兵衛は、陽の良く当たる畑の中に、かけで編んだ一種の小屋を建てた。その園内は誠に低く、立っていられないので、跪き通しでいなければならなかった。この小屋の中は棘で一杯であった。妻と乳飲み子とは、別々に監禁された。日に一回だけ、囚徒の父や夫が、食物を運んで行くことができるのであった、七、八日の間このままでいた。妻や子供が、夫の目の前で拷問を受けた。大勢の家長が次々と転んだ。かくて彼らが棄教すると、心配なしに妻や子供が返された。
 然し、色々な立派な例があった。その中にはキリシタンたちの頭で富岡の奉行の一人、トマス興三左衛門の如きがそれであった。彼の妻と子供のドミンゴスは監禁された。トマスはこの試練で少しも弱らなかった。しかも、彼は毎日家族のもとに食事を運んで来ては艱難に耐えよ、時によっては死にさえ耐えよと激励した。藤兵衛は、敢えてトマスを殺さず、息子を追放して、妻には邸内に於ける謹慎者の番を命じた。

 ジュリオという82歳の一老人、彼は近江の生まれで、元イエズス会の同宿であったが、8月の初めから11月29日まで虐められた挙句、天草の領主の直々の命令によって、首に大きな石を付けられ海中に投ぜられ溺死させられた。他の犠牲者たちも同じ刑を宣告された。

 アントニオ・ジャノネ(Giacomo Antonio Giannone)神父は、天草で迫害が猛威を逞している間に、大江で人(信者)の世話をしていた。河内浦にいた領国の代官は、神父の宿主を監禁した。扨(さて)この神父は、淋しい所に退去せねばならなかった。8月、代官(川崎)は、信者の子供を竹の籠の牢屋に入れて、陽と雨に曝されることにした。この哀れな子供たちは、一日に僅か一握りの粉と水しか与えられなかった。12日たって転宗した親達は、出かけて行った。然し、子供たちは弱りもせず牢番たちが同情してくれた食物さへ拒んだ。異教徒たちは、キリシタンの信仰の高い理想を会得した。なお続いて起こった二つの奇跡は、彼らをこの上なく感嘆させた。空中に充満していた蚊も牢内に入らなかった。そして瀧の様に降ってきた雨は、幼い難教者にはかからなかった。

奉行の下役は、同時に大江のキリシタンにぶつかって行った。彼らは、少なくとも各家庭で一人棄教することを望んでいた。同じ光景は﨑津の港にもあった。多数のキリシタンたちが弱った。』

 天草で迫害が猛威を振るっている中、大江の信者の世話をするためにジャノネ神父が島原の千々石から派遣された。この情報を入手した河内浦の代官・川崎伊右衛門は、ジャノネ神父の宿主を監禁した。ジャノネ神父は信者の手により大江村の裏山へ隠れ住んで、大江周辺の信者の世話をした。

1629年(寛永6)天草番代として赴任した興秋の従兄弟・三宅藤兵衛重利がキリシタンを迫害した記録が克明にフェレイラ神父により記載されている。富岡城下の志岐と大江で行われた迫害の記録が、天草のキリシタンたちの強い信仰を物語っている。数多くの信仰篤き信者が迫害により尊い命を奪われた。三宅藤兵衛重利のキリシタン迫害は、キリシタン伝道と同じ工程を辿っていて、まず地元の富岡・志岐から西の海岸線に沿って南へ下がり大江地区、﨑津地区、天草河内浦と迫害を進めている。
レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』下巻 第14章 131~133頁

「1629年(寛永6)河内浦の代官所はドン・ジョアン天草久種の城跡、現在の崇円寺にあった。代官川崎伊右衛門は大江の各家族の戸主を集めて、ジェノネ神父の隠れ家を詰問したが、彼らは「伴天連など全く知らない」と答えて棄教命令も拒否した。大江の信者たちは浜の近くに拵えた牢屋に投獄されたが効果はなかった。そこで信者の子供たちを牢屋に閉じ込めた。八月初めの夏の暑さの中、一日一回、わずかばかりの食物を与えて12日間、暑い日差しと雨の中に曝したが、子供たちは弱りもせずに立派に迫害に耐えた。

「空中に充満していた蚊も牢内に入らなかった。そして瀧の様に降ってきた雨は、幼い難教者にはかからなかった。」
「二つの奇跡を見せられて子供たちの為に棄教した親たちは信仰を取り戻した。」

イエズス会の管区と司教管区の責任者であったマテオ・デ・コーロス(Mateo de Couros)神父は、キリシタンの指導者として、地元島原の松倉豊後守重政が最も捕縛したかった最重要人物だった。コーロス神父は数年間、有馬の深江に潜伏して布教活動とイエズス会の指導をしていたが、迫害が厳しくなり、1627年、28年(寛永4,5)の雲仙での大量の殉教者を出した後、深江から有馬へ隠棲場所を変えた。松倉の詮索がさらに厳しくなったので、1630年(寛永7)6月初め、有江から小舟で天草へ渡ろうとした時、役人に見つかり、早崎海峡の速い潮の流れに助けられて3日後に﨑津港へ無事入ることができた。コーロス神父は﨑津の乙名であった孫十郎アドリアンの手引きにより、大江の信者の指導者ルカス・ゲンサイ老人宅に隠れ住んだ。コーロス神父が有馬から小舟で天草へ渡るのを手引きした一人の若者が有江に戻ると逮捕され拷問により、コーロス神父の大江の隠れ家を自白した。コーロス神父の居場所を突き止めた松倉重政は直ちに使者を富岡へ送り、三宅藤兵衛へコーロス神父の逮捕を要求した。三宅藤兵衛はキリシタン撲滅のためには、是非ともコーロス神父の逮捕は絶好の機会と考え、また同時に手柄を立てて藩主寺沢志摩守に取り入ろうと考えた。

藤兵衛から報せを受けた河内浦の代官川崎伊右衛門は16人の手下を連れて大江のルカス・ゲンサイの家を包囲した。しかし、大江のキリシタン信者たちは、いち早く代官の動きを察知して、コーロス神父を別の信者の家に移し、そこから四人の信者の担ぐ梩(もっこ)に乗って大江の深い山の中に身を隠した。コーロス神父は老齢であり中風を病んでいた。大江の山中で丸一週間、降り続く梅雨に打たれながら、幾度となく場所を変えて役人の追及を逃れた。その間、信者たちが運んでくれる冷えた握り飯と塩付の大根で命を繋いだ。7日目に長崎から報せを受けた一人のキリシタンが小舟でコーロス神父を迎えに来た。その小舟に乗ってコーロス神父は大江を脱出することができた。

 大江のキリシタン指導者ルカス・ゲンサイは家族全員河内浦の代官所へ連れていかれて、厳しい詮議と拷問を受けたが、誰も信仰を棄てなかったし、コーロス神父については何も話さなかった。代官は諦めて拷問を止め彼らを牢屋に留置した。

フェレイラ神父は大江のキリシタン指導者ルカス・ゲンサイの家族の殉教を記している。

『この総ての捕らわれ人のうちで一番幸せな運命がルカスの2人の孫にあたった。彼らは牢屋で亡くなって殉教の冠を得て天国へ行った。1人はミゲルと呼ばれ、﨑津に住んでいたアドリアンの息子でちょうどその年に生まれていた。もう1人はザビエルで、ジョアン善七郎の息子であった。善七郎も﨑津に住んでいた。ザビエルは六歳、1630年9月11日に亡くなった。』
結城了悟著『キリシタン蕾・殉教した子供たち』121~124頁 日本26聖人記念館2002年

1556年(弘治2)10月、領主志岐麟泉の模範に従ってキリシタンになった領民は、後に領主志岐麟泉からの弾圧があっても屈服せずに信仰を守り抜いた。志岐麟泉の領地は、現在の苓北町富岡、志岐を中心に、現・五和町を含む旧・御領組の(御領、鬼池、二江、手野、城河原、佐伊津、広瀬、本泉、下河内、新林、本村)が大まかな地域であり、領民の大半がキリシタンであった。

三宅藤兵衛重利は富岡城番台に任命された1621年(元和7)には既に従兄弟の細川興秋の嫡子・興季の存在を知っていて、藤兵衛が興季を佐伊津の庄屋に取り立てて、富岡城代としての藤兵衛と佐伊津の庄屋としての興季との間には政策と年貢に関しての政治的なやり取りがあった。藤兵衛は興秋の従兄弟になるので、興季にとって藤兵衛は叔父になり、二人は血縁関係を隠して信頼関係を築いていたと考えられる。

三宅藤兵衛重利も従兄弟の興秋の息子・興季が庄屋をしている御領・佐伊津地区ではキリシタン迫害を行ってはいない。藤兵衛は興秋の存命も知っていたし、まして甥、興秋の息子・興季の前では酷いキリシタン迫害はできなかった。それが元キリシタンであった藤兵衛に中に残っている棄教者としての良心だった。特に1635年(寛永12)10月以降、細川興秋が御領に避難してきて以来、三宅藤兵衛重利が天草本渡の戦いで戦死する1637年11月までの2年間、細川興秋の御領地区での存在が非常に大きなキリシタン迫害の抑止力だった。

御領地区のキリシタンの信仰は「天草島原の乱」(1638年・寛永15)の後迄、かくれキリシタンとして受け継がれていた。天草の下島・現在の五和町の二江、鬼池、大島、浜田、御領、佐伊津地区には多くのキリシタン墓碑が存在している。これらキリシタン墓碑はほとんどが無名の御領石で出来ていて、大概は貧しい農民の墓碑であるので、荒削りの切り出した石に名前さえ彫ってないものがほとんどである。 ☩(十字)の印があればましな方である。小さい墓碑は30㎝四方の石から、1mの大きさの墓石まで色々であり、天草御領地方独自のキリシタン史を学べば、それら無名の墓碑が語る天草御領地区独自のキリシタン史を知ることができる。現在天草では1,088基のキリシタン墓碑が確認されているが、そのうちの991基は五和町内に残在している。貧しい百姓農民や半農半漁で生活を営む人々がどうしたら立派な墓が作れるだろうか。自分と家族にだけ判る、切り出した荒削りの御領石を墓碑として埋葬した場所に置くことが彼らの精いっぱいの信仰の証だった。

第3節 細川興秋の天草御領への避難
 
1632年(寛永9)12月より豊前より肥後の国へ移封された細川藩と共に、肥後の国に移った細川興秋は山鹿郡鹿本町庄にある「泉福寺」の住職として隠棲していた。「泉福寺」の近くに小笠原玄也一家は潜伏して慎ましくキリシタン生活をしていた。

 1635年(寛永12)6月20日、小笠原玄也の10番目の愛娘・おるいが病気のために死去。隠棲先の玄也の自宅近くに埋葬された。この時の自葬が同じ村にいた百姓仁左衛門(助十郎とも称している)に玄也一家はキリシタンではないかと怪しむきっかけを与えた。玄也一家に対して不信を募らせた仁左衛門は密かに玄也一家の様子を注視観察して、キリシタンであるとの確信を持った。仁左衛門の心に一層火を付けたのが7月29日に下髙橋の髙札場に立てられた第2のキリシタン禁令の制札(髙礼)だった。仁左衛門は地元山鹿の番所ではなく、熊本の寺社奉行でもなく、約5日間、約180㎞を歩み通して長崎の立山奉行所宗門改めに訴え出た。この仁左衛門の訴えは長崎奉行所からすぐさま熊本藩の宗門改めに伝えられ真偽のほどを確認するように命令書が届いている。

細川藩としては今迄隠蔽してきた小笠原玄也一家をこれ以上匿うことができなくなり、10月下旬、一家を幽閉して、11月4日に熊本城下の田中兵庫の屋敷内の座敷牢(現・熊本中央郵便局敷地内)に於いて、12月23日の禅定院での処刑の日までの50日間、遺書を書く時間を与えるなどして丁重に取り扱っている。小笠原玄也一家15人は興秋の身代わりとして禅定院にて斬首処刑され殉教した。玄也の妻・みやの遺骨は、従兄弟の加賀山家総代・加賀山主馬守可政(よしまさ)により、祇園山(現・花岡山)の中腹に埋葬された。その上に加賀山主真馬可政により「加賀山隼人正藤原興良息女墓」と彫込んだ自然石墓碑(土臺石)が置かれた。その後この墓碑は約185年後の文政年間(1818~30年)まで忘れ去られていた。

一方、小笠原玄也一家の穿鑿訴追に巻き込まれそうになった「泉福寺」の住職である細川興秋の新しい避難先を、急遽、家老の米田監物是季は探さなくてはならなくなった。米田監物是季は天草御領にいる興秋の嫡子・興季(おきすえ)に取り急ぎ父興秋の現状を報告して、天草での受け入れ先の相談をしている。米田監物是季には興秋の息子・興季がキリシタンであり佐伊津の庄屋の重責を担っていることは知っていたが、御領のキリシタン組織の明細迄は把握していなかった。

御領の了宿庵(キリシタン寺)を中心として構築された堅固なキリシタン組織の事は、キリシタン組織にとって最高機密に属する最重要機密だったので、キリシタン組織の指導者たちの間だけの機密だった。過去1617年には中浦ジュリアン神父が長逗留して「コーロス徴収文書」を作成していたし、1629年から1633年までの5年間、天草を巡回していたジャンノネ神父とフェレイラ神父の本拠だった。宣教師を匿う位の重要な了宿庵はキリシタンにとって命を賭けても守らなくてはならない最高機密のキリシタン寺だった。

 米田監物是季から父・興秋の避難先の相談を受けた興季は、すぐさま御領の了宿庵住職の正願和尚に相談して、細川藩家老である米田監物是季を紹介して、正式に御領の了宿庵(後の東禅寺)で父・興秋を受け入れることを決定している。

御領「了宿庵」での興秋の受け入れが決まり、米田監物是季は、急ぎ興秋の居る山鹿郡鹿本町庄の「泉福寺」より、菊池川を舟で髙瀬(現・玉名市)まで下り、髙瀬より船で有明海を渡り天草御領まで運び、無事に「了宿庵」に避難させている。無事避難した後、興秋は御領城跡に『長興寺薬師堂』(キリシタン寺)を建立して完成後に了宿庵より移り住んだ。

第4節 細川興秋の天草御領での使命
細川興秋は1635年(寛永12)10月頃、天草御領に平安な隠棲生活を求めてきたが、天草は決して平和な土地ではなかった。その2年後、天草は寺沢藩、島原は松倉藩の統治下で、重税にあえぐ天草島原の領民を襲った飢饉と圧政に耐えられなくなった領民は団結して乱を起こした。1637年(寛永14)10月に勃発した「天草島原の乱」である。この時興秋には1615年(慶長20)大坂の陣の戦いでの籠城戦の苦い敗北の経験があるので、御領周辺のキリシタン領民に乱に加担することが無いように説いている。御領周辺のキリシタン領民に対する説得は神が興秋の与えた使命だった。乱に参加している土地の名前の中に御領の名前はない。興秋の助言を受け入れた御領周辺のキリシタン領民はそれぞれ工夫して乱徒軍とは距離を置いて逃げている。興秋は自分に従ってきた家臣長野幾右衛門家重と渡辺九郎兵衛と共に、また佐伊津の庄屋・息子の興季と共に、人々に乱の最終結末が殲滅で終わることを説明して乱徒達に組みしないように説得して廻った。その結果、キリシタンの多い地区、御領組の鬼池、御領、佐伊津村のキリシタン達は興秋達の説得に応じて乱に加担せず、島原に渡らず、原城に立て籠もらずに全滅を避けられた。興秋の忠告を聞かずに個人的に乱に参加した人々は原城と共に玉砕、全員殺害された。

1637年(寛永14)
10月25日 天草の乱勃発。興秋(54歳)
10月26日 長岡監物(米田是季)(51歳)熊本に於いて島原の乱の大筒の音を聞く
11月14日 三宅藤兵衛重利(56歳・興秋の従兄弟)本渡の戦いに於いて戦死

「藤兵衛の首は介錯をした山本五郎兵衛が田の中に押し込んで隠したが、後一揆の者が探し出し、本戸の浜に曝し首にした」「その後佐伊津の庄屋右衛門がもらい受け、広瀬の高台に埋葬したのが、現在の藤兵衛の墓である」『上天草市史 大矢野町編3 近世』148頁
鶴田倉造著『天草島原の乱とその後』平成17年

「この時、佐伊津の庄屋、市右衛門が一揆の者どもから遺骸をもらい受け埋葬したのが、現在の広瀬にある藤兵衛の墓地である。」『五和町史』503~504頁 五和町史編纂委員会 平成14年

(天草市広瀬にある三宅藤兵衛重利の墓碑 撮影・原田譲治)

興秋の息子、佐伊津の庄屋の興季が叔父・三宅藤兵衛重利の遺体を一揆軍より貰い受け、広瀬の高台に埋葬した後、石碑を置いて供養した。「天草島原の乱」の終息後、御領に帰ってきた興秋も、息子興季の案内で、従兄弟の藤兵衛の墓に詣でている。興秋と興季は藤兵衛の為に本来ならば武将三宅家藤兵衛に相応しい墓所を建立したかったが、あまりにも墓所が立派すぎると、建立した興季と興秋との関係を疑う者が出ることを避けるために、派手な墓所建立は避けて質素な石碑のみに留め置いたと考えている。1637年(寛永14)11月14日、三宅藤兵衛重利が本渡の戦いで戦死した時、当時佐伊津の庄屋だった興秋の息子興季(おきすえ・キリシタン)が、叔父藤兵衛の遺体をキリシタン乱徒軍から引き取り、懇ろに広瀬の高台に葬っている。場所は、現在の広瀬の「三宅藤兵衛重利の墓地」である。

