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揺らぎと美味しさ

焙煎は手廻しの焙煎機を好んで使っています。

美味しい珈琲とは何かと考える時、言葉で説明できるものとそうでないものがあると思っていて、言葉で説明できるということは、規定可能で、計算可能で、ともすれば実験によるデータ取りと再現性の仕事だと思います。
これは美味しさを極めるには当然のこととして必要なことだと思います。

一方で言葉で説明されない美味しさというのが確かに存在しています。
それは何かとは言えない、体験であり、感覚的なもの

科学的なアプローチで美味しいものをつくるとコントロール思考に陥りやすいように思います。
理論的には完全にコントロールができれば、思い通りのものが再現性の中で量産できるのかもしれない。
ただ、完全なコントロール下では思った以上のものができることはないわけで、想像を超えた結果なんかも得られない。感動的な美味しさというのは想像の外側にあると思うわけです。

言葉で説明できないものは確かに存在していると僕らは気が付いているはずなのに、それを不都合なものとして排除し、隠しているのが近代と言われる時代かもしれません。そして近代の科学という礎も人間の認識の限界を迎えているのが現在の状況と言っても良いかと思います。

僕のような未熟者はまずは科学の世界で美味しさを追求するべきだと思います。しかしその先の極みの世界にいくためには、どうすればよいのか。

そこに手仕事の世界があるように考えているのです。

手から伝わる揺らぎや振動、そこに感情や想いが乗るかもしれないと思うのです。

道具はあくまで手仕事を補助するためにあると、珈琲のレジェンドは語っています。道具やデータに操られた仕事の先には人の心と魂に触れるような仕事は決してできないのだということ。

もう少し哲学的な言い回しをしてみたいと思います。

哲学に生成変化という概念があります。生成変化というのは、人が何かに触れた時、相互に変化をすることで、人は触れた何かに影響され近づき、触れられた何かは触れられたことによって人に近づいていく。それにより互いに知覚できないものへの生成変化は発生するといいます。

人間が海で泳ぐときはプールで泳ぐのとはわけが違って、波により泳ぎに影響がでます。泳ぎ方は波に合わせた形へと変化する、つまり波に近づいてゆく。波の方は人間が泳ぐことでより波の形が人間のフォームに近づいていく。それぞれが異なる揺らぎを手に入れ、新しい存在になる。

珈琲を飲む人を考えると、そのコーヒーの味は飲んだ人を変化させる。飲む前の人は消え、新しいものに変わっていく。具体的に例えば、僕の珈琲を飲んだ後に他の珈琲を飲んだ時に今までとは違った印象を持つかもしれない。

一方で珈琲もまた、一口飲んだ時、二口飲んだ時、飲んだ人のコーヒーへのイメージと印象により味わいは変化をしてゆく。

美味しい珈琲を定義づけるとしたなら、飲んだ人への生成変化を起こすことであり、それが僕の表現に対する期待通りの結果を産むことなのかもしれないですね。

そして珈琲を表現していく僕自身も、僕自身の珈琲からの影響で生成変化をして知覚しえないものとなっていく、そして僕自身が美味しい珈琲(僕自身の珈琲)となるのだろうと思います。

なんかめっちゃ美味しくできたなみたいなことを繰り返しながら追いかける、そして形を変えてゆきたい。

甘えなのかもと思いながらも、そんな方法でゆっくりと追求していきたい。

道のりは長いですが、いそがずに
精進あるのみでございます。





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