見出し画像

文学的赤ちゃんプレイの快感~『破局』の地の文がすごい~

先日、芥川賞を受賞した二作のうちの一作『破局』を読みました。

とても面白かったです。その感想を書くのですが、どうしても内容に触れてしまう部分があります。しかし私はこの小説の魅力はそんなことでは損なわれないと思うので、読むかどうか迷っている方は読んでいただければ幸いです。

作者の遠野遥さんも受賞のコメントで話していましたが、感想をのぞいてみると主人公の陽介に対して「サイコパス」「共感できない」といった意見が多くあるそうです。私も一読して「哲学的ゾンビ(ここでは原義から離れて、一般人と変わらないように見えて実はからっぽな人、くらいで使っています)」のことを思いました。作中でゾンビに触れる一幕があるからかもしれません。

つまり私も含めた多くの人にとって、『破局』は没入するキャラクター小説としては読まれていない(純文学とはそういうものですが)ことがわかります。
しかし、矛盾するようですが私はこの小説が非常に魅力的であることと陽介の非共感性には大きく関係があるように思いました。

再読の際、何が陽介をサイコパスに見せているのか探りながら読み進めていきました。そこで思い至ったのが主に陽介の一人称で語られる地の文、つまり会話や語り以外での異常な説明癖です。そしてそこが一番の魅力だと私は感じました。

なのでここからは本文中の地の文を引用しながら感想を述べていきます。

①要らない×要らない=要る

麻衣子を抱き締め、長いキスをした。私は、ここへ来る途中トイレへ寄り、口の中をよくすすいだ。だから食べ物はもう残っていないだろう。

まずはこれです。3つの文からなるこの文章、ぱっと見で思ったのは、「これ2・3文目要らなくない?」ということです。

陽介は社会的ルールを順守する男ですからキスの前には口をすすぐでしょう。そのことを明示したいのであれば引用文より前に「私は途中でトイレへ寄り、口の中をよくすすいだ。」を挿入しておけば済む話です。というか無くたってよいでしょう。寧ろキスを印象付けるなら入れはしない一文です。

ところがどっこい、そこからさらに「だから食べ物はもう残っていないだろう。」ときた。この「だから」はすごい。英語の訳文か?
どう考えても3文目は確実に要らないように見えます。

キスの前に口内環境を気にするのはわかります。その最中に「大丈夫だろうか」と過ぎり、「いやさっき口すすいだし」と安心を得ることも。
ここで問題になるのが「我々はキスの前に口をすすいだことで、どうやって安心しているのか」ということです。
私の答えはこうです。

結論:私の口は臭わない(から安心する)
 ↑【なぜそう言えるか?】
理由①:食べ物が口内になければ臭う元がないから(胃が悪い場合を除く)
 ↑【なぜそう言えるか?】
理由②:さっき口をすすいだから

突然のなぜなぜ分析失礼します。
これが正しい道筋だとして皆さんは理由①まで考えるでしょうか?そのあたりは勝手に潜在意識あたりが処理してくれる、いわば思考の滓みたいなものじゃないでしょうか?

その思考の滓をこの小説では表層まで出してくる。小説は書かれていることも大事ですが、書かれないことにも、つまり不要と判断されることにも同じくらい大事なものが含まれています。普通なら切り捨てられるはずの3文目、そしてそこにつながる不要ともとれる2文目を入れたことで、陽介が理由①まで考えて行動するやべーやつだということがわかるのです。
この要らなさそうな文が重なったことですべてひっくり返って「必要」へと化ける様子――。これが私を惹きつけます。

作者としてはその意図があったかわかりませんが、このあたりの命令コードをすべて繋げないと行動・心情にアクセスできない(していない)あたりが「サイコパス(これはちょっと違って、『精巧な人型AI』とでも言うべきでしょう)」呼ばわりされる一因なのではないかと考えました。