第5節 原城の戦い
1638年(寛永15)元日、総大将の板倉重昌が戦死。1月4日、細川軍は有明海を渡り、須川で野営し翌5日に着陣した。天草に在番していた小笠原備前守長元、清田石見も急遽、参戦した。細川軍総勢28,600人、備えを指揮する備え頭に家老の松井、有吉、米田、小笠原と一門の細川立孝が勤めた。表向き米田監物是季は熊本留守居役を命じられている。左一番備え、長岡佐渡守、志水伯耆守3,279人は細川軍に於いて最も戦闘能力が高い部隊であり、原城三の丸を正面から、左二番備え、小笠原備前守長元は1,303人を率いて、原城三の丸の浜の方向から攻撃の指揮を執っている。旗本備えとして加賀山主馬は232人を率いて参戦、奥田権左衛門は1,252人を率いて参戦している。

「原城の戦い」は1638年(寛永15)2月27日から28日にかけて凄惨を極め、籠城していた37,612人(有馬記)のキリシタンは殲滅され、幕府軍も多大な犠牲を出して終焉した。中浦ジュリアン神父、ジャンノネ神父、フェレイラ神父が司牧していた島原地方、口之津、有家、有馬のキリシタン信徒達23,896人、天草地方のキリシタン信徒達13,719人がこの戦いに参加して犠牲になり殉教した。細川軍も死者285人、手負いの者1,826人を数えた。(細川藩の記録による)

原城落城
1638年(寛永15)2月28日 興秋(55歳)島原原城本丸での戦闘は早朝より開始され昼までに陥落。本丸での戦闘はほぼ終了した。参戦したキリシタン37,612人は全員戦死、生き残って捕縛された非戦闘員は斬首殉教した。原城陥落の午後、本丸と蓮池周辺の空堀や空穴に隠れて身を寄せ合っていた非戦闘員の老人、男性、女性、子供達、約2万人近くが、戦闘に参加した各藩の兵士たちに捕えられ三の丸の谷間に於いて全員斬首の刑に処せられ殉教した。

『生捕、分捕る高名は幾千人という数を知らず。右生け捕りの男子女子諸大名の陣々より数百人を召し連れ来れば、三の丸の谷間にて、一々首を刎ねられけり。』『四郎乱物語』7巻386~387頁、2月27日城攻めの事より

原城の戦いの最後の処刑はキリシタンとして信仰のための純粋な殉教となった。原城攻撃の指揮を執っていた松平信綱の嫡子輝綱の『島原天草日記』には『その上、童女に至るまで死を喜び、首を斬られた。それは通常の人間ができることではなく、あの深い信仰の力である。』と殉教の様子を書き残している。松平輝綱著『島原天草日記』続々群書類従 4

詩編46編1節 『神は我等の避け所また力である。悩める時のいと近き助けである』
詩編61編1節 『神よ、私の叫びを聞いてください。私の祈りに耳を傾けてください』
詩編9編12節 『血を流す者にあだを報いられる主は彼らを心にとめ、苦しむ者の叫びをお忘れにならないからです』

細川興秋一行は、島原の原城陥落後、政情が落ち着いた3月初旬頃を見計らって、避難先の八代から天草御領のキリシタン寺「長興寺」に戻ったと考えられる。時期については不明、推測するなら、八代から島原の原城攻略のために出兵していた細川立孝が率いる八代の部隊の帰還と入れ違いに八代を離れ、海路天草の御領に戻ったと思われる。一揆・乱終息後に、平時のカクレキリシタンの生活に戻り、乱徒軍により焼かれた「長興寺薬師堂」「了宿庵」を再建して今まで通りのキリシタン組織を中心とした生活を始めたと推測される。

第6章 了宿庵(東禅寺)二代目住職・正願和尚について
第1節 正願和尚の宣教師たちへの擁護
二代目正願和尚も表面上は禅宗「東禅寺」の住職として、キリシタン領民に理解を示し、キリシタンを擁護する姿勢を持っていた。父諸経「悟道眞元空法禅定」和尚(1607年死去)のキリシタン擁護の姿勢を嫡子の「正願」和尚も持っていたので、1614年(慶長19)以後のキリシタン禁制の時代になっても、御領でのキリシタンの信徒組織活動(コンフラリア)は了宿庵(後の東禅寺)の庇護のもと容認していた。キリシタン禁制により檀家寺制度が機能し始めた時も了宿堂・東禅寺は禅宗の檀家寺としてキリシタンたちを保護していた。

中浦ジュリアン神父への擁護
1617年(元和3)8月29日付けで、中浦ジュリアン神父(48歳)が御領の了宿庵・東禅寺に長逗留して、中心となって作成した『イエズス会士コーロス徴収文書』には御領組みの庄屋たちキリシタン代表者達が署名している。御領地区は信徒組織・コンフラリアが強固に確立されている地域でもあった。この時、中浦ジュリアン神父は、天草全島を巡回して、イエズス会を支える庄屋達から署名を集めている。

ジャンノネ神父、フェレイラ神父への擁護
1629年(寛永6)正願和尚(68歳)天草に於ける三宅藤兵衛重利のキリシタン迫害が激しさを増し、三宅藤兵衛重利に追われたアントニオ・ジャンノネ(Giacomo Antonio Giannone)神父、同宿の木寺修道士、クリストヴァン・フェレイラ(Cristovão Ferreira・1580~1650年)神父(49歳)は御領の了宿庵に匿われ、正願和尚の元、了宿庵・東禅寺を本拠として宣教を続けている。
『避難場所もなくなると、神は慈悲深い仏僧(正願和尚)を彼に授け給うた。仏僧は自分の家(了宿庵・東禅寺)を提供し、彼の行動の本拠となさしめた。』

天草下島で唯一、禅寺として身を隠しキリシタンたちを擁護していたのは正願和尚の「了宿庵・東禅寺」であり、キリシタンの正願和尚がジャンノネ神父、フェレイラ神父に自分の住まいを提供できる慈悲深い仏僧であり、ジャンノネ神父は了宿庵・東禅寺を本拠として天草・島原のキリシタンたちを巡回していた。フェレイラ神父は1631年8月20日付け「1629年度、1630年度、イエズス会日本年報」を御領の了宿庵に於いて記録している。
参照21~24頁、レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』下巻 131~133頁

1632年(寛永9)イエズス会日本管区長マテオ・デ・コーロス(Mateo de Couros)神父が長崎で病没した後、フェレイラ神父が管区長代理に就任している。正願和尚が何時までジャンノネ神父、フェレイラ神父を匿っていたのかは不明だが、少なくても1629年から1633年までの5年間は匿っていたと思考している。

第2節 ジャンノネ神父の殉教とフェレイラ神父の棄教
ジャンノネ神父(Giacomo Antonio Giannone)と同宿のヨハネ木寺修道士は、1633年(寛永10)巡回先の島原で逮捕され、一旦は長崎の桜町の牢屋に送られていて拷問に掛けられたが、長崎の代官長門殿の命令で島原に戻されて、ヨハネ木寺と共に、島原の今村の刑場で8月28,29日に穴吊しの刑で殉教した。

「有馬の付近で、昔の宣教師で、24年以来日本にいたジャコボ・アントニオ・ジャノネ神父が捕らわれた。彼は長崎に連行され、次いで、長崎の代官長門殿の命令によって、有馬に導かれた。8月27日、島原で11人のキリシタンが火炙りになった。これは大部分が宣教師たちの宿主であった。

ジャノネ神父、及びその伴侶ヨハネ木寺修士は、キリシタン達を恐怖させるために、驢馬に乗せられて、島原中の寺という寺全部の中を引廻された。尊き神父とヨハネ木寺は27日に島原で吊るされて、8月28日と29日に死んだ。」レオン・パジェス著「日本切支丹宗門史 下巻」第2章1633年 249頁

ジャンノネ神父はナポリ王国のBitontoの人。1609年日本に着き、殆どずっと島原の有馬で24年間働いていた。彼は四誓願修士で、イエズス会に在ること37年であった。

島原で火炙りにあった11人(宣教師たちの宿主の家族)
イグナチオ喜衛門、その妻レジナ、その子達3人。ガスパルフォンザブロウ。バルタザル五郎八、及びフランシスコ蔵之丞、パウロ庄吉郎、その兄弟。ミカエル三平。ガスパル興七郎、及びマリア。ガスパルド、マリア両人の子何某
レオン・パジェス著「日本切支丹宗門史 下巻」第2章1633年 249~254頁

「ドミニコ会の司祭で、同会の長老であり、また使徒としてキリシタンから尊敬されていたドミニコ・デ・エルキシア(Dominngo Ibáñez de Erquicia)神父は、この度行いて、迫害者の手に落ち、次いで神の御手に移って行った。兵卒たちは熱心に彼を探していた。彼の人相書きはビエイラ(Sebastián Vieira)神父のそれの如く、方々に廻されていた。最後に拷問に負けた彼の宿主の一人が、彼の事を白状した。神父は捕らわれて、役人の前に連れ出された。役人は彼にもし棄教すれば、一万両の年金と皇帝の特別な保護があると言った。神父は彼の申し出を軽蔑し、刑場に連行された。彼は8月29日に長崎で吊るされて、9月1日に息を引き取った。フランシスコというドミニコ会の一神父が、彼と共に、穴の中で落命した。中には、三人の婦人と一人の子供が交じっていたが、八人の他のキリシタンは、火炙りになった。

 ドミニコ会のルカス・デル・エスピリット・サント(Lucas del Espíritu Santo)神父は、前月、東から西まで、遠く離れた諸州、すなわち出雲、因幡、但馬、越中、能登、越後、及び奥州にまで遍歴した。8月15日には、彼は京都にいた。この町から音羽(摂州)に行き、そこで、イエズス会のアントニオ・デ・ソーザ(António de Sousa)神父に遭った。この両人は、いずれも9月8日木曜日、聖母の御誕生の祝日に、主人と別れることを欲せず、聖霊に励まされて、イエズス・キリストに、その生命を捧げんことを望んでいた召使と同時に捕らわれた。二人の神父は「テ・デウム」(Te Deum・感謝頌)を歌い、また牢舎で、互いに足を洗い合った。奉行たちは驚嘆していた。彼等二人の修道者は、フランシスコ会の神父と一緒にされた。

9月9日、彼等は奉行所に連行され、その前面で、トマス・デ・サン・ハシント(Tomas de San Jacinto)神父の避難所を明らかにする為に、多くのキリシタンが水責めにあった。そして聖なる十字架の頌栄の日(9月14日)に、二人の神父が同じ拷問を受けた。10月2日、ロザリオの聖母の祝日に、宣教師の従僕が拷問を受け、同日、二人の神父と九人の他の囚徒たちが出され、縛られた上に木の桎(かせ)をはめられ、大坂を発って兵庫と小倉を経て、長崎に向かわされた。陸路の旅行中、修道者たちは公然と神の御言葉を広め、代わる代わる住民に説教するために起きていて休むことさえしなかった。かくて彼等は、豊前、筑前、肥前、諫早の地方を経て、9月24日に長崎に着き、そこで新しい牢舎に入れられた。そこにはイエズス会の神父たち、すなわちクリストファル・フェレイラ(Cristovão Ferreira)、 ヨハネ・マテオ・アダミ(Giovanni Matteo Adami)、日本人ジュリアノ・デ・中浦神父が監禁されていた。他の難教者たちは、近頃、殉教のために出たばかりであった。

 9月の末頃、志岐の牢舎で、修士として入会したパウロ斎藤神父の伴侶たる日本人ディエゴ度島が火炙りになった。同時に小倉で、ジュリアノ・デ・中浦神父と共に捕らわれたトマス了寛、ベント・フェルナンデス神父の伴侶ルイス・カクフ(加福)、及びヨハネ・ダ・コスタ神父の伴侶たるディオニジオ・山本、三人とも日本人で、牢舎で修士として入会した者であるが火炙りになった。

 また同じくその頃、江戸で、イエズス会の実に古い日本人の修士ヨハネ・山が穴の中で死んだ。最後に、長崎の付近で、イエズス会の日本人、ミカエル・ピネダ(Michael Pineda)神父が、嵐の夜、その宿主から返され、死病に取りつかれて三日目に死んだ。

 然し、27年前から日本に潜入していたイエズス会のベント・フェルナンデス(Bento Fernandes)神父は、キリシタン達の上に、無限の勢力を張り、異教徒さへも、深い称賛を呈していた。彼は日本到着以来、新しい祖国に対する忠誠の質として、その名に、日本人なる呼称を附し、自ら日本人ベント・フェルナンデスと名乗っていた。

 役人たちは、熱心に彼を探していた。然し、彼の生命の安全は、多くの霊魂の救済に係わることであったから、イエズス・キリストの逃亡者として森林中に退去していたのであった。

 7月30日、この驚嘆すべき神父は、長門で捕らわれ、無数の人々の群がる中を駄馬に乗せられて長崎に連行された。奉行たちは、奉行所で彼を待っていた。神父は、いとも貴くいとも柔和な態度で挨拶したので、皆の心を動かした。彼は評判以上に偉大だと思われていた。

奉行は彼に、この最後の場合に如何にも鷹揚であるから、其方はヨーロッパの大名の子に相違なかろうと言った。フェルナンデスは微笑して、自分を巡る威風堂々たる護衛を見れば、全く如何にも大名らしく見えると答えた。

 役人は、彼の誘惑を試みた。時に彼は、最初に示すはずの温雅な振る舞いの代わりに厳格を示し、イエズス・キリストの教えに就いては、滔々(とうとう)と答えた。彼は結論して、宗教の主なる真理は對(たい)する自分自身が編纂した本を出して、この真理を証明するために死ぬ覚悟だと付け加えた。 奉行たちは尚も彼をできれば助けたいと思って、二ヶ月間牢舎の中においた。最後に、彼等は、皇帝の命令に従うために、良心に反して、同じくイエズス会の日本人パウロ斎藤神父と同時に、穴吊るしを宣告した。而(しか)して斎藤は、彼の最も優しい友であり、使徒的巡回の伴侶であった。この後の神父は、その追放の折に、交趾支那、及び東京(トンキン)で福音を伝えていたのであった。この両人は、何れも9月25日に穴の中に入れられた。

フェルナンデス神父は、そのまま26時間いた。その後、彼を殺すことに深い悩みを感じ、彼が屈服を希望していた役人の命令により退けられた。彼は番人の家に移され、それから医者の注意(介抱)を受けた。斎藤神父は丸七日間穴の中にいた。その真中で、彼はフェルナンデス神父が、死ぬ日、死ぬ時間でなければ死なないと予言した。彼は七日間、何も食べずに過ごし、これには兵卒がひどく感嘆した。最後に彼は魂を返し、フェルナンデス神父は通知を受けた。これは10月2日の事であった。二人の遺骸は剣で寸断され、火中に投ぜられて焼き棄てられた。

 フェルナンデス神父は54歳で、イエズス会に在ること38年、日本滞在27年であった。彼は四誓願司祭であった。斎藤神父は56歳、イエズス会に在ること26年であった。 奉行は今村傳四郎と曽我又左衛門とで、これが彼に宣告を興へ、その名はピラトのそれの如く残るであろう。

10月8日、9日、10日に、長崎でポルトガル人のヨハネ・ダ・コスタ(João de Costa)神父と日本人サイト・トクウンが穴吊るしで死んだ。二人ともイエズス会員であった。それから土着の神父で、聖フランシスコ会の第三会員ヨハネ宮崎、フライ・フェレイラの真の伴侶で、イエズス会の修士ダミアン・深江、イエズス会の従僕ロレンシオ・フシ、ダ・コスタ神父の伴侶で、イエズス会の修士たるルイスという他の一日本人、外二人の日本人が死んだ。最後の日本人は斬首になった。

 殉教者たちは、10月4日水曜日に穴に入れられた。ダ・コスタ神父は、水曜日の真夜中から土曜日の晩まで、トクウン神父は、水曜日の昼から月曜日の晩までそこに留まった。ヨハネ・宮崎とダミアン・深江とは、月曜日、他の者は火曜日に絶命した。一人は拷問の七日後に投獄され、斬首された。

10月18日、長崎でイエズス会の管区長ポルトガル人のクリストファル・フェレイラ神父とイエズス会の日本人神父ジュリアノ・デ・中浦が穴の中に入れられた。またシシリア人で、イエズス会のヨハネ・マテオ・アダミ(Giovanni Matteo Adami)、イエズス会のポルトガル人アントニオ・デ・ソーサ(Antóio de Sousa)神父、聖ドミニコ会の修道者、イスパニア人フライ・ルカス・デル・エスピリット・サント(Lucas Del Espítu Santo)神父、イエズス会の日本人ペトロ修士とマテオ修士、聖ドミニコ会のフランシスコ修士が穴の中に吊るされた。

 難教者たちの日本に於ける伝道は42年、29年、23年、17年、及び10年を経ていたので、この教会の最も花々しいものの一つであるべきこの殉教が、イエズス会の立派な宣教師、否管区長その人の背信によって暗くされた。拷問の5時間の後、23年の勇敢な働き改宗の無数の果実、聖人の様に忍耐された無限の迫害と難儀によって、確固していそうに見えたフェレイラ神父が天主の正しく計り知れない審判によって、哀れに沈没した。」

「殉教の第二夜、拷問が彼等の心を変えたか否かを見るために、ルカス神父と三人の修士が穴から引き上げられた。彼等の心に変わりがないので、翌日、ルカス神父と修士の二人は、再び穴の中に入れられた。フライ・フランシスコはこと切れていた。そして彼等は立派にその行程を完了した。20日に中浦ジュリアン神父、ペトロ修士とマテオ修士が、22日には、アダミ神父が、26日にはアントニオ・デ・ソーザ神父が落命した。ルカス・デル・エスピリット・サント神父の死んだ日は正確には不明である。」255頁

