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万葉集に見る七夕の歌



今年(2023年)の7月7日は過ぎましたが、旧暦であれば今年は8月22日となります。古代の人が見た七夕の空はこれからであり、秋を感じさせる歌があります。

七夕伝説は中国から伝わったされ、万葉集の時代に七夕の歌が入っています。七夕歌の前半は柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)歌集にあるものですが、その中には人麻呂以外の者が詠んだ歌も混在しています。斎藤茂吉が人麻呂作と認めた作品は以下ものです。なお、柿本人麻呂七夕歌の最終歌には庚辰年の作と書かれており、これは、680年のことと考えられてることから(大浦誠士「憶良の七夕歌」)、憶良の歌よりは40年以上前に作られてたものと考えらえます。

柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)


(万葉集第十巻)秋の雑歌(くさぐさのうた)七夕(なぬかのよ)

あからひく
しきたへの児(こ)を
しば見れば
人妻故に
我(あれ)恋いぬべし (一九九九)

(頬が赤い寝姿の良い織女星を幾度も見ると、人妻なのに私は恋をしそうだ)

天の川
安(やす)の渡りに
舟浮けて
秋たつ待つと
妹(いも)に告げこそ (二〇〇〇)

(天の川の安の渡し場に舟を浮かべて秋が来るのを待っていると妻に告げてほしい)

天の川
水陰草(みずかげそう)の
秋風に
なびかう見れば
時は来にけり (二〇一三)

(天の川の水影草が秋風になびくのを見ると、その時はきたのだ)

我(あ)が待ちし
秋萩咲きぬ
今だにも
にほいに行かな
彼方(おちかた)人に (二〇一四)

(私が待っていた秋萩が咲いた。今すぐにでも色に染まりに行きたい。向こう岸の人に)

万代(よろずよ)に
照るべき月も
雲隠り
苦しきものぞ
逢わむと思へど (二〇一五)

(千万年も照るはずの月も雲に隠れるように会えずに苦しいものだ。会いたく思うのに)

(以上、「短歌のこと、万葉集の七夕の和歌、柿本人麻呂 山上憶良他」から https://tankanokoto.com/2018/07/tanabata-tanka.html

山上憶良(やまのうえおくら)


七夕祭りに歌を詠む風流を日本に流行せしめんとしたのは、長安の都から帰ってきた憶良であって、その最初の詩は、709年に人麻呂が死んでから15年後に初めてつくられたものであった(土井光知る「比較文学と万葉集))。それぞれの歌の意味は、「短歌のこと、万葉集の七夕の和歌、柿本人麻呂 山上憶良他」から (https://tankanokoto.com/2018/07/tanabata-tanka.html)、及び、「古典に親しむー万葉集」(https://bonjin-ultra.com/manyou081518.html)から引用しています。

万葉集第八巻から


天漢(あまのがわ) 
相(あ)ひ向き立ちて
吾(わ)が恋ひし
君きますなり
紐(ひも)解(と)き設(ま)けな (一五一八)

(天の川を隔てて互いに向き会って立っている。私が恋しく思っていたあのお方がいらっしゃる。紐をほどいて準備しよう)

(養老八年(724年)七月七日、令ニ応ヘテ作メリ)
  注:養老8年2月4日に神亀(じんき)と改元されている。

久方(ひさかた)の
漢瀬(あまのかわせ)に
船(ふね)浮(う)けて
今夜(こよい)か君が
我許(あがり)来(き)まさむ (一五一九)

(天の川の渡りに船を浮かべて、今夜はあの方が私のもとにいらっしゃることだ。)

(神亀元年(724年)七月七日ノ夜、左大臣ノ宅ニテ作メリ)
 