さらに言えば、理由①に(胃が悪い場合を除く)とも書きました。口臭の原因は胃にもあるそうです。もし引用文が以下だったらいかがでしょう。

麻衣子を抱き締め、長いキスをした。私は、ここへ来る途中トイレへ寄り、口の中をよくすすいだ。だから食べ物はもう残っていないだろうし、私の胃にも悪いところはないはずだった。

なんかいけそうな気がしますね。これではどうでしょう。

麻衣子を抱き締め、長いキスをした。私の胃に悪いところはないはずだった。

これはさすがにおかしい。というのも我々の思う口臭原因の順位が
①口内環境
②胃の環境
となっており、「①と②両方に触れる」、「①のみ触れる」は許されても「②だけ触れる」は許されないからです。そして陽介は社会通念が欠けているわけでもないから当然①は欠かさない。
ここから胃について触れられなかったことへの3つの仮説が立ちます。

1.陽介(≒作者)は胃が原因で口臭が立つことを知らない(意識に上っていない)
2.意識にはあったが語るべきことでもないから語らなかった
3.小説的省略

国語の時間、ある子供が出題元の文章を書いた小説家の父親に「作者の気持ち」を聞いたら「『締め切りがつらい』」と言った、という笑い話からも分かる通り、小説に答えはなく、3.であることも十分あり得ます。というかその可能性のほうが高いです。
しかし私には1.が答えのような気がしてなりません。少なくとも2.ではないと思える。上のような理由から、もし胃のことが頭にあるなら、自分の命令コードにそれを書き加えるだろうと推測しているからです。

そして私は、そう思わせることこそ、この陽介というキャラクターの魅力だと思うのです。

②文学的赤ちゃんプレイ

灯の素足が目に入り、これを見るのは初めてだと気付いた。人は外に出るとき靴を履くから、今までは見る機会がなかったのだ。

んも~~~~こんなことしていいのでしょうか?最高の一文です。
「人は外に出るとき靴を履くから、今までは見る機会がなかったのだ。」
こんなこと言えるのは異星人(足とかそういうのはない、完全な球でできた情報統合思念体)くらいでしょう。「人は外に出るとき靴を履くから」……くぅ~。

真面目にやります。

まず言っておかなければならないこと、それはタイトルにもある「赤ちゃんプレイ」についてです。一口に言ってしまえば「片方が幼児に扮し、もう片方がその庇護者に扮して行われる性的交渉」という非常に高度な概念です。ちなみに身分の高い人・責任ある役職の人ほどハマりやすいらしいです。

「人は~」について、異星人でなくても地球上にこれを言う資格がある人類がいます。それはもちろん腹から出てきた異星人こと、赤ちゃんです。”靴”の概念を獲得したての赤ちゃんなら「おくつがないないだと、あしがはだかんぼさん」と言ったって(発話、語彙の問題はさておき)おかしくはないし、共感の嵐を生んでTwitterで2.6万RTされたって不思議ではないです。

しかしこれを読むのは我々、ある程度成熟した人類です。”外に出るとき靴を履く”という概念を獲得してから幾星霜、友情とか恋とか死とか、いろいろ獲得して今ここで『破局』を読んでいます。それに向かって「人は外に出るとき靴を履くから」とは只事ではない。

この小説には随所にそういう表現が見られます。

私はもともと、セックスをするのが好きだ。なぜなら、セックスをすると気持ちがいいからだ。
私は灯の彼氏だから、一緒になって滑ってあげられたらよかったのかもしれない。そのほうが灯は喜んだだろうか。しかし私は来年で大学を卒業するから、もう滑り台で遊ぶ年齢ではなかった。

読む人によっては「馬鹿にしてんのか」と怒ったり、けむに巻かれている、と思ったりしてもおかしくない説明過多です。ちなみに私はにやにや笑いながら読みました。芥川賞の選評を見てもそうやって笑っていた方が何人もいたようです。

いったいなぜ笑ってしまうんでしょうか。もちろんお笑いの第一法則にある(ない)ように「笑わせようとしない」姿勢(これは受賞インタビューでも語っていました)ととぼけた内容の乖離がおかしみを生んでいるという見方もできると思います。