喜んで主の戦いに
「ジャコモ・アントニオ・ジャンノネ(Giacomo AntonioGiannone)神父はその発散する楽天主義によって、総ゆる型態の潜伏宣教師の生活を実践した。活躍した地域は有馬、天草地方であり、比較的限定されていた。彼は必要の多い急所急所に浸透して潜伏し、信者たちを激励した。しかし地区内の村々を絶えず巡回している。彼自身泊った所は「百姓の貧しい藁小屋であった。私にはこれがローマやナポリの極めて豪奢な宮殿の様に思えた。」そこは山の雑草の中にあった。」

「過ぐる(1629年・寛永6)8月、彼は天草諸島でかなり綿密な捜索を受けた。その時は信者の懇請で、数日間、山の萱の中に隠れなければならなかった。」「避難場所もなくなると、神は慈悲深い仏僧(正願和尚)を彼に授け給うた。仏僧は自分の家(寺)を提供し、彼の行動の本拠となさしめた。」

ジャンノネは苦難を知った人物であった。「48歳を過ぎていないというのに、髪はすっかり白くなり頭は禿げて来て70歳のようであった。」と1627年に書いている。この早すぎる老化の原因は明白である。「目下寒気厳しく、降雨の中をいつも陸路徒歩で巡回することが多いこと、藁だけで建った、風の防ぎようもない貧しい田舎家の故である。こうして私たちは生きる時も、死ぬ時も、神のものである。」

肉体的苦痛に加えて、彼は自分の教会が滅ぼされていくのを見て悲嘆に暮れた。「この事が私たちに齎(もたら)した大きな悲しみは猊下の御想像にお任せする」

落胆や逆境の打撃に屈服することは、ジャンノネの与り知らぬところであった。彼の書簡には常に、神に寄せる確信、イエズス会の召命と日本の宣教師の職務に対する深い感謝の念が見られるのである。如何なるときでも彼の唇には「神は讃むべきかな」の詠嘆が絶えなかった。この言葉を完璧に感じさせる文句が、彼の旧友で、心を打ち明ける相手であったパヴォーネ神父に宛てた書簡に見出せる。「神に対して、我が主イエズス・キリストの御父よ、祝福されてあれ、神はこの迫害に於いて私たちを慰籍し給うのである」

この超自然的喜びと、唇に浮かぶ讃歌と共に、彼は自分に託された信者のために島原で1633年(寛永10)穴吊しの拷問の中に命を捧げていくのである。島原は迫害の15年間、彼の苦闘によって耕された土地であった。
結城了悟著(ディエゴ・パチェコ)『九州キリシタン史研究』
潜伏した宣教師たち231~232頁 キリシタン研究16

ジャンノネ神父とヨハネ木寺修士は島原の有馬で逮捕後、長崎のクルス町の牢屋に護送された。この牢屋は後に桜町の牢屋と呼ばれ、元は聖フランシスコ教会の敷地内に建てられていた。ジャンノネ神父はこの牢屋で共に島原で宣教活動をしていた中浦ジュリアン神父と再会した。中浦ジュリアン神父は1632年12月に小倉のキリシタン宿主宅に於いて逮捕され、長崎の牢屋に護送されていた。細川藩が豊前から肥後熊本へ移封する時に、細川忠興の密告により小笠原家の兵士により逮捕された。それまでは香春町採銅所の不可思議寺に匿われていた細川興秋により1627年以来32年までの6年間、細川興秋の庇護の下、豊前、筑前、筑後のキリシタン達を巡回して宣教活動を展開していた。細川興秋にとって中浦ジュリアン神父は特別な信仰の友であり、運命共同者だった。興秋は肥後山鹿郡鹿本町庄の「泉福寺」に落付いたら、中浦ジュリアン神父を山鹿の「泉福寺」へ呼ぶ計画だったが、父忠興がその計画をダメにした。

同じころ、ジャンノネ神父と共に天草御領の了宿庵にいたフェレイラ神父も長崎で逮捕され、桜町の牢屋に入ってきた。中浦ジュリアン神父はジャンノネ神父とフェレイラ神父から、島原と天草のキリシタン達についての報告を受けている。ジャンノネ神父、フェライラ神父、中浦ジュリアン神父の3人は、天草御領の了宿庵(後の東禅寺)の庵主・正願和尚によって匿われていたので、互いの情報の交換ができた。それと同時に、3人共通の最重要機密・御領の了宿庵・キリシタン寺と正願和尚の事はどのような拷問に遭おうとも口が裂けても語ることが無いことを誓い合った。3人とも了宿庵の正願和尚のことは一言も言うことなく機密を守り通して殉教した。棄教したフェレイラでさえ約束通り正願和尚の事は秘密を守り通した。

クリストファン・フェレイラ(Cristovão Ferreira)神父(53歳)は1633年(寛永10)長崎で捕縛された。同年10月18日、中浦ジュリアン神父(64歳)と共に穴吊しの刑に処せられたが5時間後に棄教した。この時の殉教の様子がレオン・パジェス著「日本切支丹宗門史・下巻」1633年、254~255頁に詳しく記録されている。

棄教後、日本名・沢野忠庵と称し、妻を娶り嫡子忠二郎と女子を授かり30人扶持を与えられ禅宗皓台寺(こうたいじ)檀家となり、長崎本五島町に居住。宗門目明しとしてキリシタン詮議に協力した。1636年に反耶書『顕偽録』を皓台寺住職一庭融頓の指導で書いている。幕府の命によりイエズス会で用いていた天文学書「乾坤弁説」、医学書「南蛮流外科秘伝」等を翻訳して西洋科学を日本に伝えた。「慶安3庚寅年10月11日」(1650年(慶安3)11月4日)フェレイラ(70歳)長崎で死去。現在フェレイラの墓所は東京都台東区谷中の瑞輪寺にある娘婿の杉本家の墓に合葬されている。墓碑銘「忠安浄功信士」。

第3節 フェレイラに改心を促すカトリック教会の日本潜入行動
 1633年(寛永10)棄教したフェレイラは、当時イエズス会日本管区長代理であったフェレイラの棄教は背信行為としてカトリック教会に大きな衝撃を与えた。フェレイラの棄教に関し様々な不正確な情報がマカオに伝えられたが、1636年11月2日、中国管区巡察師マヌエル・ディアス神父は確信的情報を入手してクリストファン・フェレイラのイエズス会からの除名を宣言した。反対にフェレイラの棄教の罪を償うとするカトリック教会の行動も始まっている。
*レオン・パジェス著「日本切支丹宗門史・下巻」1636年 291頁

1637年(寛永14)イタリア、ナポリのマストリリ公爵の息子・マルセロ・マストリリ(Marcello Mastrilli) 神父が中心となって日本行きを計画した。同年9月19日、薩摩(現在の串間市)に上陸後、直に拿捕され長崎に護送され、酷い拷問の末、10月14日穴吊りに処されて殉教した。長崎に於いてマルセロ・マストリリ神父がフェレイラと会うことはなかった。
*レオン・パジェス著「日本切支丹宗門史・下巻」1637年 302~314頁

1639年(寛永16)フェレイラの背信行為に対して信仰の立ち返りを求め、ポルトガル人イエズス会士アントニオ・ルビノ(Antonio Rubino)神父は日本渡航を企画して宣教団を2組に分けて編成している。
レオン・パジェス著「日本切支丹宗門史・下巻」第9章 1642~1643年 356~361頁

1642年(寛永19)ルビノ神父を中心とした第1団はマニラから薩摩下甑島に着いたが、薩摩の兵に逮捕され長崎奉行所に送られ取り調べを受けた。8月21日、この時通訳としてフェレイラが同席して説得したが厳しい言葉で拒否された(オランダ商館日記)。厳しいルビノ神父の反駁に遭いフェレイラは自分の棄教を恥じて退席している。(359頁)

7ヵ月に及ぶ酷い水攻めの拷問の末1643年(寛永20)全員が穴吊しの刑により殉教した。
レオン・パジェス著「日本切支丹宗門史・下巻」第9章 1642~1643年 361~363頁

1644年(正保元)4月、日本管区長ペドロ・マルケス(Pedro Marques・~1657年)神父を第2団長として平戸の北筑前梶目大島に着いたが、平戸藩の兵に逮捕され江戸へ送られた。江戸では初代宗門吟味役の井上筑後守政重(1585~1661年)の取り調べがフェレイラの通訳と説得により行われ全員棄教している。井上政重の屋敷内に建てられた切支丹屋敷に死ぬまで収容された。その中にジョセッペ・キアラ(Giuseppe Chiara・1602~1685年)神父イタリア人がいる。日本名・岡本三右衛門、日本人妻を与えられ10人扶持、宗門改め役を仰せつかりキリシタン遺物の詮議に携わった。自分自身の棄教・転宗に関する心の内の葛藤の経緯を描いた『契利靳督記』(きりすとき)キリシタン教理についての書物を著した。

ルビノ神父の計画した2回の日本潜入が失敗に終わり、以後日本への宣教師潜入は不可能となった。64年後の1708年(宝永8)イタリア、シチリア島、パレルモ出身の在俗司祭・シドッチ(Giovanni Battista Sidotti 1668~1714年)が単独で屋久島唐の浦に上陸したが、捕縛され長崎奉行所で取り調べを受けた後、江戸へ護送され、小石川切支丹屋敷に監禁された。新井白石(1657~1725年)の取り調べを受けた後、棄教した。表面的にはキリシタンが日本からいない時代になり、新井白石ですら、シドッチ(Sidotti Giovanni Battista 1668~1714年)の取り調べにあたって、初めてキリシタンの教理を知り西欧の最新の知識を学んだ。シドッチから得た情報を基に新井白石は『西洋紀聞』等の著書を書いている。シドッチは切支丹屋敷の雑役長助・はる夫妻に洗礼を授けたことが発覚して地下牢に監禁され、半年後の1714年(宝永7)10月21日(11月27日)牢死(49歳)殉教した。

第4節「了宿庵」庵主正願和尚と興秋との関係
 
1633年(寛永10)了宿庵・東禅寺に匿われていたジャンノネ神父は島原に於いて穴吊しの刑で殉教した。同年、長崎方面に宣教に行ったフェレイラ神父は捕縛され、10月18日、中浦ジュリアン神父と共に西坂に於いて穴吊しの刑に処せられ5時間後、棄教した。中浦ジュリアン神父は4日間苦しい穴吊しの刑に耐え続け、21日神が与えたもう殉教の栄冠を手にした。

その2年後、1635年(寛永12)10月頃、小笠原玄也一家の穿鑿訴追から無事避難できた細川興秋は家老米田監物是季の周到な準備の元、山鹿郡鹿本町庄の「泉福寺」から菊池川を舟で下り、髙瀬(現・玉名市)から船で有明海を渡り、御領に移った興秋は「了宿庵主」正願和尚の保護と理解の元、御領城跡に自分の住居として『長興寺薬師堂』を作り隠棲した。現在芳證寺墓地と言われている御領城跡墓地の敷地内である。同年12月23日、小笠原玄也一家15人は興秋の身代わりとなり、熊本の禅定院に於いて斬首処刑され殉教した。全員の遺体は焼却され残った遺灰は俵に詰められ、海に廃棄された。

御領に落付いた興秋は「了宿庵主」正願和尚とはキリシタン住職として親密な交際があったと推測される。興秋が天草に来た1635年(寛永12)から、興秋の死去の1642年 (寛永19) 6月15日までの7年間、興秋のキリシタンとしての世話と隠棲を助けていたのは「了宿庵主」正願和尚であり、興秋が病歿(60歳)後、御領城跡地の長興寺薬師堂の前(薬師堂南側)(池田家文書)に葬ったのも正願和尚だった。正願和尚は興秋を葬った次の年1643年(寛永20)7月1日歿、82歳で死去している。正願和尚はイナキザ(稲置座)墓地に葬られた。現在、東禅寺住職たちの墓碑はイナキザ(稲置座)墓地より、東禅寺裏山の東禅寺墓地に移されている。

興秋(宗専和尚・泰月和尚)と「了宿庵」の正願和尚との関係を抜きにして、興秋の御領でのキリシタンの活動は考えられない。特に天草島原の乱の時に「長興寺薬師堂」「了宿庵」はどうであったか。またその時正願和尚はどのような行動を取っていたのか。正願和尚の了宿庵は1637年(寛永14)の「天草の乱」の時に戦火で焼かれていない。キリシタン乱徒軍はどの仏教寺院がキリシタン寺であるかをはっきりと認識していて、キリシタン寺である教会には火を掛けていない。

興秋が死去した際に、了宿庵の正願和尚が、興秋の葬儀を執り行い、現在の墓所(御領城内墓地は東禅寺の管理下)に埋葬した。

「了宿庵」庵主正願、興秋共に明確な証拠や書物を一切残さずに死去しているので、あくまでも、東禅寺に残されている過去帳と御領に伝わる口伝から二人の関係を推測するしかないが、この口伝は歴史的にもかなりの確率で証明できる事実が多いので、現在の興秋伝承に関する御領での唯一の重要な伝承情報と考えている。興秋の墓碑が御領の芳證禅寺横の墓地にあるために、興秋と芳證寺との密接な関係を想像してしまうが、興秋が死去した1642年(寛永19)6月15日、御領城内にはまだ芳證禅寺は存在してなく、御領城内には了宿庵(東禅寺)と興秋の建立した「長興寺薬師堂」があるだけだった。

芳證禅寺の元は興秋が居住していた長興寺薬師堂とそれに付随する生活空間である庫裏が転用されて、興秋の死の3年後、1645年(正保2)11月15日、芳證寺が誕生した。芳證禅寺(曹洞宗)は、御領城跡内にあった興秋の庫裏が改装されて陣屋(茶屋)として貰い受けて鈴木重成により長興寺薬師堂の西側隣に建立された。この事実から、興秋が御領での7年間に密接に関わりがあったのは「了宿庵・東禅寺」の正願和尚であることを明確に認識しなくてはいけない。

長興寺薬師堂
 長興寺の号は、長岡の長、興秋の興、を取って「長興寺薬師堂」と名付けた。元々はキリシタン寺。長興寺薬師堂の建てられていた場所は、興秋の死後160年に現在の興秋の顕彰墓碑を、興秋の九代目の子孫、長岡五郎左衛門源興道が1802年(享和二壬戌)6月15日建之「③大庄屋長岡家墓地」(別名「御領組大庄屋長岡家旧墓地」)のある東側にあった。

長興寺薬師堂は興秋が御領に移ってきて直ぐの1635年(寛永12)の内に建立されたが、2年後の1637年(寛永14)10月に勃発した「天草の乱」のキリシタン乱徒軍により焼き討ちで消滅している。天草の乱が終了した1638年か翌年の1639年頃までに再建されている。

明治期初期の長興寺薬師堂・古写真

長興寺薬師堂は1914年(大正3)の台風により倒壊した。以後100年、倒壊した「長興寺薬師堂」の跡地が正確に判っていなかったが、2021年2月、芳證禅寺・村上和光住職と原田譲治氏による芳證禅寺薬師堂古写真からの位置割り出し作業による確認により薬師堂の建っていた正確な場所が判明した。

明治時代に撮影された貴重な「長興寺薬師堂」古写真には(南向きに東西)間口3間、(南北に)奥行き2間と但し書きがあり当時の薬師堂の姿と大きさが確認できる。
間口3間=5.46m、奥行き2間=3,64m(1間=1.82m)(前頁古写真参照)

薬師三尊を安置する薬師堂がある。伝承によれば細川忠興の次男・興秋が1615年(元和元)大坂の陣で敗れた後、御領に落ち延び落居したと言われ、興秋が御領に来た時に三体の薬師如来を運んできたと言われている。興秋の持参した薬師三尊(室町時代の作)を安置するため「長興寺薬師堂」が建立された。その後芳證禅寺の建立に伴い合併され創建された。

1642年(寛永19)6月15日、興秋の死去(病没・60歳)3年後、芳證寺が建立されている。

芳證寺 絵図①

長興寺薬師堂 東側の墓地が広くない


芳證寺 絵図 ②
長興寺薬師堂東側の墓地がかなり広く作られている
長興寺薬師堂左側の長岡家墓地が拡充されている

1648年以降、長興寺薬師堂の御領城内の建てられていた場所については、江戸時代1802年(享和2)以後に描かれた御領城跡、芳證寺所有の二枚の絵図(見取り図)に大まかな記録が残されているが、長興寺薬師堂及び庫裏の明確な位置は記録にない。御領城内は廃城後、キリシタン寺「長興寺」が建立され、鈴木重成時代の茶屋(陣所)を経て、1648年(慶安元)から芳證禅寺の境内と墓地(東禅寺の管理で芳證禅寺、西明寺の共有)になった。

『五和町史料編(その9)御領城跡・鬼池城跡』五和町教育委員会編 平成10年(13頁・芳證寺等の墓地、14~15頁・芳證寺所有の絵図)
(註)薬師堂が建っていた正確な場所の地図は原田譲治氏の作成図参照

1648年以降、長興寺薬師堂の御領城内の建てられていた場所については、江戸時代1802年(享和2)以後に描かれた御領城跡、芳證寺所有の二枚の絵図(見取り図)に大まかな記録が残されているが、長興寺薬師堂及び庫裏の明確な位置は記録にない。御領城内は廃城後、キリシタン寺「長興寺」が建立され、鈴木重成時代の茶屋(陣所)を経て、1648年(慶安元)から芳證禅寺の境内と墓地(東禅寺の管理で芳證禅寺、西明寺の共有)になった。
『五和町史料編(その9)御領城跡・鬼池城跡』五和町教育委員会編 平成10年1645年(正保2)11月15日、芳證寺(曹洞宗)、御領城跡内の陣屋(茶屋)を貰い受けて鈴木重成により建立される。(長興寺薬師堂の西側隣)

