転職、独立、そして離婚

<6:00AM>

ラッパ音:「パッパラッパパッパラッパパッパラッパパッパパーン、パッパラッパパッパラッパパッパラッパパッパパーーン!!!」

当直:「第一教育隊起床、窓を開放、点呼は舎前(しゃぜん)、服装上半身裸体、タオル傾向」

教官:「オラァァァァァァ!!!点呼やぞぉぉぉぉぉぉ!!!起きろぉぉぉぉぉぉ!!!」※竹刀を持っている

朝のラッパと教官の怒鳴り声を全身に受け、2段ベッドが5台敷き詰められた10人部屋から僕の1日は始まる。朝立ちなんて感じている暇はない。


まだオナニーの仕方を覚えたくらいの16歳の春、僕は全国唯一の自衛隊の高校である少年工科学校(現高等工科学校)へ入学(入隊)をした。

「俺は普通の高校には行かねー!」などと豪語していた反抗期真っ盛りで負けず嫌いな僕が父から「お前、こんな学校があるぞ、お前に合っとると思うぞ、受けてみぃ!」と勧められた学校、それがこの自衛隊の学校だった。

「なんかカッコいーやんけ、俺そこ行くわ!」こうして僕の志望校が決まり、無事合格をつかみ取った。

高校といえど立場は「国家公務員」毎月しっかり給料を貰いながら高校卒業資格も取れるという高待遇。(その後、父の車がクラウンアスリートに変わっていたことは内緒)

希望とワクワクと少しの緊張を胸に始まった全寮制の生活は想像をはるかに絶する厳しいものだった。腕立て伏せを2-3時間ぶっ続けでやると腕が変な動きをすることが分かったのもこの時だった。365日辞めたいと思った。

でも何とか辞めずに続けられたのは280人という全国から集まった「同期」の存在だった。

3年間全寮制&男子高&携帯所持禁止という女性との接点ゼロベースの我々は時にAVを共有し、お互いの性癖を語り合った。時に敷地内の公衆電話に並び、03から始まる番号を押している者もいた。


そんな新生活から5年が経ち、僕は自衛隊を続けながら結婚をした。


僕:「今日の晩御飯はハンバーグ作るね!」

妻:「やったー!うんと大きいのでお願いね!」

21歳という年で妻と結婚し、その年に長女を授かった。僕の妻は細身だったがハンバーグが大好きで、いつも特大のものを作ってあげると僕の2倍以上ご飯を食べた。妻が幸せそうに食べる姿を見るのがとても好きだった。

厳しい全寮生活から一転、大好きな女性、家族と共に過ごす「普通」の生活に僕は幸せを噛みしめていた。

毎朝の起床がラッパの音ではなく大好きは妻の声で始まる生活。

「お帰り!」と言ってくれる人がいる生活。

作ったご飯を美味しそうに食べてくれる人がいる生活。

当時の僕にとって「普通」の生活が最高の贅沢だった。

その2年後には長男も生まれ4人家族となり、とても賑やかで笑顔の絶えない家庭だった、と今は思う。


そんな頃、一つだけ不満なことがあった。それは、

『収入』

当時の僕の手取りは20万円ちょっと。家族4人での生活は決して楽なものではなかった。年に2度のボーナスで何とか生計を立てていた。

妻は「一緒にいられれば今のままで十分幸せ、お金なんかじゃないよ。」と言ってくれてはいたが、僕は満足できなかった。妻に無理をさせている自分が情けないとも思った。同時に「もっと稼ぎたい」という気持ちはどんどん大きくなっていった。

そんなある夜、子供を寝かしつけ1人ビール(金麦)を飲みながら僕はPC画面にかじりついていた。

『起業セミナー』そんなようなタイトルだったと思う。当時の僕の目には「起業」という言葉がとても輝いて写っていた。憧れの言葉でもあり「いつか起業してみたい」そんな想いがあった。

この時、自衛隊歴9年目の年だった。

開催場所は東京。当時の僕は栃木。僕は迷わず参加ボタンを押し一人でワクワクしながら残った金麦を一気に胃に流し込んだ。


僕:「ねぇ自衛隊辞めて単身赴任で東京行くとか言ったらどうする?」

妻:「何言ってんの?ありえないわーw」

僕:「そうだよね、、ハハハ」

『起業セミナー』参加をきっかけに少しづつ東京での知り合いもでき、月に何度か東京に行くようになったころ、僕はたまにこんな発言を妻にするようになった。

当時の生活は、朝7時過ぎにに家を出て毎日だいたい18時には帰ってくる(土日祝は休み)生活。妻の回答も予想はできていた。

日々変わらない平凡な生活とは裏腹に東京へ行く度に僕の「転職」への想いはどんどん大きくなっていった。


つづく、、






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