しかし私は読んでいて「あやされている」という印象を受けました。

これが先ほどの赤ちゃんの件につながるのですが、小説というのは基本的には作者から与えられているものです。下賜といってもよいでしょう。そこには主従関係が生まれるため、読者は主人公のバディにはなり得ても対等な登場人物にはなれません。

そこにきて噛んで含めるような説明と平易な文章。まるで「ぶーぶやめて」とか「まんまおいちい?」とか言われている赤子のような気分になりませんか?
それにキャッキャと喜ぶ私たち――。文学的赤ちゃんプレイを好む我々は身分が高く、責任ある役職に就くべきかもしれません。

また、この引用文から共感性の欠如についても論を補強できます。

「なぜなら、セックスをすると気持ちがいいからだ。」
「しかし私は来年で大学を卒業するから」(これは今までの文でさんざん明示されています)
こんなこと、何度も言いますが本来書く必要がありません。これが書かれなければいけない理由はただ一つ、陽介の命令コードがそうなっているからです。

一人称視点の小説においてこの命令コードは重要なことを示します。というのも、ある行動から別の行動に移るとき、そこにはたいてい理由があります。その理由が明示されてようやく読者は「この行動には共感できるな」とかその逆を思ったりできるのです。

もしその理由が示されていなかったら?
そこは行動主体(≒作者)の信仰があります(これはTwitterで見かけてすごいなと思った表現なのですが、わかりやすくするなら「100%そうであるべきと信じている(事実はそうではない)偏見を持っている」くらい?)。
つまり、読者はそこで行動主体と決定的に食い違うのです。食い違うのですが、たいていの人はそこであまり引っかからず、次の行動へ目移りします。理由を示さないことで、多少障害があっても強引に共感させていくことが可能なのです。

しかし陽介はそれを徹底的に許しません。矢印以下は私の妄想です。

「なぜなら、セックスをすると気持ちがいいからだ。」

「は?一様には言えないんだが?」「〇〇のほうが気持ちいいんだが?」
「しかし私は来年で大学を卒業するから、もう滑り台で遊ぶ年齢ではなかった。」

「海外では10代で卒業した例もあるんだが?」「滑り台は万人が楽しめる遊具なんだが?」

突っかかろうと思えば突っかかれる理由がたくさん。一般的な小説の理由だって似たようなものじゃないかと思うかもしれませんが、この小説、作者のスタンスはどうあれ基本的にはボケています。ボケていたら突っ込みたくなるのが人情というもの。
そしてそういうとっかかりとしてのボケ、引っ掛かりがあまりにも多すぎる。多すぎることで「食い違う」ポイントがたくさん生まれてしまいます。

これもまた陽介から感じる「共感性の欠如」につながっていると思います。

③無限ループに陥った主人公

(自分がつい殴って昏倒させた男を目覚めさせようとしたにもかかわらず起き上がってこないというシーン※ここまで筆者注)
そんなはずはないだろうと私は思った。この男はこの逞しい体を作り上げるため、今日まで大変な努力をしてきたはずだ。食事にも気を使ってきただろう。トレーニングにはかなりの時間を費やしただろう。己を日々限界まで追い込んできただろう。

もう皆さんも笑えてきた頃合いだろうと思います。人を殺してしまったかもしれないのに「大変な努力」の内容をわざわざ3文にかけて想像するのはさすがに(陽介もトレーニング狂だということを差し引いても)「サイコパス」認定待ったなし。

Q.人を殴り昏倒させてしまった男が被害者の横で考え込んでいます。なぜ?