1648年(慶安元)寺領12石を賜るが「ただし二石は薬師堂分」と但し書きがある。これは鈴木重成が長興寺薬師堂の主は細川興秋であることを暗に認めている証拠であり、表向きに両親の菩提寺として芳證禅寺を創ったのは、細川藩の最高機密である興秋隠蔽の事実を匿うためであったと思われる。

第5節 隠蔽され続けた御領城跡地
天草御領町内の真宗寺院
「天草では天草・島原の乱以後建立された曹洞宗や浄土真宗寺院の存在が有名であり注目されるが、乱以前の寺沢藩時代にも寺の建設が努められている。当町域は、むしろ乱以前の浄土真宗寺院の多いことが特色で、それだけに当町域の歴史の古さが考えられる。」
『五和町史』482~483頁 五和町史編纂委員会編 平成14年

『肥後国 江戸江差出上候御帳之控え」からの御領城記述の欠落
『肥後国 江戸江差出上候御帳之控え』とは1651年(慶安4)に江戸幕府が各藩に命じた実態調査。郷帳、城絵図、国絵図の作成と提出を命じたもの。数値を記した城絵図では、現存する(熊本)県内・中世城跡の約1割にあたる61城が報告されている。残存の古城の実態を報告させた際、肥後熊本藩から提出された報告書のことである。通称『慶安の差出』と言われている。この報告書には御領城の記述がない。1637年(寛永年14)の天草の乱以後、残存の古城は一揆が起こった場合に拠点になるという理由で調査が行われた。1651年(慶安4)当時、天草は天領であり。警護は肥後熊本藩に任されて富岡城を防衛拠点としていた。この『慶安の差出』に掲載されている城数は61城であり、天草15城、益城郡13城、残りは県内各地にまばらに点在している。天草の城数は県内全体の約2割強の掲載率である。特に天草が多いのは1637年の『天草の乱』の発生地であったことによる。益城郡が次いで多いのはキリシタン大名であった小西行長の領地であったため、帰農したキリシタン領民が多いことが理由として挙げられる。

 『慶安の差出』の最大の謎は、掲載されている天草15城の中に「御領城」が含まれていない点に有る。御領城は天草の乱後、直に鈴木重成が陣屋を置いたことでも知られている本格的城郭を成す中世城跡である。調査された慶安4(1651)年は、興秋が死去した9年後であり、御領城内には「長興寺薬師堂」、重成の菩提寺である「月圭山芳證寺」と陣屋が既に存在していた。鈴木重成が興秋の存在を隠していたことは事実であり、そこには熊本藩に対する忖度と配慮があった。細川藩が作為的に御領城を報告書に記載しなかったと思考している。『慶安の差出』には興秋死去の9年後とは言え、幕府には決して悟られてはならない細川藩の最高機密『興秋の隠蔽』の事実をあくまでも隠し通そうとする長岡佐渡守興長と米田監物是季等の細川藩重臣の思惑もあった。『慶安4年の差出』から御領城が欠落している最大の理由は興秋の隠蔽と深く係わっていると考えられる。

御領城跡
1、城の実年代はこの頃とされる。麓集落内に築かれた平城的なもので、地形的には独立しており、城地としてはっきりとした「まとまり」がある。城と集落が一体化した、典型的な総構えの「里の城」である。芳證寺の境内は、館の中心的な建物があった場所と思われる。寺門の位置は、おそらく大手口の跡であろう。城地の西側区域には「堀」の字名が残っており、寺地・西側崖下の現道は、豪が埋没した後と思われる。しかし、何分、町中の中世城跡で、全体像の把握は極めて困難な状況にある。

2、天草長岡家系譜(池田家文書・1802年・享和2年)には、細川興秋に関する興味深い記述がある。『興秋は細川家二代目の忠興の次男で、母は明智光秀の娘ガラシャ(玉)。長男の忠隆が1600年(慶長5)廃嫡されたために、家督を相続すべき人物であった。しかし、興秋はキリシタンであった上に、自由奔放に生き、1615年(慶長20)6月、大坂夏の陣で豊臣側に加担したため、陣後に忠興から自害を命じられている。

 ところが、これは表向きの事で、系図によれば生き長らえて、細川家の黙認の上、秘密裏に天草の御領で余生を送ったと思われる。事実とすれば、御領城跡が、芳證寺の境内となる前に,キリシタン寺があったので、興秋が、これを頼ったのであろう。細川家にとって、御領城は隠さねばならぬ場であり『慶安の差出』から欠落している最大の理由はここにあろうかと思われる。系譜自体は、江戸時代後期の編纂であるが、今回の調査で史料的な価値が高いと判断した。』(73頁)
『五和町資料編その9 御領城跡・鬼池城跡』五和町教育委員会 平成10年 

御領城跡地墓地
現在は芳證寺横の墓地と呼ばれている場所だが、東禅寺、芳證寺、二つの寺の住職にお尋ねしたが、御領城内墓地の寺ごとの明確な区分けは存在してなく、元々御領城内墓地は東禅寺管理の墓地であったのを、芳證禅寺、西明寺のそれぞれの檀家が東禅寺の管理していた御領城跡地を東禅寺の許可を得て共同墓地として使用し始めて、現在では、墓の区画ごとにそれぞれの寺の檀家が個人的に管理している。東禅寺の顕正住職にお尋ねしたところ「御領城内墓地は、江戸時代初期の昔は東禅寺が管理していたが、御領村の共同墓地としての性格上、寺ごとの各檀家がそれぞれに区画を所有して、明確な寺としての区分けはされてない」とのことだった。興秋公の墓のある区画は古くは東禅寺の管理で「御領組大庄屋長岡家古墓地」と呼ばれていた。しかし九代・長岡五郎左衛門興道が東禅寺から芳證寺へ門徒変えをして、新しく九代目以後の人たちの墓を別の区画に建立(「御領組大庄屋長岡家旧墓地))したために、興秋の墓のある昔の長岡家の古墓地は無縁墓地となり、興秋の妻の墓、初代・中村五郎左衛門興季とその妻、三代・長野茂辰、四代・長野茂直、六代中村茂勝等の墓碑が取り払われて、現在他家の墓地に転用されている。

興道以後の墓地
興秋の顕彰墓碑を中心に九代から十三代までの墓で一区画を形成している。興秋の九代目の子孫、長岡五郎左衛門源興道が1802年(享和二壬戌)6月15日建之の「興秋の墓石」は実に大きく堂々としたもので、高さ1,55㎝、幅53㎝、厚さ39,5㎝、台石の大きさ、上が高さ23,5㎝、下が高さ54,5㎝である。しかしこの墓碑はあくまで顕彰墓碑であり、興秋の骨は納められていない。

興道は1770年(明和7)2月、長野家に長岡の苗字が許され、6年後の1776年(安永五)9月11日には帯刀が許されている。

興秋の九代目の子孫、長岡五郎左衛門源興道が1802年(享和二壬戌)6月15日、天草郡御領の大庄屋の時、初めて長岡姓に改め、長興寺薬師堂の西側に興道家の墓地を建立し墓地中央に興秋の顕彰墓碑を建立すると共に、家伝も初めて公にして、肥後髙橋司市(町奉行)斎藤権之介へ届けて認められた。かくて長岡家は天下晴れての時代を迎えたのである。

十代・長岡五郎左衛門興生、1830年(文政13)11月23日、37歳で死去している。

十一代・長岡五郎左衛門興就任(おきなり)は義民と呼ばれ、1845年(弘化2)10月、興就(39歳)の時「百姓相続き方仕法」復活を要求する天草の農民の総代として、天草の上役所である長崎奉行所を超えて江戸幕府へ超訴(直訴)をした。11月に勘定奉行所へ駆け込み訴をしたので、身柄は町宿預けとなっていたが、抜け出して12月に老中阿部伊勢守に直訴を行った。厳重な吟味の末、長崎奉行所江戸詰め所に引き渡されて長崎送りになり長崎の牢屋に収監された。その後、天草の親類宅の座敷牢に入れられた。明治維新で恩赦を受けたが永牢がたたり、体が衰弱していたので1869年(明治2)9月25日に死去した。

十二代・長岡快太郎興英、十三代・長岡専一郎興隆までこの墓地区画に埋葬されている。

1648年(慶安元年)長崎奉行所判事・井上筑後守政重より天草代官鈴木重成宛てに下附された芳證寺寺領証明御證文・天草御領芳證寺所蔵文書(初公開)

第7章 天草御領におけるキリシタン教会と信徒組織(コンフラリア)の衰退と消滅

第1節 フェレイラと益峰快学(えきほうかいがく)との出会い
クリストヴァン・フェレイラ(Cristovão Ferreira)神父(53歳)は1633年(寛永10)10月の棄教後「転び伴天連」と呼ばれ、長崎の笠頭山洪泰寺(後に皓台寺(こうたいじ)と改称)の檀家として登録され、沢野忠庵という日本名、長崎本五島町に住居を与えられて居住。死刑に処せられた中国人商人の妻だった日本人女性を妻として嫡子忠二郎と女子を授かり30人扶持、宗門吟味役が仰せ付けられた。

フェレイラは江戸幕府大目付付きの通詞として長崎奉行所で働き、後に初代宗門改役を務めた井上筑後守政重(1585~1661年)に通詞として仕えている。長崎奉行所に於いて捕縛されたキリシタンたちや不法入国した外国人宣教師の詮議と通訳、押収されたキリシタンたちの持ち物(聖遺物や信心道具)、押収された日本に潜伏している宣教師宛て書簡の翻訳等に従事して宗門目明しとしてキリシタン詮議に協力した。

1636年(寛永13)フェレイラ(56歳)は、1633年の棄教の3年後、キリスト教教理排耶書『顕偽録』を書いてキリスト教と仏教の比較論を展開してキリシタンを仏教徒に改宗するための反駁書を作成している。フェレイラの書いた『顕偽録』は教会内の聖職者としてカトリック教理教説の欠陥を指摘する内容が認められる。その反駁はフェレイラ自身の棄教を正当化しようとする自己弁明であった。おそらく、長崎の皓台寺住職一庭融頓(49歳)の助けと指導により『顕偽録』は書かれている。フェレイラは若い仏僧たちに『顕偽録』を用いてキリシタンたちを仏教徒にするための講義を宗門吟味役の仕事の一環として教えていたと推測される。長崎の皓台寺に学んでいた当時18歳の若き僧・出羽国秋田出身の益峰快学(えきほうかいがく・1618~1699年)は、フェレイラより『顕偽録』を教本として、直接にキリスト教と仏教の比較宗教論とキリシタンを如何に仏教徒に導く改宗方法論を学んでいる。キリシタンたちを仏教徒に改宗させる改宗論と方法、及びキリスト教理論を直接元神父であるフェレイラより学んだ益峰快学は、天草の代官・鈴木重成により見出されて、特にキリシタン信徒が多くいる天草の御領に1645年(正保2)11月15日に創建された「月圭山 芳證寺」に住職として招かれ1646年(正保3)長崎の皓台寺から益峰快学(28歳)が入寺して開寺となった。

『芳證寺日供』明治後期編より
「御代官鈴木三郎九郎重成公ナリ寛永年間、邪蘇鬼利子丹変乱ノ為、神社仏
閣悉く破壊セシ后ヲ、右重成公御下向ナリ秩序回復セラレ仏法再興ノ為、益峰禅師ヲ長崎皓台寺ヨリ拝請セラレ、重成公居城ヲ同師へ寄付セラレ、一ニハ両親ノ菩提ヲ吊ヒ玉フ故ニ、当山ノ寺号ハ右両親ノ戒名ノ字ヲ取テ命名セラレ是レ本郡寺院建立ノ最初ニテ尓来禅浄土宗ノ寺院ヲ郡内処ニ建立セラレ其開基タリ」
『天草寺院・宮社・文化史料図鑑』天草史談会 鶴田文史編

天草の代官・鈴木重成(52歳)は、1639年(寛永16)に細川興秋(56歳)と面会した際に、天草の御領が非常に堅固なキリシタン組織によって構築されていること、1638年(寛永15)「天草島原の乱」後においても興秋と息子興季(当時佐伊津の庄屋)、了宿庵・東禅寺の正願和尚の指導のもと御領周辺のキリシタンたちは平和秩序を守り穏やかな暮らしを維持していることを興秋によって教えられていたので、この御領組み地区をキリシタンから仏教へ改宗させることは非常な困難を伴うことを重々承知していた。

1641年(寛永18)興秋の嫡子・興季、鈴木重成から御領組み大庄屋を仰付られる
1642年(寛永19)6月15日、細川興秋病死。享年60歳
同年、兄鈴木正三、天草へ来島、弟重成への献策、社寺の再興、民衆教化をする
1643年(寛永20)了宿庵の正願和尚、7月1日死去。83歳
1644年(寛永21)兄鈴木正三、三河へ帰国する
1645年(正保2)11月15日に創建された『月圭山 芳證寺』
1646年(正保3)長崎の皓台寺から益峰快学(28歳)が入寺して開寺
1648年(慶安元)皓台寺住職一庭融頓(61歳)苓北町志岐の圀照寺に入寺して開寺

興秋と嫡子興季(御領組大庄屋に任命)、正願和尚をキリシタンとして容認して、御領地区の宗教的安定は保たれていた。1641年(寛永18)鈴木重成により興秋の嫡子・興季が御領組み大庄屋を仰せつかる。この興季の御領組み大庄屋への抜擢も、鈴木重成の御領地方のキリシタンたちの政治的統制、地域の平和維持を興季・キリシタンに一任するという政治姿勢の表れだった。鈴木重成の天草に於ける統治方針は、初めから無抵抗なキリシタンたちに対しては、密かに隠れて信仰する限りに於いてはこれを黙認、或いは容認して、天草に於ける政策の安定化と人命を守る方針だった。

御領の地に於いて指導的立場でキリシタンたちを導いてきた二人の指導者、興秋と正願和尚の相次ぐ死去により、鈴木重成は御領というキリシタン地区の重要な抑えを失った。

1643年(寛永20)以後、興秋と正願和尚という重鎮を失った今、鈴木重成にとって御領地区のキリシタンを治めることが重要な課題(命題)となった。逆の見方をすれば好機到来とばかりに、1642年(寛永19)重成(55歳)は天草に来島した実兄正三和尚と相談して、御領地方の改宗に本腰を入れ天草の乱を2度と起こさせることなく御領のキリシタンを仏教へ改宗させるため、適材の人物を探している。その人物の条件は、キリスト教教理に精通していて、なおかつキリシタンを改宗させることができるだけの知識と論法を備えている逸材を探し求めていた。

第2節 鈴木重成の対キリシタン政策
天草の代官・鈴木重成の政策施行に於いては長崎奉行の管轄下にあるので、鈴木重成は長崎に出向いて色々と指示を仰いでいる。その中で最も重要な政策のひとつがキリシタンを如何に仏教徒に改宗させるかという課題(命題)だった。鈴木重成はこの難問の解決策を当時、長崎の皓台寺にいた棄教神父であるフェレイラと皓台寺住持一庭融頓に相談したと思われる。皓台寺は1613年 (慶長18)キリシタンを仏教へ改宗させるために建立された。

鈴木重成が何時何回、長崎奉行所を訪ねたか明確な記録が残されていないが、1642年(寛永19) 3月21日付け『長崎オランダ商館の日記』に鈴木重成の出島訪問が記されている。

『正午頃、天草の領主(鈴木重成)が長崎奉行(馬場)三郎左衛門の家臣二人と共に来館、葡萄酒、菓子、日本料理で饗したが二時間後満足して帰った』(第1輯・村上直次郎訳)

海雲山皓台寺
長崎の寺町にある「海雲山皓台寺」は創立当時「笠頭山洪泰寺」と称し1608年(慶長13)肥前国松浦郡山口村(現・佐世保市相浦町)飯森山洪徳寺7世であった亀翁良鶴により創建されている。幕府の対キリシタン政策により1613年(慶長18)に建立、キリシタンを仏教徒にする目的で作られた曹洞宗寺院である。同年、亀翁和尚は後任に肥前国上佐嘉春日村(現・佐賀郡大和町)玉林寺住持・一庭融頓(26歳)を迎えその法席を譲った。
「笠頭山洪泰寺」は後年「海雲山皓台寺」と改称した。

*一庭融頓(いっていゆうとん・1587~1659年・天正15~万治2年7月10日寂・73歳)

一庭融頓(46歳)が「海雲山皓台寺」住職であった1633年(寛永10)長崎で捕縛されたフェレイラ神父(53歳)は同10月、穴吊しの刑に処され棄教した。その後フェレイラは皓台寺に於いて一庭融頓和尚(46歳)の指導のもと皓台寺の檀家となっている。

一庭融頓(49歳)は、棄教した元神父フェレイラ(56歳)と共にキリシタン反駁書である『顕偽録』を3年後の1636年(寛永13)に上梓している。一庭融頓の基で学んでいた若い禅僧の中に出羽国秋田出身の益峰快学(えきほうかいがく・1618~1699年)がいる。

天草郡苓北町志岐の国照寺・一庭融頓住職
天草市本町新林の東向寺・中華圭法住職
天草御領 月圭山芳證寺 益法快学住職

御領組み地区キリシタン組織解体のために鈴木重成の取った配置は、御領の鈴木重成の菩提寺である芳證寺に益峰快学を配置。天草郡苓北町志岐の国照寺(長崎皓台寺の末寺・45石)に一庭融頓を配置。天草市本町新林の東向寺(瑠璃光寺末寺・50石)に中華珪法を置いて後方支援としている。(前頁の地図参照)下島北東地域の御領組みのキリシタン地区を東西両側から囲むような布石である。御領芳證寺に益峰快学、志岐地区の国照寺に一庭融頓、本渡東向寺に中華珪法を置いて徐々に仏教の影響が染み渡る様にキリシタンを仏教徒に改宗するための宣教を展開している。この高僧3人の布陣を見ても如何に鈴木重成が下島北東地域の御領組み地区のキリシタン組織の解体に腐心していたかが判る鉄壁の布陣である。

