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展覧会レポート フランク・ロイド・ライト 世界を結ぶ建築 豊田市美術館【マイベスト展覧会2023】

ちいさな美術館の学芸員さんのマイベスト展覧会2023企画に参加させて頂くことにしました!素敵な機会を与えていただきありがとうございます。

1番を選ぶのが難しすぎたので、新しい分野に足を踏み入れたなーと思う、建築家フランクロイドライト世界を結ぶ建築を紹介します。

私にとってフランクロイドライトは、グッゲンハイム美術館の設計者としての認識。
緩やかな螺旋状スロープの壁沿いに作品が展示されていて、傾斜のある中での展示って、美術館としてちょっとどうなの?という印象。

施工にGOサインを出したニューヨーカーの粋なところ、好きだなーと思う。

グッゲンハイム美術館 ニューヨーク

ライトの建築作品はアメリカ国内以外は日本しかないというのは知っていたけれど、展覧会のサブテーマは「世界を結ぶ建築」。なぜ「世界を結ぶ建築」なのか心に置きながら展覧会を回り、担当学芸員の千葉さんによるギャラリートークにも参加してみた。

ライトと日本、そしてオーストラリアへのつながり

ライトはアメリカのウィスコンシンの田舎町で生まれ育つ。1887年建築家を志して大都会シカゴへ。アドラー&サリヴァン建築事務所に勤めている1893年に開催されたシカゴ万博の準備建設にも携わる。万博内の日本館には浮世絵が展示されていた。

シカゴ万博 日本館鳳凰殿 1893年

シカゴ万博で日本に触れたと思われるライトは、生涯7回も訪日。浮世絵のディーラーをするくらい浮世絵に熱を上げていたようだ。ライトが提案した平等院鳳凰堂のように水平にのびる深い軒のラインと、屋根を低く抑え、内側と外側がつながっていくような作りは「プレイリースタイル」と呼ばれていて、日本建築からの影響を感じさせる。

プレイリースタイル ロビー邸 シカゴ 1906年

ちなみに・・・ライトが独立前に勤めていたアドラー&サリヴァン事務所のサリヴァン氏は、建物の中に装飾を足し加えるのではなく、有機的な装飾が建物の一部となる設計を施すなど、新しいことに挑戦する人だった。

サリヴァン氏が高層建物案件を手がけるようになり、一般住宅はライトに任されること多くなったことが、その後のライトの建築作品に個人住宅が多いことに影響しているかもとのこと。

1893年イリノイ州で独立。初の従業員マリオン・マホニーは、女性初、建築士資格を取得。MITを卒業した才媛。ライトの下で1895年から15年ほど働く。プレイリーハウスや、ユニティ・テンプルのパース(立体的な完成図)や、のちに発行された「フランクロイドライトの建築設計」の原画の半数以上は彼女のものだ。
1911年に結婚し1914年には、オーストラリアのキャンベラ都市計画のコンペで優勝。オーストラリアへ移住し、夫が亡くなってからアメリカに帰国している。インドとオーストラリアで、ライトが確立したプレイリースタイルを広めた。

マリオン・マホニー・グリフィン

ここに「世界を結ぶ」という展覧会テーマのポイントのひとつがあるように思う。

2019年に世界文化遺産に登録された「フランクロイドライトの20世紀建築群」の登録理由の説明文を読んでみる。

この建築家の作品が、彼の国アメリカだけでなく、より重要なこととして、20世紀の建築や、ヨーロッパの建築におけるモダン・ムーブメントの巨匠たちに与えた影響に焦点を当てている。

(中略)

ライトの影響は、ラテンアメリカ、オーストラリア、日本の建築家の作品にも顕著に見られる。

UNESCO World Heritage Convention  Decision 43 COM 8B.38
The 20th-Century Architecture of Frank Lloyd Wright (United States of America)  

オーストラリアは、マリオン・マホニーによるものでは。つまり、ライトにつながる種が世界に浮遊し花が咲いたってことかもしれない。

ライトの恋愛遍歴と教育思想

1889年に結婚したライト。妻のキャサリンはイリノイ州自邸のプレイルームを拡張し幼稚園クラスを開校していた。

その後、お客さんだった施主の妻であるメイマーと、家族そっちのけで1909年からおおよそ2年間もの間不倫旅行をする。

イタリアにも長く滞在し、その後ウェスコンシンにメイマーとの新居タリアセンと呼ぶ自宅兼スタジオを建築し移住。「タリアセン」はウェールズ語で「輝ける眉」。眉はなだらかな額の上にあるもの。自然の中の一部のような建物の様子を例えて名付けられたとか。