A.被害者の筋肉の様子から、死ぬはずがないと思ったため。

「意味が分かると怖い話」まとめでこんなのあった気がしませんか?こればかりはなにも言うことがありません。最高です。

ただ私はここであれっ、と思いました。今までの「不要」な文と少し毛色が違うと感じたのです。少し考えてその理由がわかりました。
それは陽介が今、頭をフル回転させて命令コードを書いている、ということです。

いままでの
・口をすすぐと食べ物が口内からなくなる
・靴を脱ぐと足が見える
・セックスをすると気持ちがいい
・私は来年で大学を卒業する
というのは陽介が知っていた、つまり過去から持ち合わせていた概念です。靴を~、は一見異なるように見えますが、「もともと知っていたことに気づく・発見する」ことは誰しもあることです。

例えば引用文の場合に照らすと「隠しているものをどかすと、隠されているものが見える」という事実を知っていながら、「靴を~」には思い至っていない(=知らない)、ということもあり得る、ということを言っています。

しかし今は違います。あの陽介がこれだけ焦っているとなると過去に人を昏倒させたことはない様子。そこでようやく新規に命令コードを書き始めて生まれたのがあの3文。

そんなはず(男が死ぬ)がない
↑【なぜそう言えるか?】
この男は逞しい体を持っているからだ
↓【どうやってか】
今日まで大変な努力をしてきたはずだ。
↓【なぜそう言えるか?】
この男は逞しい体を持っているからだ
↓【どうやってか】
今日まで大変な努力をしてきたはずだ。
↓【例えばどんなものか】
食事にも気を使ってきただろう。トレーニングにはかなりの時間を費やしただろう。己を日々限界まで追い込んできただろう。

ここまで平然としてきた陽介の様子がおかしいと分かる理由はこれです。
命令コードがてんでばらばらにとんでいる。今まで普遍の事実(らしきもの。一般論と言い換えてもよいです。例)セックスは気持ちがいい)に論理を立脚していた陽介が今度ばかりは「この男は逞しい体を持っている」という主観的個別事例に立脚し、あまつさえ無限ループにハマり、具体例を想像することで無理やりに抜け出すなんて荒業まで披露しています。

ただ、皮肉なことに、私が作中で一番人間味を感じたのがこのシーンでした(もう完全にサイコパス扱いしていますね)。

この小説は言ってしまえばタイトル通り破局する話なのですが、それを引き起こした原因は偏に陽介の命令系統の乱れにあります。そしてそれが決定的に露出したのが引用の場面です。

ただ、その乱れこそが人間味というもので、誤解を恐れず言えば陽介が「哲学的ゾンビでない」と判断する理由はこの乱れにあるともいえます。
しかし、この小説が傑作たりえている理由は「サイコパスが急に見せる人間味のチラリズム」にあるとも判定できます。

最悪の章結びになりますが、やはりこればかりは読んで各自の感想をもってもらうしかないと思います。単行本を買って読もう!サムネの画像風の表紙が目印だよ!

最後に~足つぼマット的小説~

まさか6000字にもなるとは思いませんでした。これを読むなら『破局』本編を読み進めてもらったほうが良いに決まっていますが、こういう読み方をした人もいるよ、すごい小説だよ、ということでご寛恕いただければと思います。

最後にもう一つだけ、好きなところを挙げます。

小説に限らず、文章というのは基本的に平易でかつ言葉が少ないほうが読みやすいとされています。文章の継ぎ目は木目の床のようにごつごつしていて、その段差が少ないほど読みやすく”名文”、多いほど”悪文”と呼ばれやすいものです。

この小説はその継ぎ目が異様に多く、ともすると読みにくいかもしれません。しかし一文一文を見てみると(漱石を参考にしたという作者の言葉通り)簡潔に書かれています。あまりにもしつこい理由付けが生み出す数々の文章の継ぎ目が生み出すごつごつ、それが小説的作用によって足つぼマットのような快感に変換されているのです。これは私にとって衝撃的でした。

さて、これまで私が書いた中にも「信仰」の発動があると思いますし、大きくハズしている部分もあるかと思いますがそのあたりは優しく教えていただいたり、胸に仕舞っておいたりしていただければ幸いです。

それでは私は遠野遥さんのエッセイが載っているという『文學会9月号』を買いに行くのでこのあたりで失礼します。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?