鈴木重成は若き僧である益峰快学(28歳)にすべてを託して、自分の両親の菩提寺として建立した御領の「月圭山芳證寺」の住職として招聘。益峰快学は生涯を賭けて地道に御領のキリシタンたちと話し、時には宗教論を戦わせ、フェレイラより学んだ『顕偽録』を教本に、御領のキリシタンたちを仏教への改宗に導いている。また長崎皓台寺住職一庭融頓(61歳)に天草のキリシタン組織の発祥地である志岐地区を任せている

棄教したフェレイラ(56歳)は長崎の皓台寺住職一庭融頓の指導のもと共に協力してキリシタン反駁書である『顕偽録』を3年後の1636年(寛永13)に上梓している。フェレイラにとってキリシタン反駁書『顕偽録』を書くことは、自分の棄教した事実の言い訳に過ぎず、元教会神父としてカトリック教理の欠陥を指摘する、自己の棄教の正当化であり自己弁護だった。フェレイラが棄てたのはカトリック教会組織であり己の信仰ではなかった。

 フェレイラが書いた『顕偽録』がキリシタンから仏教徒への改宗の教本として実際に採用されたことをフェレイラ自身はどのように受け止めていたであろうか。特に1646年、一庭融頓の弟子・益峰快学(28歳)が天草御領の芳證寺住職として赴任した時、続いて1648年『顕偽録』を共に書いた皓台寺住持の一庭融頓(61歳)が天草志岐の国照寺の住職として赴任した時、フェレイラの心は激しく動揺したのではないだろうか。

フェレイラにとって「天草御領・天草志岐」の地名は、心の深い所が目を覚ますように共鳴・共振(resonance)する地名だった。フェレイラにとって「御領・志岐」は1629年から1633年の5年間、激しい迫害の最中、御領城跡にあった了宿庵を本拠として正願和尚に匿われていた。フェレイラは志岐と御領に於いて宣教活動をしている。その地区の貧しくも真摯な信仰を持っているキリシタンたちの告解を聴き慰め励まし勇気付けて来た。またミサを授け共に神を讃美した懐かしい地区だった。自分とジャンノネ神父を匿ってくれた御領地区に、自分が書いた『顕偽録』を用いてキリシタンたちを仏教徒に改宗するために、皓台寺に於いて親しく交わってきた一庭融頓と益峰快学の天草赴任を知った時、フェレイラは深い後悔の念を抱いたのではないだろうか。 

フェレイラは自分が選択した棄教が「因果応報」として自分に跳ね返ってきたことに気付かされた。自分が命を賭けて宣教司牧した地区に、自分が書いた排耶書の教本を持って仏教化のために益峰快学と一庭融頓が派遣される現実を知らされた時に愕然とした。フェレイラは心に秘めている真の神に、懺悔と後悔の涙と真心からの告白と共に祈っている。「主よ、私に赦しとお慈悲を与えて下さい。主よ、憐れみ給え」『kyrie eleison.Christe,eleison』

フェレイラの晩年と死去前の立返りと殉教についてレオン・パジェス著「日本切支丹宗門史・下巻」第2章1633年、255頁の中に記されている。

「この教会の最も花々しいもののひとつであるべきこの殉教が、イエズス会の立派な宣教師、否管区長その人の背信によって暗くされた。拷問5時間の後、23年間の勇敢な働き、改宗の無数の果実、聖人のように忍耐された無限の迫害と難儀によって、しっかりしていそうに見えたフェレイラ神父が、天主の正しく計り知れない審判によって、哀れに沈没した。」

「しかし、その会員の祈りと、日本の最初の使徒聖フランシスコ・ザベリオの代願は、他の宣教師の犠牲の代賞で、精神的に死んだ不幸な背教者を復活させた。クリストファル・フェレイラは20年後、その立返りと殉教とによって、イエズス・キリストの教会と、彼が属するイエズス会を慰めた。フェレイラ神父は当時54歳でイエズス会にあること37年であった。」265~266頁

「20年以上の間の布教の働きで、多数の人々を改宗させ、天主様のために耐え忍んだ。かかる迫害と恐怖の終わりはかくの如くであった。天主様が御手を以て、我らを保ちたまわんことを。その御手の外に安全な助けは絶対にない。何故ならば若い時から、かくも聖なる修道会に育てられ教えられ、航海上における暴風、迫害に試練された人、言い難き陸上の危険を経験した人、天主様のために死に曝されることのみを望む人、この様な人が、かかる悲惨に難破して自分が感化したキリシタンたちを甚だしく躓かせたことは事実である」

フェレイラの晩年と死去前の立返りと殉教について「クリストファル・フェレイラは20年後、その立返りと殉教とによって、イエズス・キリストの教会と、彼が属するイエズス会を慰めた。」レオン・パジェス著「日本切支丹宗門史・下巻」第2章1633年、255頁。

この記述は真実だろうか。この1633年度の記録に付け足された記述はあくまでレオン・パジェス個人の希望的見解と思われる。反論として次に長崎の皓台寺過去帳を挙げる。

長崎の郷土史家・古賀十二朗氏は『背教者沢野忠庵』(『史学・第16巻第3号』)の中で、長崎の皓台寺過去帳を調査して「慶安3庚寅年10月11日」(1650年11月4日)の条に「忠安浄功信士 本五島町 忠安」の死去の記載を見つけている。フェレイラが1650年の死去に至るまで立ち返らずに殉教者になっていないことを立証した。フェレイラは1633年の棄教後、皓台寺檀家となり禅宗に帰依して、日本人女性を妻として忠二郎という嫡子が生まれ、又女児を授かり、その女児は後年杉本家に嫁いでいる。
*『隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン』第4章 棄教者沢野忠庵の「マラーノ性」157~158頁 小岸 昭著 人文書院

本来救いとは神が与えるものであり教会が与えるものではない。カトリック教会では「教皇が神の代理」とされ救いを与えると教えてきた。しかし為政者(幕府)の迫害により日本の教会が消滅した今、人の救いは教会が与えるのではなく、神が与えるという真理をフェレイラは迫害の中で真の信仰を新たに見出した。この思想は1517年宗教改革者マルティン・ルター(Martin Luther 1483~1546年) により提唱されたプロテスタント教理「神による義」で、フェレイラはルター派(プロテスタント)の教理をすでに知っていた。聖職者として聖書の言葉を学び信じ宣教してきたフェレイラは最後まで棄教を通して死去した。フェレイラが棄てたのは欺瞞に満ちたカトリック教会であり、己の内なる信仰ではなかった。

「私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」マタイによる福音書28章20節。
「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わしたのは、世を裁くためではなく、御子によってこの世が救われるためである」ヨハネによる福音書3章16,17節。

フェレイラはこのイエスの御言葉により慰めを得て心の内に平安を与えられ人生を終えた。救いとは「神を信じること」だけであり、救いは神から与えられるからである。教会も教皇も人を救い得ない。フェレイラはキリストの御言葉を信じることにより救われた。フェレイラの信仰は幕府の迫害により教会組織が壊滅し、またフェレイラ自身が厳しい拷問に遭い棄教した。しかしフェレイラが棄てたのはカトリック教会という組織であって自分の内なる信仰ではなかった。本当の意味でフェレイラは酷い迫害に遭い棄教により教会の束縛から解放され「真の神による救い」神に向かい合う己の内に真の信仰を見出した。

フェレイラにとって神と仏はひとつであり、どちらも人を救い得ると信じることにより心に平安を得たのではないだろうか。その意味では棄教後のフェレイラの信仰はカクレキリシタン的であり、またプロテスタント的であり、近代的・合理的な生き方、現代的普遍の神に対する真の信仰の状態まで昇華された信仰であったと考えている。

自分の内にある神に対する信仰という思想は、肉体的にどのような迫害苦痛を与えられようとも、もしその迫害や苦痛に負け棄教したとしても、自分自身がその信仰・信念を棄てない限り思想として心の内に留まりうるものである。表面的に棄教を表明しても、内面に保持している信仰・思想を棄てない限りにおいて、その信仰は誠の神に対する誠実な信仰であり続ける。教会という組織から離反し脱却しても、ひとり静かに信仰を守り続ける道がある。それは孤独の信仰の道ではあるが、神に頼る限りにおいて孤高の信仰の道へと昇華する。千々石ミゲルの歩んだ道も、孤高の信仰の道ではなかったのか。神の道にだけ生きるという選択も、また信仰の道のひとつの生き方ではないだろうか。

同時にフェレイラは、如何にカトリック教会が、幕府と同じ迫害を、スペインとポルトガルに於いて「ユダヤ人と異邦人」に対して行っていたかを知っていたし、そこに教会側が抱える闇の歴史が存在することも充分に理解していた。誠実に教会に23年間仕えた神父としての思想的矛盾の限界が、1633年の穴吊しの刑に処せられた時に、フェレイラは理解した故に棄教して、カトリック教会から離れ、ひとり孤独になろうとも神と共に信仰に生きる孤高の信仰の道を選んだと考えている。

カトリック教会の内にいて信者としての信仰に留まる信仰は、教会が欲する信者の姿である。常に教会の言う通りに行動する従順な信者が模範的な信者として評価され、教会に対して違う意見、個人的に異を唱える信者は、教会という組織にとっては扱いにくい信者として異端視されてきた。教会において従順な一律化した信者だけが模範的信者と評価化される。しかし神に対して、神から与えられた人生の中で自分がいかに生きなければならないかを考え神に対する信仰を深く考える信者は、決して教会に中に留まり得ない。中世においても、近代的、合理的思想を持つ信者は存在した。彼等は教会という枠内に於いていかに生きるかを一度は考えたが、それ以上に個人的に神との関係において自分がいかに生きるかを深く考え、教会という枠内に留まることを欲せず、教会を通してではなく、個人的に、直接的に神との関係を自分の信仰に中にもっと築こうと考えた。このような思想にまで到達した人々は、おのずから教会との距離を取り、己の信仰の存在の在り様を模索し始めている。

フェレイラと同じカトリック教会から脱会した不干斎ファビアン、後藤ミゲル了順、荒木トマス了伯、千々石ミゲル清左衛門がいる。フェレイラは元管区長代理、不干斎ファビアンは元修道士、後藤ミゲル了順は元教区司祭、荒木トマス了伯は長崎教区司祭、千々石ミゲル清左衛門は天正遣欧使節の正使を務めたイエズス会の育成した重要人物だった。教会の中枢にいて神父まで務めた彼らが何故教会を離れたかを深く考え、背教者の系譜に名を連ねた彼らの棄教の本当の理由に真摯に耳を傾ける必要がある。彼らもフェライラと同じように教会との距離を置いた。教会側は「彼らの信仰が弱かったから」と棄教の理由を挙げているが、真の理由は、教会に対する不信、反カトリック教会に対する感情である。

神に対する誠の信仰を持っていたからこそ、カトリック教会の奴隷売買への加担、本国で教会の行っている異端審問等の欺瞞に対する不信を知った。彼らの脱会は信仰の弱さや薄さではなく本当の神に対する信仰の篤さである。信仰の篤さ故にカトリック教会の持つ不正と矛盾に限界を感じて孤高の信仰の道を一人歩む決断をしたからこそ、自ら棄教して教会から離れて行った。

カトリック教会から離脱した人々のその後の行動は、大別して2つの行動に分類できる。ひとつはカトリック教会の奴隷売買への加担、本国で教会の行っている異端審問等の欺瞞に対する不信を正そうとする反カトリック教会への反発行動であり、教会に対するレジスタンス(resistance)抵抗行動である。この行動はドイツにおける1517年宗教改革者マルティン・ルター(Martin Luther 1483~1546年)により提唱されたプロテスタント活動と同じような抵抗活動である。ただし日本に於けるカトリック教会への抵抗活動はドイツにおけるプロテスタント活動のように実を結ぶことはなかった。ドイツにおけるプロテスタント活動は分裂した国の領主により支持と保護が与えられ宣教が保障されていたが、日本では禁教令によりキリスト教自体が取り締まられていたので独自に宣教活動ができなかった。

カトリック教会への反抗や反発を覚える人々は幕府側に付き幕府に協力することで、カトリック教会と対峙する方法しか選択の余地がなかった。カトリック教会側も教会に反逆する者たちには刺客を送り抹殺しようとした。

もう一つの道は、日本に於いて信仰を保ち続けるためには、教会と離別し、一人で己の信じる信仰に生きる生き方をするしか選択肢がなかった。それはひとり孤高の信仰の道を歩む生き方であった。この道を選択したのが天正遣欧少年使節に選ばれた千々石ミゲル清左衛門である。

第3節 スペイン、ポルトガルにおけるカトリック教会の恐怖政治
フランシスコ・ザビエル(Francisco Javier・1506~1552年)は、1540年6月末、ローマ駐在のポルトガル大使ペドロ・マスカレーニャスと共にリスボンに到着した。リスボンに到着したザビエルは、ポルトガル国内の異端者をことごとく処刑しようと考えている大審問官ドン・エンリケ王子の十字軍思想に呼応している。1540年9月26日、ポルトガルで最初の異端審問所の火炙り刑が執行された。ザビエルはリスボンのリベイラ広場に設置された「火炙り処刑場」にユダヤ教囚人の教誨師としての役目を依頼されていた。ザビエルはユダヤ人というだけで何の罪もない人々が生きたまま焼き殺される野蛮な宗教処刑に、当事者のカトリック神父として囚人のすぐ近くで火炙りによる処刑を見守っている。この時男性9名、女性14名が処刑された。何故ザビエルは無実のユダヤ人を弁護して助けなかったのか。イエズス会の矛盾した思想・教会唯一主義、教会絶対主義の思想を固守する間違った観念から抜け出せないザビエルがここにいる。1540年から1765年に到る225年間に、ポルトガルで31,353人が異端審問を受け、1,175人が処刑されている。スペインに於いては1230年代から異端審問が導入された。1328年にはザビエルが生まれた北ナバラ王国に於いてフランシスコ会修道士ペドロ・オリホーイエンに扇動された民衆が暴徒化して6,000人以上のユダヤ人を虐殺するというイベリア半島での最初の粛清が起こっている。それ以来スペインに於いてはカトリック教会指導の異端審問裁判が行われ、多くのユダヤ人がキリストの名のもと、カトリック教会の名のもと、処刑・火刑(火炙り刑)にされていった。ザビエルはポルトガル・カトリック教会の犯した宗教裁判という恐怖政治にこの時以後深く係わって行く。
*『隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン』第2章 フランシスコ・ザビエルと異端審問 57~87頁 小岸 昭著 人文書院

ザビエルの提言によるゴアの異端審問所設立
1542年5月6日、ザビエルは旗艦クロイン号でゴアに到着した。直ぐに布教活動を展開したザビエルだが、布教は思うように進展せず布教の障害になっている「信者たちに悪事をしようとする人々に死を」という考えに陥って行く。ザビエルは徐々にリスボンで体験したカトリック教会が行ってきた恐怖政治である異端審問所の開設を望むようになって行く。

「インドで必要とする第2の事は、こちらで生活している人たちが善良な信者となるために、陛下が宗教裁判所を設置して下さることです。こちらではモーセの律法に従って生活する(ユダヤ教徒)やイスラム教の宗派に属している者たちが、神への畏れや世間の恥じらいなしに平然と生活しています。そしてこれらの人々が大勢、しかもすべての要塞に散らばっていますので宗教裁判所や多くの説教者が必要です。」1557年の書簡より
『聖フランシスコ・ザビエル前書簡』2 69頁

このザビエルの提言から14年後、ゴアで異端審問所が設けられた。1571年、ゴア異端審問官に任命されたバルトロメウ・デ・フォンカセ(Bartolomé de Foncase)は、改宗ユダヤ人を「神を殺す者」と呼び、狂信的マラーノ摘発を行い処刑し「異端者と背教者の死体から得た灰で一杯にした」。1578年には17名のユダヤ教徒を「ユダヤ教を信仰した異端者とし」て生きたまま火炙り刑に処した。無実のユダヤ教徒を火炙りにして処刑するカトリック教会の指導者としてのザビエルの思想と行動は、教会唯一主義、教会絶対主義の上に立脚した非常に危険な思想である。

「今日、後年聖人として列聖されているザビエルが、如何に多くの人々の苦しみと残酷な死の原因となる非人間的な提言を行ったかは想像を絶する」
オールド・ゴア博物館官庁P・P・シロトゥカー氏
*『隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン』第2章 フランシスコ・ザビエルと異端審問 67~77頁 小岸 昭著 人文書院

ザビエルの教会唯一主義・絶対主義の思想はカトリック教会の根本的思想であった。1549年の来日時もザビエルはその思想を持っていた。初代日本の布教長になったコスメ・デ・トーレス(Cosme de Torres)神父は、引歳までの20年間、自己犠牲を宣教の基本として、日本に於ける宣教は非常に飛躍した。

ルイス・デ・アルメイダ(Lufs de Almeida)はポルトガルの首都リスボンの裕福なユダヤ系家庭に生まれて、医学を修め外科医の免許を得た。1548年から貿易商としてインドを中心に活躍した。しかし祖国を追われたユダヤ人であり、カトリック教会から異端審問に掛けられるはずであったが、トーレス神父の暖かい理解の元、アルメイダによる豊後に於ける医療活動、非常に優れた宣教活躍は初期キリスト教の日本での発展の原動力となっている。