タリアセン イースト ウェスコンシン

この「自然との融合」は、ライトの生涯にわたって続く作品のテーマとなっている。有名な落水荘(カウフマン邸)も、滝の流れや自然に見事に馴染んでいる。

落水荘 カウフマン邸 ピッツバーグ

さて、不倫相手であるメイマーはミシガン大学出身のフェミニストで、スウェーデンの教育学者でフェミニストのエレン・ケイとも親交があった。

タリアセンでメイマーが衝撃的な死を迎えた後の1914年12月8日、ライトはエレン・ケイに傷心の手紙を送っている。

このエレン・ケイといえば、著書「児童の世紀」が有名。

自然を自然のあるがままに任せ,自然本来の仕事を助けるために周囲の状態に気を配る。それが本当の教育というものだ

エレン・ケイ 「児童の世紀」

周りの大人は余計なことはせず見守る。子ども自身が育つ力を信じろ!ってことなんだろうな。放置するのではなく、失敗させないように先回りして心身ともに過剰に環境を整えるのではなく、とにかく自然にあるがままに。

これって子どもの権利条約にもつながる考えかも。児童の世紀が発刊された123年前から子どもたちは教育的に抑圧された環境にあったのかなと思うとなんともいえない気持ちになる。

ここまで来ると、ライトの恋愛遍歴から、教育に関して興味があることは想像に難くない。

そんなライト、1932年にタリアセン・フェローシップ(建築学校)を設立

農作業など自給自足の生活をしながら建築を学ぶ全人教育の場を作った。
これも当時アメリカを席巻した進歩主義教育というものに端を発する。

進歩主義教育というのは、大事なのは教科書や教師じゃなくて、生活に近いものから実践や体験を通して学ぶという考え。

元々、ライトの叔母が広い邸宅にホームスクールを作っており、その建築にもライトは関わっている。
自身も、世界初の幼稚園を創立したことで有名なドイツのフレーベルが生み出した恩物と呼ばれる教具(いわゆる知育玩具)に小さい頃から慣れ親しんでいた。

フレーベルの恩物 Froebel gifts

子どもにとって「遊び」はまさに生業。遊びを通して実践しながら学ぶことを幼少期から当たり前のように経験している。その経験が後のライト自身と、彼の教育観の礎になっているのだろう。

やりたい放題、予算超過の二代目帝国ホテル

着工後もしょっちゅう変更を加えていて(オープンプランというらしい)、細部にもこだわり、予算が大幅超過。結局ライトは完成前に解雇されてしまう。その後引き継いだ愛弟子の遠藤新らが何とかかんとか完成させた。

二代目帝国ホテル 外観

変更が重なったことで、実際に建てられたホテルの正確な図面が残っていなかった二代目帝国ホテル。1967年の解体直前に早稲田大学教授の明石氏が1年かけて実測し書き上げた図面と写真は実証的研究として、日本建築学賞も受賞している。

帝国ホテルと同時期に計画されたミッドウェイ・ガーデンズは、総合エンターテイメント施設というコンセプトにおいて、帝国ホテルと同じだったこともあり、横並びで展示されていた透視図のドローウィングを見ても、とても似ている。

ミッドウェイ・ガーデンズ 
1913〜1914年

帝国ホテルの本オープン1923年9月1日に、なんと関東大震災が起こった。各地で火事や建物崩落が見られる中、コンクリート石造りで地震に強い独自の建築方式と、主に電気を使用している(調理場も!)ことで大きな破損は免れ、火事もなし。このことで帝国ホテルの評判は鰻のぼりとなった。

作品からみるライトの建築哲学

一般家庭でも比較的手にしやすい、安価でデザイン性の高い住宅(ユーソニアン住宅)を提案。寸法を統一させ、手順を単純化、合理的な建築方式で、増築も簡単にできる。

展覧会では、原寸大のユーソニアン住宅が展示。この展示は、あのタリアセン・フェローシップで建築を学んだ経験がある磯矢さんが設置に携わっている。

原寸大 ユーソニアン住宅

天井が低いので、なんとなく窮屈に感じられそうだが、compression and release ともいうべき、天井が低く狭いところから広いスペースに出ると、より開放感が得られる効果を元に、限られたスペースで過ごしやすくするための工夫が取り入れられているようだ。