牽牛(ひこぼし)は
織女(たなばたつめ)と
天地(あめつち)の
分(わ)かれし時(とき)ゆ
いなむしろ
河(かわ)に向き立ち
思うそら
安かららなくに
嘆くそら
安からなくに
青波に
望は絶えぬ
白雲に
涙は尽きぬ
如是(かく)のみや
息(いき)づき居(い)らむ
如是(かく)のみや
恋(こ)ひつつあらむ
さ丹塗(たぬ)りの
小船もがも
玉纏(ま)きの
ま櫂(かい)もがも
朝なぎに
いかき渡(わた)り
夕潮(ゆふしお)に
い漕(こ)ぎ渡り
久方(ひさかた)の
天(あま)の河原に
天(てん)飛ぶや
領巾(ひれ)片敷(かたし)き
ま玉手(たまて)さし交(か)へ
あまた夜(よ)も
寝(い)ねてしかも
秋にあらずとも (一五二〇)

(彦星は織女と、天地が別れた遠い昔から天の川に向かって立ち、思う心はやすからず、嘆く心の内も苦しくてならないのに、川に漂う青波に、逢う望みを絶たれてしまった。白雲にさえぎられて、涙も涸れてしまった。このようにため息ばかりつき、恋い焦がれてばかりおられようか。赤く塗った小舟でもあれば、玉で飾った櫂でもあれば。朝の凪ぎ時に水をかいて渡、夕の満潮時に漕ぎ渡り、天の川原に領巾(ひれ)を床代わりに敷いて、玉のような腕を差し交し、幾夜も幾夜もねたいものだ。七夕のあきでなくとも)

反歌

風雲(かぜくも)は
二つの岸に
通(かよ)へども
吾(あ)が遠妻(とおづま)の
言(いい)そ通(かよ)はぬ (一五二一)

(風や雲は天の川の両岸を自由にいききしているのに、遠くにいる我が妻と、言葉をかわすこともない)
  
たでてにも
投(な)げ越(こ)しつべき
天漢(あまのがわ)
隔(へだ)てればかも
あまたすべなき (一五二二)

(小石を投げても越せそうな天の川なのに、どうしても渡るすべがない)

 (天平元年(729年)七月七日ノ夜、憶良、天ノ河ヲ仰ギ観テ作メリ。一ニ 
  云ク(いはく)、師(そち)ノ家ノ作)

秋風(あきかぜ)の
 拭きにし日より
いつしかと
吾が待ち恋ひし
君そ来ませる (一五二三)

(秋風が吹き始めたころから、いついらっしゃるかと恋しく思っていたあなたが、今日こそいらっしゃるのです)

天漢(あまのがわ)
いと川浪(かわなみ)は
立たねども
伺候(さもら)ひ難し
近きこの瀬を (一五二四)

(それほど波立つことのない天の川なのに、なかなか漕ぎだせないでいます。この瀬はちかいのに)

袖振(そでふ)らば
見も交はしつべく
近けれども
渡るすべなし
秋にしあらねば (一五二五)

(袖を振ったら見交わせそうなほど近いのに、渡るすべがない あきではないので)

玉蜻(かぎろひ)の
髣髴(ほのか)に見えて
分かれなばもとなや恋ひて
逢(あ)ふ時までや (一五二六)

(少しお逢いしただけですぐにお別れすれば、無性に恋しく思うでしょう、次にお逢いするまでは)

(わずかに逢っただけでわかれてしまったら、やたらに恋しく思うことだろうか。また、逢う日まで)

(天平二年(730年)七月八日ノ夜ニ、師(そち)ノ家に集会(つど)フ)

牽牛(ひこぼし)の
妻迎え舟
漕ぎ出(ず)らし
天漢(あまのがわ)に
霧の立てるは (一五二七)

霞(かすみ)立つ
天の河原に
君待つと
い往(ゆ)き還(かへ)るに
裳(も)の裾(すそ)濡れぬ (一五二八)

天の河
浮津(うきつ)の浪音(なみおと)
騒くなり
吾(あ)が待つ君し
舟出(い)ずらしも (一五二九)



  


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