27年間の宣教活動後、トーレス神父の推薦を受け、1579年(天正7)11月初旬、島原の口之津よりマカオへ渡り、カルネイロ司教より、マカオ最古の聖アントニオ教会で司祭叙階の式典に与り司祭に叙階された。聖アントニオ教会は1560年(永禄3)に作られイエズス会本部が初めて設置された。1580年(天正8)7月初旬、アルメイダは日本の天草へ神父として戻り天草地区長として3年間働き、1583年(天正11)10月、天草河浦にて宣教に生涯を捧げ58歳で人生を終えた。

1570年から第2代布教長のフランシスコ・カブラル(Francisco Cabral)、続くガスパル・コエリョ(Gaspar Coelho)、ペドロ・ラモン(Pedro Ramón)等の白人優越主義、ヨーロッパ人主導の宣教体制の維持、偏見に満ちた差別が日本人キリシタンたちから教育の機会を奪った。差別主義指導者達により、著しく日本に於けるキリシタン宣教が阻害された。白人優越主義により教会指導者と日本側信徒の対立まで起きている。有望で善良な多くのキリシタンたちが教会を見限り離れて行った。代表的人物が天正遣欧少年使節の正使を務めた千々石ミゲルだった。

棄教してイエズス会を去った千々石ミゲル清左衛門は、教会を表立って非難せず教会との距離を取り、晩年ミゲルは自分の領地である多良見町伊木力に於いて沈黙を守り、残りの人生をひとり静かに神と共に歩む己の信仰に生きた。領地である伊木力地区で、キリシタンたちの信徒組織・コンフラリアを指導的立場で導いていたと考えている。千々石ミゲルは神父にはなれなかったが、イエズス会に育てられた立派な信仰者として、人々を指導できるだけの神学の知識と宣教者としての資格が備わっていた。ミゲルのイエズス会脱会後、大村喜前に仕え、後有馬晴信に仕えていたが、有馬からも去り、長崎でしばらく生活を送っていた。その後、残りの人生を郷里諫早多良見の伊木力に帰りカクレキリシタン組織・コンフラリアの指導者として務めを果たしていたと考えている。

発掘された千々石ミゲルの遺骨 (写真提供・大石一久氏)

2021年9月、長崎県諫早市多良見町伊木力にある千々石ミゲル墓地の発掘が行われ、埋葬されていたミゲルの墓からミゲル本人の遺骨がほぼ完全な形で発掘された。遺骨は長崎大学医学部解剖学科に調査が委託され分析が行われている。

『顕偽録』について
1636年(寛永13)フェレイラ(56歳)は、1633年の棄教の3年後、キリスト教教理排耶書『顕偽録』を書いた。1648年『顕偽録』を指導し共に書いた皓台寺住持の一庭融頓(61歳)が天草志岐の国照寺の住職として赴任したその2年後、「慶安3庚寅年10月11日」(1650年11月4日)長崎にてフェレイラは70歳で死去している。

『顕偽録』フェレイラ著について海老沢有道氏は下記の様に述べている。『転び伴天連フェレイラ(Cristovão Ferreira・56歳の時)すなわち沢野忠庵の『顕偽録』が現れる。後(『顕偽録』1636年)は公刊されなかったが、両者ともに一旦教会内にあった者として、さすがにパアドレ(神父)らの教説の欠陥を指摘するものが認められる。これらはもちろん幕府の強化政策に呼応して、あるいはそれに乗じて自己の棄教を正当化しようとするものであるが、これ以後の排耶書は直接間接、これらの影響を受けて展開し、ようやく教理問題が取り扱われる様になるのである。』603頁 海老沢有道著
*キリシタン書 排耶書 日本思想大系 岩波書店

『顕偽録』の唯一現存する手稿本は、上総圀(現・千葉県)大多喜の領主大河内家に秘蔵されていた。成立時からおよそ300年後の大正2年(1913年)にその存在が初めて紹介された本書は、昭和2年に新村出の解説を付け、日本古典全集の中で初めて刊行された。

『顕偽録』(日本古典全集第2回 下巻 與謝野寛・正宗敦夫・與謝野晶子・廣川松五郎編纂『ぎゃどぺかどる・妙貞問答・破提宇子・顕偽録』日本古典全集刊行会、1927年)
*『隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン』360頁 小岸 昭著 人文書院

フェレイラ批判の真相
 フェレイラの棄教は現在まで批難され議論され続けている。棄教の罪の大きさを教え、殉教の栄光を説く教会側の宗教観の表れである。カトリック教会の持つこの世界を霊的に救済しようとするキリスト教普遍主義がフェレイラ批判の根本にある。裏を返せばそれは教会側の棄教した人に対する差別意識の表れであり、教会側の「信仰者はこうあるべき」という思想の押付けに他ならない。千々石ミゲルの棄教、フェレイラの棄教から数えて400年間、教会の思想と意識は変わることなく継続している。これは教会側の異常な執着であり思想の押付けである。

「フェレイラの棄教は人間的弱さと、その弱さに耐える力と祈る心の乏しさにあった。」『日本キリシタン殉教史』441頁 片岡弥吉著 (1979年)

「極東の一管区長代理の棄教がこのように繰り返し批判され、そればかりか何故、この棄教にためにあれ程多くの神父や修道士たちが日本に渡り、多くの犠牲を出さなくてはならなかったのだろうか。」「キリスト教界は当時も、そして今日も相変わらず、こうしたキリスト教普遍主義がフェレイラの転びによって根底から脅かされたように感じている」「沢野忠庵もまた、あの穴吊しという極限状況の中で、こうした近代的・合理的な生き方を選択しようとしたのではないだろうか。日本という風土と文化がキリスト教ヨーロッパのそれと根本的に違うということを23年に及ぶ布教活動で知った彼は、今度は日本の風土と文化に根ざした生き方をしようと決断した時、そこに自ずと棄教という行為に至る道が開かれたのではなかったか。潔く殉教することも確かに人間の勇気の証だが、転びという「人間的弱さ」を白日のもとに晒しながら、それでもなお生き続けようとするのも、人間の勇気の証ではないのか。」*『隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン』158~159頁 小岸 昭著 人文書院

第4節 東禅寺を守ったキリシタンたち
1642年(寛永19)6月15日、細川興秋病死。享年60歳
1643年(寛永20)了宿庵の正願和尚、7月1日死去。83歳

御領地区のキリシタン宣教師的役目を担っていた興秋と正願和尚が1642年、1643年に相次いで亡くなった。鈴木重成の仏教教化策により、御領城に重成の菩提寺として「月圭山芳證寺」が1645年(正保2)11月15日に創建され、翌1646年(正保3)出羽国秋田出身、当時長崎皓台寺にいた安居の高僧・益峰快学和尚(28歳)が入寺して開寺となった。

1643年(寛永20)7月1日、正願和尚死去の後、東禅寺(了宿庵)の住職は、第4代東禅寺住職の暁雲和尚の養父が正願和尚の後を継いでいた。おそらくは正願和尚の養父なのでキリシタンである。第4代東禅寺住職の暁雲和尚は、初代中村五郎座衛門興季の孫にあたり、興季の嫡子・第2代長野宗左衛門興茂の6男である。

正願和尚が死去した1643年(正保2)から興秋の嫡子・興季が死去した1670年(寛文10)8月17日までの27年間は、東禅寺におけるキリシタン指導は、御領大庄屋である興季がしていたと考えている。

正願和尚死去の後、了宿和尚が第3代目の了宿庵主になっているが、了宿和尚がどの家系から入寺した人なのかは不明である。志岐諸経は有馬晴純(大村守・有馬仙巌)の5男で、志岐麟泉の養子となって志岐氏に入った。しかし養父・麟泉からキリシタンを棄教するように命じられた1579年(天正7)に拒否したため命を狙われる。志岐諸経は信仰を守るために御領の石本家を頼り避難して御領城内の石本家の敷地内に了宿庵を建ててもらい、そこに匿われた。禅門に入り法名・悟道真元空法禅定と号した。1561年(永禄4)嫡子の正願が誕生している。正願は父・諸経・悟道真元空法禅定の後を継いで了宿庵主としてキリシタンたちを指導した。

興茂・了宿の双子説
正願和尚には子孫が無かったようで、正願81歳の1641年(寛永18)に誕生した了宿をもらい受けて育てている。1641年(寛永18)に誕生した了宿と同じ年に興季の嫡男・興茂が誕生している。しかし2年後の1643年(寛永20) 7月1日、正願和尚は死去。了宿は当時2歳、おそらく興季により養育されたと思われる。あくまで推測だが、了宿と興茂は双子だったのではないだろうか。興季の嫡子が双子と考えれば、嫡子として興茂が御領大庄屋の後を継ぎ、弟の了宿が東禅寺の住職となって、キリシタン寺に入ったと考えれば、この問題にも納得がいく。

了宿和尚の死去が1708年(宝永5)4月8日、67歳であるから、逆算すると1641年(寛永18)誕生となる。東禅寺住職となった年は不明だが、通常、武士が元服する年は15~18歳頃であるので、同じころと考えると18歳の頃・1659年に東禅寺住職を継いだと考えている。それでも正願和尚死去から16年は経過しているので、その16年間は誰が東禅寺住職の役目を担って指導していたかの疑問が出てくる。

当然、御領大庄屋を拝命している興季(興秋嫡子)と嫡子興茂が、東禅寺の裏の住職として御領のキリシタンたちを指導していたと思考している。

 興季は1643年(寛永20)正願和尚死去以来、興季自身の死去の1670年(寛文10)8月17日までの27年間、御領のキリシタンたちの陰の指導者だった。興季が死去した1670年、嫡子・興茂は29歳であり、父・興季と共に御領を中心とした地区のキリシタンたちの指導者だった。興季の死去の1670年から興茂の死去した1721年(享保6)9月15日まで、51年間は、興茂は自分に与えられた御領大庄屋としての役目と、東禅寺を中心としたキリシタン組織の指導者として活躍していたと思考している。

 通常、当主がキリシタンである場合、一族郎党は皆キリシタンであった。興秋が一生涯をかけてキリシタンであった事実から、嫡子の興季一族も皆キリシタンであり、その孫興茂一族も皆キリシタンであった。

東禅寺第4代住職・暁雲は興季の嫡子・興茂の6男であり、1669年(寛文9)誕生している。暁雲の嫡男は東禅寺第5代住職の圓瑞(池田家文書)東禅寺住職過去帳には圓尓とある。1743年(寛保3)死去。東禅寺第5代住職の圓瑞の嫡男、第6代住職・玄中、1769年(明和6)死去。

佐伊津・西法寺住職に、東禅寺第4代住職・暁雲の次男・圓乗が入寺して、佐伊津地区のキリシタンたちを指導している。

第5節 了宿庵(東禅寺)の宗教的立場の変更
 益峰快学和尚は基本的にキリシタンを仏教徒にするために御領芳證寺に招かれ入寺している。その方針にキリシタンとして真向から反対する難しさを御領の大庄屋であり、キリシタン指導者である興季と嫡子興茂は抱えることになった。御領周辺のキリシタンたちの生命に直結する問題でもある宗教問題は、ひとつ間違えば取り返しのつかない問題に発展することを意味していた。キリシタンとして穿鑿訴追されたら、御領地区の住民は皆処罰され殺害されることは間違いない事実であり、それを避けるために結局はキリシタンから徐々に仏教徒に改宗していく道しか残されていないことは明白だった。

 1659年(万治2)五人組・檀家寺制度の発令と、28年後の1687年(貞享4)類族改め令だった。この二つのキリシタン禁止令により、キリシタンに対する取り締まりが一層厳しくなった。時代の変化、宗教的激変、周辺の状況の変化、キリシタンが禁教邪宗と見なされている現状下での対応を迫られた時期だと考えられる。了宿庵は浄土真宗として偽装(camouflage)して今迄キリシタン擁護寺の機能を維持してきたが、キリシタン思想を維持することが非常に困難になった時期になった。ひとつは隣に建立された芳證寺との関係である。

その後も幕府から種々のキリシタン禁止令(宗門改め制度)、1659年(万治2)「五人組み・檀家寺制度」、1687年(貞享4)「類族改め令」が発布された。キリシタンから仏教に改宗した者とその子孫が、再びキリシタンに立ち返ることを監視する法律であり、この法律によりキリシタンたちは、墓碑を建立する時は役所(幕府)に届けなくてはならなくなった。この法律施行により、キリシタン墓碑の建立が一層困難になり、キリシタンから仏教徒への改宗に拍車をかけた。1687年(貞享4)「類族改め令」発布以後、御領地区でもキリシタン墓碑は作れなくなり、仏式墓碑が作られるようになって行く。従ってこの地区でのキリシタン墓碑の制作年代は「類族改め令」発布の1687年頃までで、以後は仏式墓碑が主流となった。仏教への改宗課程は明確に示されないが、東禅寺過去帳にはその結果だけが記録されている。約50年後、2世代後の東禅寺過去帳の記録には了宿庵はキリシタン寺の役目を終え、表向き東禅寺門下のキリシタンだった人々はおそらく1701年頃までにすべて浄土真宗門徒として登録されている。

『元禄14年(1701)4月、釋正願の弟、暁雲の養父、阿弥陀如来御下附、寂如上人により東本願寺より西本願寺派に転じ、山号を北耀山、寺号を東禅寺と称した。西本願寺より七髙祖御下附。』東禅寺過去帳より

益峰快学は1699年(元禄12)11月22日、81歳で死去した。芳證寺の住職として就任した1646年(正保3)から1699年(元禄12)まで、実に53年間、半世紀をかけて御領組みのキリシタンたちを仏教(曹洞宗)に導いた。これにより御領のキリシタン組織は自然消滅的に解体され、キリシタンたちは芳證寺檀家として仏教徒に組みこまれていった。表向き1700年前半までに御領組み地区はほぼ仏教化され、キリシタン組織(コンフラリア)は自然的に消滅、あるいは仏教徒の組織として変容し置き換わったと推測される。しかし裏では東禅寺を偽装(camouflage)したキリシタンたちの活動がいつまで続いていたのかを知ることは困難である。

第6節『破吉利支丹』鈴木正三著について 
正三が天草を去った後、天草に於ける寺院の建設は、鈴木重成と中華珪法により指導されていく。曹洞宗の中華珪法・一庭融頓・益峰快学が天草に於いて、相次いで寺院建設とキリシタンの影響感化を除くと共に仏教強化活動を展開している。『破吉利支丹』本文は 450~457頁参照
*キリシタン書・排耶書 日本思想大系 岩波書店

鈴木重成の兄・正三の著した『破吉利支丹』は、正三が天草滞在の2年間1642年(寛永19)~1644年(寛永21)の間に書いたと言われているが、現存する刊本は1662年(寛文2)の発刊であり、正三の死後、寛文年間(1661~1672年・寛文元~寛文12年)の間と考えられている。弟子の恵中が書いた物には『破吉利支丹』は天草在住中に著され天草の寺々に納められたとあるが、実際には天草のどこの寺もこの書物を所蔵していない事実がある。

『破吉利支丹』が書かれた背景の真相は下記の通りだと考えている。

「寛文初年(1661年)幕府は改めてキリシタン禁制の強化を図っており、それに呼応して正三の門弟らが排耶運動を活溌化したらしく、弟子の恵中の「海上物語」、浅井了意の「鬼理到端破却論伝」なども相次いで出版されており、彼ら門弟が師著をまず上梓したものと思われる。」 破吉利支丹 639頁 海老沢有道著 *キリシタン書 排耶書 日本思想大系 岩波書店

「現在知られる排耶書の最も古いものは、慶長中期(1605年頃)、博多あたりで編されたと思わる著者不詳の『伴天連記』であるが、キリシタンの史実や説話を治めているが、折柄発せられた幕府の禁教政策を支援し、好奇心に訴えつつ、結論的にまことしやかに日本侵略の顛末を述べるにとどまり、宗教的接触面はほとんど見られない。1620年(元和6)にハビアンの『破提字子』が出、ついで転び伴天連フェレイラ(Cristovão Ferreira)、すなわち沢野忠庵の『顕偽録』が現れる。後(『顕偽録』)は公刊されなかったが、両者ともに一旦教会内にあった者として、さすがにパアドレ(神父)らの教説の欠陥を指摘するものが認められる。これらももちろん幕府の強化政策に呼応して、あるいはそれに乗じて自己の棄教を正当化しようとするものであるが、これ以後の排耶書は直接間接、これらの影響を受けて展開し、ようやく教理問題が取り扱われる様になるのである。(中略)

同じく島原乱後の幕府の教化策に応じた鈴木正三の『破吉利支丹』も著わされる。刊行は没後1662年(寛文2)のことで、禅儒に日本神国論を交えた三教一致的立場から、一応教理的に排耶論を試みている』603頁 海老沢有道著 *キリシタン書 排耶書 日本思想大系 岩波書店

『何よりも注目すべきは宗論記録類が、キリスト教布教前半期はキリシタン側のみであり、後期に至ってようやく仏教側が排耶記録および著作を残していることである。ということは仏教各派間の宗論が多くなされていたにかかわらず、仏教界には17世紀初頭まで、この強敵に対抗しようとする熱意すら認められず、唯受け身の状態にあったことを示すであろう。これだけでも教学的沈滞を認めざるを得ない。またキリシタンの活発な文書活動に対しても組織的カテキズモ教育等に対しても、それに対抗し、護法運動を展開した形跡を見ないのである。ところが、幕府のキリシタン禁教策が徹底し、封健的国家主義が勃興してきた時になって、初めて仏教界は反キリシタン運動を通して、ようやく生気を取り戻し、幕府への奉仕者としての存在意義を示すようになってくる。それまでは見るべき対抗運動をしなかった仏教界が、こうした客観情勢に便乗して、初めて活発に動きし出したのは、正に転びイルマン不干斎ハビアンが転向し、威丈け高になって『破提字子』を著わしたのと同様の動きというべく、そこには仏教側の反キリシタン運動の特質があり、限界があることを指摘せざるを得ない。』602~603頁 海老沢有道著
*キリシタン書 排耶書 日本思想大系 岩波書店