また、住宅にはライトなりの哲学があると言う。

本質(ENTITY)としての完一性が第一に重要なことなのだ。そして、この完一性という意味は、そのどの部分も調和のとれた全体の一部分であるという以外に、その一部分自体としてはなんら重要な価値を持たないという意味なのである」

フランク・ロイド・ライト「ライトの住宅 自然・人間・建築」1967年

そこに住む人の生活と考え方、価値観自体も建築の一部というようなことなのだろうか。
帝国ホテルでは、食器に至るまでプロデュースしていた。それも全体を見通した哲学からなのだろうか。

グッゲンハイム美術館の展示での説明でも、緩やかにぐるぐると展示を見ながら下ってきた人がそのままスムーズに街へ出る。内と外とが緩やかにつながっていくこともコンセプトとなっていると聞いた。

快適さと機能を追求をしたラーキン・ビル、近未来のようなのに、自然の樹のような支柱を持つジョンソン・ワックスビル。

ジョンソン・ワックスビル かっこいい!
パラレルワールドみたい

ギャラリートークで千葉さんが時折話された「つくづくライトは、哲学者なのだなと感じます」という言葉がが印象的だった。

世界を結ぶ建築

オランダの近代デザイン運動の流れを汲む建築雑誌「ウェンディンゲン」に7号連続で特集され、ライトや師匠のサリヴァン氏とその仲間たちも寄稿しており、1921年にそれらをまとめた「フランクロイドライト」も発刊された。

オランダでは早くからフランクロイドライトの魅力が広まり知ってる人が増えていっていったのかなと。

また、1931年にはプリンストン大学の授業の一環としてのライトの展覧会がアメリカ国内での巡回の後、ヨーロッパ(アムステルダム、ベルリン、シュトゥットガルト、フランクフルト、ブリュッセル、アントワープ) を巡回している。

1939年には、親交のあった北欧デザイン界の巨匠アルヴァ・アアルト夫妻をタリアセンに招き親交を深めている。アルヴァ・アアルトが帰国後にライトへ送った手紙には、タリアセン・フェローシップに息子を送り込みたいという内容だった。

私の中でアアルトといえばイッタラのフラワーベース。1936年から90年も愛され続けている。建物(建築)は永遠に残らないけれど、デザインは残り得るものだと改めて感じる。

帝国ホテル案件は最終的には解雇されたけれど、ライトのスピリットと教えを引き継いだ遠藤新らが完成させているわけで、遠藤新はその後も帝国ホテルの取締役の林愛作と共に甲子園ホテルも建築。その図面をライトに送ったところ「完璧な仕事だ!」と言わしめた。

ライトの助手アントニン・レーモンドも帝国ホテルの建築に携わるために来日したが、完成後も日本に留まり、ICU図書館や、名古屋市の南山大学の建築にも携わっている。

ライトの魅力と建築に魅せられ、学びたいと思う人がどれだけ多かったのか。頓挫する計画も多くあったようだが、彼の哲学から生み出される建築が、人を繋ぎ、世界を結ぶ。そういうことなんだろうなと。

ライトはアート、建築、自然を緩やかに結んだ哲学者。そして彼が生きた時代は、ドイツのバウハウスが設立された時代と重なる。絵画・彫刻・建築の総合的な芸術学校について、ライトはどんなふうにとらえていたのかな、と想像するのも楽しい。

12月24日(日)までは豊田市美術館で。2024年1月11日(木)~はパナソニック汐留美術館に巡回する。

noteへ投稿するようになったこの一年。なんとなく好きだった美術への関心は、書くために調べる時間を持つようになってから、より深くなった。

自分ってこんなに表現力ないんか!と日々無力さを痛感するが、行ったという記憶だけで、すぐに忘れてしまうこの記憶力をサポートするためにも、チマチマと書き置くことが1番だなと思う日々。

来年は図録を買うかー。想いも新たに、楽しい一年となるといいなと思うのでした。
良いお年をお迎えください!

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