第7節 変容した天草のキリシタンの姿
1645年(正保2)10月、月圭山芳證寺(曹洞宗)創建と、翌年1646年、長崎皓台寺より益峰快学の入寺により、今までキリシタン寺として機能していた「長興寺」は廃止され「長興寺」に属していたキリシタンたちは芳證禅寺の門徒として登録され保護を受けることになった。以後、時代が下がるに従って徐々にキリシタンとしての純粋なカトリック教理が忘れられ、キリスト教教理の仏教との融合化が進み、天草独自の「キリスト教的民衆宗教」を形成するに至った。キリスト教の仏教化と共に神道との混淆も起こり、キリスト教を土台とした仏教と神道の混合した姿に変容してしまい、またそれに祖先崇拝も加わった。

天草に於ける「かくれキリシタン」は仏教、神道、祖先崇拝の思想を取り込みながら変容し、また神衹信仰、仏教信仰、民俗信仰等と併存して実に250年余り昭和初期に至るまで維持された。現在のキリスト教(カトリック教理)と比較した場合、天草のキリシタンの教理はカトリック教理とはかけ離れた「天草独自のキリスト教土着宗教の変容した姿」だった。

鈴木重成は御領地区のキリシタン組織の存在を知ったうえで、初めから無抵抗なキリシタンたちに対しては、密かに隠れて信仰する限りに於いてはこれを黙認、或いは容認して、御領や天草に於ける政策の安定化と人命を守る統治方針だった。そのような黙認方針を採用し、統治方針を表明した重成の政策は、人命第一主義が根本にある現実主義的寛大さと宗教容認的寛容精神により貫かれている。

第8節 御領地区に存続したカクレ(潜伏)キリシタン組織・コンフラリア
御領地区の伝承「細川興秋と専福庵」に関する調査より

細川興秋に関す伝承として「専福庵」伝承があるが、御領に於いて語られるこの伝承は総べて興秋が山鹿の庄に在った「泉福寺」から1635年(寛永12)に天草御領に避難してきた伝承と結びついて語られている。興秋の死後(1642年・寛永19)に鈴木重成により仏教化が推進されておおよそ1700年(元禄13)頃迄には、表面上御領地区の仏教化は完成した。

しかし、先祖から信じていたキリスト教信仰を保ち続けていた人々もいて、これらの人々は表面的には、芳證寺と東禅寺の檀家として登録されていたが、内面ではキリシタンたちは改宗した振りをして仏教徒を装い従順に生活して定期的に絵踏みも行っていた。しかし心の中では先祖より受け継いだキリシタン信仰を棄ててはいなかった。御領地区にもカクレキリシタン組織・コンフラリアが存在し続けていた。
(故山本繁氏より教授されたカクレキリシタンに関する伝承)

御領地区のこれらの伝承を整理して考察すると、興秋の死後(1642年・寛永19)のカクレ(潜伏)キリシタン組織と結びつきが語られていることが判り、鈴木重成の仏教政策推進により表面的には仏教化が完成したと考えられる御領地区に於いても、尚キリシタン組織・コンフラリアが生き残っていて、秘密裏にキリスト教の存続が図られていたことを考えさせられる。その伝承として語られている代表的な地区を4ヵ所記しておく。

1 松ヶ迫地区の仙福庵跡地(五和町御領字松ヶ迫)
2
 御領城近くの專福庵跡地・御領字堀(岩谷観音堂の崖上)
3 一尾(ふとお)地区の庵の坂、庵の跡地、庵の川(井戸)
4 長崎鼻のキリシタン寺跡地(五和町御領字長崎)

この地区では興秋の死後も、鈴木重成の仏教化完成後も、キリシタン組織・コンフラリアが維持されていたと考えられる。「細川興秋と専福庵伝承」とは、鈴木重成の推し進めた仏教化完成以後も、御領地区に存続したキリシタン組織・コンフラリアの存在を証明している証拠と捉えている。

御領地区に於いては、1802年(文化2)に起きた今富・崎津・大江・高浜の「宗門心得違い」事件の様なキリシタン摘発事件は起きていない。御領地区に於いてキリシタン組織はいつごろまで存続できたのかは記録がないので明確な答えができないが、ほぼキリシタン信徒たちは芳證寺、東禅寺の檀家として登録されていたので、キリシタン組織は自然消滅していき、1700年代末までには仏教組織に置き換わって行ったと考えている。

1 松ヶ迫地区の仙福庵跡地(五和町御領字松ヶ迫)
現在地:御領芳證禅寺より北西約1,6キロの松ヶ迫地区の仙福庵
いつの頃から松ヶ迫地区のこの地が「仙福庵」と呼ばれるようになったのか不明だが、伝承では、1635年(寛永12)、細川興秋が熊本山鹿(現・鹿本町庄)の庄村の「泉福寺」から避難してきて、先ずは長崎鼻のかくれキリシタン寺に入り後、より安全な内陸部の、すでにキリシタン組織のしっかり構築されている松ヶ迫地区のカクレキリシタン寺に移ってきた時以来、その場所が「仙福庵」と呼ばれるようになったと伝えられている。

伝承による「細川興秋と仙福庵」
細川興秋は1635年末頃からこの松ヶ迫に庵を結んで、その庵を以前住んでいた山鹿と同じ寺の名前の「泉福寺」から取って「仙福庵」と名付けたと推測される。泉を仙に変えることで自分の逃亡の痕跡を消す意図があったと考えられる。1620年(元和6)に父忠興が「三斎宗立」と号した同時期に細川興秋は自分の法名を「宗専」と号した。当時興秋は、豊前国田川郡香春町に建立された「不可思議山不可思議寺」(現・不可思議山明善寺)の第2代住職だった。興秋の事を天草御領地元のキリシタンたちは「宗専和尚」と呼んでいたのか、あるいは興秋の墓碑銘が「長興前住秦月大和尚禅師」となっているので地元の人々には「秦月和尚」と呼ばせていたかもしれない。

細川興秋は1635年10月末頃迄には、御領の了宿庵に避難してきて、1636年前半に御領城内に新しく建てられたキリシタン寺「長興寺薬師堂」に移ったと推測される。御領には既に存在しているキリシタン寺「了宿庵」があり、了宿庵は正願和尚(大村純忠の末弟・諸経の嫡子)によりキリシタン寺として、宣教師たちの隠れ家になっていた。1617年には、中浦ジュリアン神父が長逗留して「コーロス徴収文書」を作成している。1629年から1633年までの5年間、ジャコモ・アントニオ・ジャンノネ(Giacomo Antonio Giannone)神父、クリストヴァン・フェレイラ(Cristovão Ferreira)神父を匿っている。2年後の1635年10月頃、天草に避難してきた細川興秋と2人の従者を匿ったのも正願和尚だった。興秋は御領城内のキリシタン寺に本格的に移ってきて元々あったキリシタン寺を「長興寺薬師堂」として偽装(Camouflage)して居住した。

2年後の1637年(寛永14)には「天草島原の乱」が勃発しているので、その前に鬼池・御領・佐伊津・二江地区のキリシタンの人々が乱に加担しないように指導していることを考えると、長崎鼻のキリシタン寺、松ヶ迫の「仙福庵」とは、興秋が山鹿から避難してくる以前から在ったキリシタン組織・コンフラリアの事を述べていると解釈している。

松ヶ迫の「仙福庵」のキリシタン組織(細川興秋移転後)
1635年(寛永12)10月頃、細川興秋が御領の「長興寺」カクレキリシタン寺に移った後も、以前から存在していた「仙福庵」は松ヶ迫地区のかくれキリシタン寺として機能していて松ヶ迫地区のキリシタン信徒組織の重要な役割を果たしていたと推測できる。

松ヵ迫「仙福庵」にあった聖母マリア観音が享保15年(1730)に現在地の御領字堀の「岩谷観音堂」の場所に移動しているので、少なくとも1635年から1730年までの95年間は、地元のキリシタン達は松ヵ迫のカクレキリシタン集会所(仙福庵)を根拠地にして潜伏キリシタン組織としての活動があったと推測できるのではないだろうか。松ヶ迫地区の「仙福庵」という地名は、細川興秋が天草に来る前に住んでいた鹿本町庄の「泉福寺」に由来していると推測される。それ以外に「仙福庵」という名前が地名になる根拠がないから、その様に推測するならば、1635年以来、山鹿の庄より避難してきた細川興秋を中心として再組織化された信徒組織のひとつとしての松ヶ迫地区のキリシタン集会所が「仙福庵」と呼ばれ、やがて地名として現在まで名を残していると解釈している。

鹿本町庄の「泉福寺」は、天草御領に於いては、専福庵、泉福庵、千福庵、仙福庵と、4通りの表記がなされている。現在の松ヶ迫での表記は「仙福庵」であるが、過去の文献には統一された表記はなく自由に使われている。

2 御領城近くの專福庵跡地・御領字堀(岩谷観音堂の崖上)
「岩谷観音と石仏群(御領字堀)」
『もとは北西方、松ヶ迫仙福庵に祀られていたものを、お告げを受けた農夫某がこの地に移したものである。高さ約2mの板碑に柳の小枝を持った楊柳観音が刻まれている。特に子宝・出産・乳の出などの悩みに御利益があると言われ、女の願いを聞いて下さるありがたい観音様として名高い。地域はもとより県内外から参詣者が多く、年中香の香りが絶えない。地元では「いわや(岩谷)さま」と言って親しまれ、祭礼は旧暦の1月と6月の18日に行われる。』『五和の文化財を訪ねて』五和町史跡文化財案内 五和町教育委員会 平成12年

「岩谷観音」の説明板
『板碑に等身大の見事な観音像が彫刻されているが作者は確かでない。享保15年(1730年)の開眼、左手に洒水をのせ右手に柳の小枝を持った楊柳観音である。もと、この観音はここより西北方の專福庵(松ヶ迫)にあったが人里へ移り困っている人々に功徳を授けたいと三郎右衛門の夢枕に立ち、ここに移されたもの。乳授けや安産祈願の観音として近隣の人々の信仰が篤い。俗説によればこの観音様は、毎年一度は京のぼりをされ、その時は衣の裾がほこりで汚れていると伝えられている。』五和町役場 岩谷観音堂前の説明板より

「専福庵」の崖下にある岩谷観音は聖母マリア観音像と考えられるので、禁教時代1730年(享保15)以降のカクレキリシタン礼拝堂ではなかったかと考えられる。

「美人観音像」
『楊柳観音がある岩谷観音へ行ってみた。禅利芳證禅寺の西側の坂道を上り下ってからさらに西へ約200メートル細い道を行ったところ。そこには高さ約5メートルくらいの凝灰岩の岩壁が30メートルほど続いており、北に面している岩陰で陽射しの無いところでヒンヤリとしていた。一番手前の入り口に当たる所には屋根付の大きな地蔵が立っていた。古そうに見えたが、実は明治34年3月3日建立の南無地蔵大菩薩で施主郷若連中であった。岩壁にはいくつも刳り抜いて砂岩で造った観音像を安置してあった。これが「岩谷観音」と呼ばれているもので、その数の多いことと天草では例のない観音像なので驚いた。奥の方には長さ3間、幅1間半の御堂があった。さらにその奥には、また感嘆するほどの美人観音像が立っていた。高さ150、幅62、厚さ6センチの砂岩の板石に約1センチ位の浮彫になっていた。その観音像は高さ143センチ、当時の女性の等身大で、12色のきれいな彩色になっていた。この板碑の右上方の表面に『享保十五年(1730)庚戌六月十八日開眼』と銘記してある。この観音はしなやかな手指に柳の枝を持っているので「楊柳観音」と言われているが、信仰上は、子を恵んでくれるとか,乳を出してくれるとかで「子宝観音」として近在近郷の人々から親しまれている。(中略)

 天草における岩谷(岩壁)の観音像群があるのは五和町だけで、この岩屋観音群を初め、浦園、鬼之城、城河原の野口、手野の三岳などに無数の観音群が存在しているのは石材としての凝灰岩が多いということばかりでなく、観音信仰の宗教的傾向を明確にする必要もあろう。といっても、ここで簡単にできるわけではなく、今後の課題として考えてみたい。

凝灰岩の多い御領を中心にキリシタン墓碑群と観音群が多いということが一致していること。天草の乱後(1637年・寛永14)仏教の全盛期を迎えた天草に於いて表面は仏教徒になった隠れキリシタンたちと観音信仰とのかかわりがないものかどうかということ。お寺参りを中心とした仏教信仰と少々変形した野外の偶像信仰としての観音信仰は、隠れキリシタンがお寺の支配に対して合法的な中でのレジスタンス(resistance・抵抗運動)の現われではなかったのであろうか。

もちろん、これはあくまでも主観的な仮説であるがとにかく前にも述べたように五和町におけるキリシタン墓碑群と観音像群との関連性について解明することは文化財保護の立場から重要な研究課題であるといえよう。』
鶴田文史著『天草の歴史文化探訪』80~81頁 天草文化出版社 1986年

「子安観音」
『もともと子安観音なるものは仏教にはなく、古来より「木花咲耶姫命」(このはなさくやひめ)を安産、子育ての「神」として祀る信仰が仏教の観音や地蔵と合併して出来たものとされている。すなわち、日本古来より信仰の主流をなしていた神教は仏教が伝わり盛んになるとその主流をうばわれ、日本の神々はその本地である仏(本地仏)が形を変え、神として現れたものと考える「本地垂迹」(ほんちすいじゃく)の思想が生まれた。

その結果、「子安神」に「観音」や「地蔵」信仰が加えられ「子安観音」が誕生したと言われている。天照大神の本地仏は大日如来で、八幡大神が八幡大菩薩になったりしたのは、この本地垂迹の思想からであった。

このような思想の中,禁教になり「聖母子像」を拝むことを禁じられたキリシタンはいち早く、子安観音や子育て地蔵・鬼子母神・慈悲観音を聖母子と見立てて拝みはじめたのである。

これを「マリア観音」と言っている。観音であって観音でないこの「マリア観音」はキリシタンの間にたちまちの内に広まり、本地垂迹の思想はキリシタンにしてみれば絶好の逃げ道であったのである。さらに好都合でキリシタンの心を励ましたのは、子安観音の子供をいつくしみ抱くその姿は、聖母の御姿に通じ鬼子母神の持つ柘榴(ざくろ)はキリスト教では復活や純潔のシンボルとされ、中国から輸入された慈母観音の「白磁」はキリスト教の純潔の「白」の象徴でもあった。

 九州において、マリア観音は素人でも作られたが、有名なものに長崎県の北高木郡の古賀焼がある。これは熊本に伝播され、さらに広田政吉によって天草にも広められた。特に天草土人形の中では「山婆(ヤマンバ)」と呼ばれるものは信者の中で愛用されていた。その他、白磁で人気があったのが九州では平戸焼があった。(中略)

 本来のキリスト教の教えは、観音や地蔵を聖母やイエズスに見立てて信仰することは厳禁されていたにもかかわらず、日本の隠れキリシタンの間では慣例となり、これが幕末までの長い禁教期を乗り越えるための、ひとつの信仰の支えとなっていた。

 『長崎地方では、その方言で天王(デウス)のことを地蔵尊(ジゾース)、イエスのことを地蔵菩薩像(ジゾーズ)、マリア像のことを丸屋仏とよんでいたという。』
三田元鐘著『切支丹伝承』。高田茂著『聖母マリア観音』142~143頁

『このマリアの懐妊や受胎告知について日本のキリシタンは観音の腹を大きくして妊娠した姿として現している』58頁

『お腹の大きい観音様、天草(五和町御領)の元キリシタンの家にあった観音だがお腹が大きく十字架を無数に付け、冠には日と月が描かれている。観音を仮託したマリア像であろう。』「天草サンタ・マリア館所蔵の岩谷観音の掛け軸」59頁 浜崎献作著『かくれキリシタン・信仰の証』1997年

「マリア観音」
『迫害者の憎しみは踏絵を考え出したが、潜伏キリシタンの愛は子安観音像をサンタ・マリアの御像にした。(中略)

私(結城了悟神父)はそのマリア観音を三つに分類する。中国磁器の観音像、平戸焼の観音像、木や他の材料で作られた観音像である。最も代表的なのは中国からのもので、その制作場所を見ると、キリスト教と直接結びつきが無いことは明らかであるが、マリア観音として認められるのは、潜伏キリシタンの家に祀られたからである。キリシタン時代、すなわち1650年頃まではマリア観音がなかった。宣教師たちがそのような使い方を許す筈はなかったし、キリスト教の純然たる宗教品は皆の手に入る可能性があったので、必要ではなかった。

 また江戸時代までは日本では赤ん坊を抱く観音像は見られなかった。ちょうど鎖国の結果として、長崎が外国貿易のための唯一の開かれた港であったとき、福建省から子安観音が導入された。当然のことながら長崎と大村藩の寺々には、そのような観音像が今も祀られている。

 同じ地方の潜伏キリシタンにとって今迄見られなかった子供を抱く観音像は、禁じられていたサンタ・マリアの御像を思い起こさせ、その代わりに簡単に受け入れられた。それは潜伏キリシタンの信仰が変化したことではなく、宣教師たちから教えられた聖母マリアに対する信心を守るためのひとつの手段であった。(中略)

 平戸焼のものはもっと遅い時代のものである。素朴で、中国の観音像の荘厳な面持ちの代わりに優しさが溢れている。時には微笑んでいるかのように見える。この2番目の種類のものには時々小さな十字の印が見られる。どのような種類であっても、マリア観音として指定するために必要なことはひとつである。すなわち、潜伏キリシタン、あるいは現在のキリシタンの家に祀られているかどうかということである。それはそのまま磁器のマリア観音は深い愛情と英雄的な忠実な歴史の証し人である。』
結城了悟著『キリシタンのサンタ・マリア』117~120頁 日本26聖人記念館

3 一尾(ふとお)地区の庵の坂、庵の跡地、庵の川(井戸)
現在地:旧・御領小学校跡の北東側、国道324号を挟んだ北東側、海に面した高台の一角
鬼池港から御領方面へ国道324号を南下した国道沿いの海側、旧・御領小学校横の北東側、海に面した一尾(ふとお)地区の小高い丘に「庵の坂、庵の跡地、庵のかわ(井戸)」という地名が残っている。「庵の坂」は一尾から浜口へ下りる坂の名称。「庵の川」は一尾にある金子利光氏宅の井戸の名称。

この場所もキリシタン寺があった場所という伝承があるが、1792年(寛政4)の雲仙普賢岳大噴火後に長崎鼻から移ってきたキリシタン寺なのか、それ以前から存在していたキリシタン寺なのかは不明。「庵の坂、庵の跡地、庵のかわ(井戸)」という地名からして、專福庵の坂、專福庵の井戸ではなかったかと連想してしまうが、ただ単に「庵の坂、庵のかわ(井戸)」という名称・地名のみが残っているだけで、專福庵との関連性が不確かで断定する史料がない。

「庵の坂、庵の跡地、庵のかわ(井戸)」との名称から考えられることは「キリシタン寺」より集合人数の小さい信者達の集会場所を「キリシタン庵」と呼んでいたと考えられる。「庵の坂」を登りつめた一角が高台で小さな岬のようになっていて、その高台にキリシタン庵があった場所「庵の跡地」と言われている。(故山本繁氏の教授による伝承)

4 長崎鼻のキリシタン寺跡地(五和町御領字長崎)
現在地:若宮海水浴場東側(字長崎の東端)
長崎鼻のキリシタン教会のあった岬自体は1792年(寛政4)の雲仙普賢岳大噴火の際、地震により地滑りや陥没で地形が変わってしまったところに普賢岳噴火の際の眉山崩壊による大津波で流されてしまい海になった場所。現在は「海老の養殖場」の先、海の中の波瀬(なみぜ)の近くに井戸跡が二つ残っている。この井戸が「長崎鼻のキリシタン井戸」と呼ばれている。波瀬は春と秋の大干潮(旧暦)の時のみ姿を見せる岩礁。

古くは海に突き出た岬で、長崎の岬の上(現・長崎市江戸町)に建てられた「被昇天のサンタ・マリア教会」(礼拝堂)に似ているため、御領地区のキリシタンたちから長崎鼻と呼ばれていて、そこに若宮地区のかくれキリシタン教会(礼拝堂)があった。

伝承では、細川興秋が1635年(寛永12)10月頃、熊本鹿本(現・熊本県山鹿市鹿本町庄)の「泉福寺」から避難してきて最初に匿われた。カクレキリシタン教会(礼拝堂)に庵を構え「専福庵」と名付けて住み始めた跡地とのこと。若宮地区のカクレキリシタン教会は、天草に40あったキリシタン教会の一つと考えられる。現・五和町には14の教会があったと報告されている。

現在の若宮海水浴場横・五和海洋レジャーセンター先の長崎鼻。現在は「海老の養殖場」になっている一帯から波瀬(なみぜ)と呼ばれる岩礁の近くにある二つのキリシタン井戸跡。

第9節 「崩れ」と細川興秋の隠棲地との関係
 
御領地区にはこれだけの明確なカクレキリシタンについての伝承があるにもかかわらず、1700年代に天草御領地区のキリシタン組織が摘発されることはなかった。同じ下島の南西地区の今富・崎津・大江・高浜で1802年(文化2)に起きた「宗門心得違い」事件の様な大規模なキリシタン摘発は、御領地区がある下島の北東地区では起こっていない。カクレキリシタン組織が表面的には1800年頃までには自然消滅的に無くなって行ったことも摘発されなかった要因であるかも知れない。

キリシタン信仰の発覚を摘発される事件を「崩れ」と表現されてきたが、最初の「崩れ」は1657年(明暦3) 大村藩で起きた「郡崩れ」であり、603人が逮捕された。603人の内、、斬首411人、20人が永牢(終身刑)、99人は釈放されている。1660年(万治3)の「豊後崩れ」。1664年(寛文4)の「濃尾崩れ」では207人が斬首、1667年(寛文7) 756人が斬首、1669年(寛文9) 33人が斬首された。

1600年代には幕府側もキリシタンに対しては厳しく断罪し処刑して対処してきたが、徐々に幕府側の取り締まりの姿勢が1700年代には緩んできた。ひとつには幕府の宗門取り締まり方にもキリスト教の教理が何であるかが明確でなくなって行ったことと、幕府の100年に渡る厳しい取り締まりにより、ほぼキリシタン組織が表面的に世の中より姿を消したこと、あるいはキリシタン側も檀家制度、5人組制度により、世の中の社会制度の中に取りこまれてキリシタンとしての明確な姿が見えなくなったことにもよる。

細川興秋に関して、興秋が生存していた3つの地域、豊前国田川郡香春町の不可思議山不可思議寺の住職として1615年(元和元) 6月から1632年(寛永9) 12月までの18年間、細川藩の豊前から肥後熊本への移封までの期間、香春町を中心として堅固なキリシタン組織・コンフラリアが構築されていた。また興秋により香春町採銅所の「不可思議寺」に6年間匿われていた中浦ジュリアン神父が宣教した豊前地区、筑前国、秋月、甘木、今村等を含む広範囲にキリシタン組織が構築されて、実に明治の初めまで、キリシタン信仰とキリシタン組織は維持されていた。

 豊前国田川郡の宗門改めは、1793年(寛政5) 4月4日、香春町の香春岳の下にある光願寺に於いて「宗門改め」が行われた。

1829年(文政12) の「宗門改め」の記録には、像踏み申さず分として2,078人に記録が残されている。

一、本家708軒、男女合わせて 2,871人 内 男1,488人、女1,388人
内  像踏み申す分   793人
   像踏み申さず分 2,078人

*「香春町史 上巻」第2章 小笠原時代と藩政の整備 田川郡ノ宗門改め527~529頁

像を踏まなかった者が2,078人、全員キリシタンだったと断定はできないが、この時代に、これだけ多くの者がキリシタン信仰を堅持して像を踏むことを拒否したことは、非常に大きな出来事だった。しかも1802年(文化2) に起きた、天草下島南西地区の今富・崎津・大江・高浜の「宗門心得違い」事件の27年後に勃発した大事件である。豊前を治める小笠原藩にとってもこれだけ多くのキリシタンが発覚したことは、幕府から小笠原藩が御取り潰しになってもおかしくない大事件のはずである。幕府自体がキリシタンを「邪宗」として取り扱わなくなった時代になり「異宗教」として位置付けていたことにもよる。幕府も幕藩体制維持のために「キリシタン」として摘発せずに「異宗」、または「宗門心得違い」として穏便に処理した。

 豊前だけに留まらず、移封後の肥後熊本の山鹿・鹿本地区に建立された「泉福寺」における3年間、鹿本地区における周辺の隠れキリシタン組織・コンフラリアの全体像も明確にされていない。鹿本、山鹿地区には現在も多くのキリシタン遺跡が残存している。

元々、この鹿本地区は1600年(慶長5) 9月、関ヶ原の戦いで敗れた小西行長の一族と家臣が、宇土城下付近から、菊池氏との関係が特に深く中富村を知行していた国衆・加悦氏との関係を頼り多く移り住んだ場所である。小西一族には多くのキリシタンがいて、藩主加藤清正との軋轢や宗教的弾圧を避けるために農民となり、キリシタン信仰を維持するためカクレキリシタンとなってこの鹿本地区、中富地区付近を中心とした地区に定住した。

細川興秋が18年間「不可思議寺」の住職としていた豊前国田川郡香春町と、肥後の国、山鹿・鹿本地区にある「泉福寺」周辺地区での3年間の隠棲、天草御領の「長興寺薬師堂」の住職として8年間いた御領地区では、キリシタン組織の発覚「崩れ」は起こっていない。如何にキリシタン組織の隠蔽が重視され、キリシタン組織が堅固に維持されていたかを歴史が証明している。

その後もキリシタン発覚事件「崩れ」は起きている。1790年(寛政2)に起きた「長崎・浦上1番崩れ」。天草での1802年(文化2)に起きた「宗門心得違い」事件。1842年(天保13)に起きた「長崎・浦上2番崩れ」。1856年(安政3)に起きた「長崎・浦上3番崩れ」、1867年(慶応3)に起きた「長崎・浦上4番崩れ」と続いている。

第10節 1802年(文化2)に起きた今富・崎津・大江・高浜の「宗門心得違い」事件
鈴木重成の天草統治時代、地域住民がキリシタンであると判っていながら黙認し容認してきた政策が、逆にキリシタンたちの命脈を温存させ保たせた要因にもなっていた。またキリシタン信仰は在来の神仏信仰と民俗信仰と混じり合い習俗化した。キリシタン信仰は、仏教信仰、神衹信仰、民俗信仰等と併存・あるいは共存しながら生き延びてきた。

 天草全島が一律にキリシタン信仰を維持できたのではなく、地域ごとに黙認されたキリシタン信仰は外部との接触なしに内密に保持されてきた。例として同じ下島でも、北東部の御領地区と南西部の今富・﨑津・大江、高浜の4ヵ地区でのキリシタン信仰の維持の形態は全く違った過程を辿っている。

下島北東部の御領周辺のキリシタンたちは「天草の乱」に参加していなかったために、表面上厳しくは監視されてはいなかった。1642年の細川興秋の死後もキリシタン信仰の影響が強い地区のため、仏教寺院・志岐の圀照寺と御領の芳證寺の厳しい監視下に置かれながらも仏教教育は緩やかに行われた。芳證寺が創建された1645年から2世代、約50年に渡り監視統制され仏教教化が行われ表面的には自然消滅的にキリシタン組織は解体している。

一方、下島南西部の今村・﨑津・大江・高浜の4ヵ地区には、1645年(正保2)河浦町河浦に佐賀の善道寺の末寺として崇圓寺(30石)が創建され、伝誉通風和尚が赴任した。4ヵ地区は「天草の乱」に参加していないし地理的にも離れていたために、さほど厳しく監視されてはいなかった。表向き今富・﨑津・大江・高浜地区のキリシタンたちは改宗した振りをして仏教徒を装い従順に生活して定期的に絵踏みも行っていた。しかし心の中では受け継いだキリシタン信仰を棄ててはいなかった。そうでなければ1805年(文化2)今富、﨑津、大江、高浜で発覚した「天草崩れ」は起こり得なかった。

1637年の「天草の乱」から168年後に起こったキリシタン発覚事件「天草崩れ」は、最終的には「宗門心得違い」ということで穏便に処理されたが、そこには約168年の時の流れの中で変容し続けたキリシタンの姿が如実に現れている。本当のキリスト教の信仰と教理(カトリック教理)を見失ってしまったキリシタンたち。キリスト教とは何かを把握していない幕府の取締役人方。双方が真のキリスト教の教理、典礼とはなにかを知らないまま、時代が移り変わって行った168年後に起きた「異宗事件」「宗門心得違い」であった。

「禁教の徹底によって、キリシタンは掃討され尽くされてしまい、その教理、典礼について知る者がなく、好奇心も手伝って、徒らに誇大に揣摩憶測を加え、訛伝に訛伝を重ね来るようになる。新井白石(1657~1725年)ですら、シドッチ(Sidotti Giovanni Battista 1668~1714年)の取り調べにあたって、初めてキリシタンの教理や西欧についての知識を学んだほどであり、一般民衆の間には恐るべき魔法、そして国を奪う邪宗門という観念しか伝えられていなかった。(以下略)」604~605頁 海老沢有道著
*キリシタン書 排耶書 日本思想大系 岩波書店

終わりに
1566年(永禄9)志岐麟泉がルイス・デ・アルメイダを招き、キリスト教布教を許可して、天草に於けるキリスト教布教の先駆けとなって以来、天草に於けるキリスト教は天草全島を席捲する勢いで宣教が広まって行った。しかし1621年の三宅藤兵衛重利のキリシタン迫害開始以来、徐々にキリシタンの勢力は迫害により衰えていった。1637年(寛永14)天草は寺沢藩、島原は松倉藩の統治下で、重税にあえぐ天草島原の領民を襲った飢饉と圧政に耐えられなくなった領民は団結して乱を起こした。「天草の乱」以後、幕府のキリシタン禁制政策により、キリシタンたちは隠れて信仰を保っていくしか方法が残されなくなった。

その後も幕府から種々のキリシタン禁止令・宗門改め制度「1659年・五人組み・檀家寺制度」「1687年・類族改め令」等が発布され、いよいよキリシタンたちは潜伏を余儀なくされた。1644年頃を境に日本から宣教師がいなくなり、キリシタンたちは属している信仰組織・コンフラリアを頼りに自らの信仰を維持しようと模索を始めている。その過程で仏教や神道との付き合いから、その思想を知らず知らずのうちに取り込み、純粋なキリスト教教理の中に混濁が起こり、次の世代に伝えるうちに徐々に信じる信仰に中に仏教や神道、祖先崇拝の思想が混ざり込み、信じている信仰が歪な形に変容していった。

これらの下島北東地区のキリシタン組織の基礎史料(キリシタン史)を基に、天草全体では1,088基のキリシタン墓碑と五和町周辺に残存している991基のキリシタン墓碑との関連性が改めて調査研究され再考察されることを願っている。この論考がその叩き台になれば幸いである。

追記 『細川興秋の真実』第3章150~199頁
「長岡与五郎宛 1621年(元和7)5月21日付け 細川忠利書状」に記載の3人について
*情報提供 熊本史談会元会長・真藤圀雄氏 小倉藩葡萄酒研究会・小川研次氏 

「与安法印」片山宗哲(1573~1622年・天正元~元和8年)   
将軍家の侍医・片山宗哲を指しているが、片山宗哲は「長岡与五郎宛 1621年(元和7)5月21日付け 細川忠利書状」の翌年1622年(元和8)11月に50歳で死去している。

晩年の家康の病が「胃癌」であることを察した与安法印が、薬研を使って自分で作る薬を服用する家康を諫めたことから、これに激怒した家康により1616~1618年(元和2~4年)の2年間、信濃国諏訪郡高島へ配流蟄居処分されている。赦免後の1618年(元和4)2代将軍秀忠により江戸城御殿医に復帰して務めている。

「興秋宛の忠利の書状」が1621年(元和7)5月のことであり、その前年頃、父忠興は眼病に苦しみ京都から眼科医・槙島を豊前に迎えて治療を受け、釋の病(腹部と胸部痙攣)のために片山宗哲を江戸より招いて内科(漢方)の治療を受けている。忠興自身、死を覚悟した程の重篤な状態であったので、これを切っ掛けに隠居を決断している。忠興の元を訪れた与安法印(片山宗哲)を密かに忠利が香春の不可思議寺にいる興秋の元に遣わしたと考えられる。当然のことだが興秋の名前は伏せてのことである。

「半左衛門尉」
田中半左衛門
と思われ、旧姓長束助信(なつかすけのぶ)
室は忠興の妹伊也の娘である。忠利は信頼できる「身内」を香春町採銅所「不可思議寺」に匿われている与五郎(興秋)の側に置いていたと考えられる。半左衛門は忠利の与五郎宛ての書状が書かれた1621年(元和7)5月21日付けの2年後『江戸江相詰御奉公相勤居候處元和九年(1623年)四月病死仕候』(先祖附)とあり、江戸で在勤中であったが病死している。

「伊喜助殿」
幕府勘定奉行の伊丹喜助康勝と思われ、通称「喜助」(きのすけ)

「我等は、喜助殿次第と申す筈にて罷り下り候故、留め申す儀も御座無候、多分十四日に罷り上がるべきかと存じ奉り候」
(私は、奥の参府については伊丹殿の考え次第というつもりですので、止めるわけにもいきません。多分、十四日にでることになると存じます。)(元和九年九月四日忠利披露状)
(山本博文著『江戸城の宮廷政治』)

この「喜助殿次第」は上述の与五郎宛の書状にも見られること、伊丹喜助康勝で間違いないと考えられる。伊丹氏の第一世代の雅興、親永、永勝がいて、伊丹喜助康勝は雅興の孫にあたり、徳川幕府に於いて勘定奉行を務め、熊本の加藤家改易後、熊本城受け取りの際、No 2として財務面を担当して来熊している。細川家とは大変懇意であったことが判るし、熊本の情勢にも明るかったと思われる。与五郎興秋を匿うことについての相談相手としては格好の人物だと思われる。

細川幽斎に唯一側室が確認されるが、これは有岡城から黒田官兵衛孝髙を救出した加藤(伊丹)重徳だが、室は(親永の子・親保女)であり、細川忠興の側室・お藤(松の丸殿)は重徳の兄・郡(伊丹)宗保の娘である。何故、細川幽斎・忠興親子の側室がそれぞれ伊丹氏なのか不思議に思うが、伊丹喜助殿を含め深いかかわりがあってのことと思われる。

加賀山隼人も伊丹氏ですが、これも親永の子の親保の弟か、四男とかいう「意遁忠親」のその嫡男が隼人の父親・朝明だと考えられる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?