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少年マンガのヒーローと比ぶれば

モテ期と言うものは存在する、と私は思う。私たちの住む世界では、世代毎にモテるヤツの傾向が異なる。男の場合、幼稚園の頃は優しい男の子がモテる。小学生になると、面白い子やスポーツマンがモテる。中学生や高校生になるとカッコいい男がモテる。そして徐々に頭のいい男がモテるようになるが、大人になると、金持ちであることが、モテるための必要条件になってくる。歳を重ねる毎に、男を好きになる女の動機は不純になっていく。1番純粋で、まっすぐに人そのものを見て判断できるのは幼稚園以下の小さな子どもということになる。大人になっていくということは、ある意味、純粋さというものにどんどん煤がかかって、大切なことを見失ってしまいがちになることを言うのかもしれない。

空気を読むことや、忖度することを覚え、もともと持っている自分の中の純粋な気持ちや、親に教えてもらった道徳心というものが、自分の目ですら見えなくなってしまう。"正論"や"ロジック"という魔物を前にして、直感を失い、ただ平伏すだけの若者を見ると悲しい気持ちになる。あの頃の、幼かった頃の純粋さを取り戻すためには、一旦、フィルターがかかりまくった大人の視点を捨てる必要があろう。

例えば、自分の不遇を嘆いたり、誰かに嫉妬をするのは、自分のすぐ近くの人間と比較をしているからこそ起こってしまうネガティブな感情と言ってよい。慢心したり、誰かに対しマウントをとろうとするのも同様だ。何かと人は、自分の身近にいる人と比較をしてしまう生きもので、それゆえにその比較対象の"上"をいったり"下"をいったりで一喜一憂してしまう小さな生き物である。
比較することを止めろと云っても無理な話なので、その対象を、少年漫画のヒーローにしてしまうのが、健全な生き方と思い、私は高校の頃より実践している。あのヒーローたちと比べて、自分はどうなの?と問い続け、いつも打ちひしがれて、あぁ、なんて自分は賤しく小さな人間なんだろう、と思い続けて40年が経つ。多分、きっと、死ぬまでそういう、ある意味劣等感をかかえて生きていくんだろうな、と思う。でも、傲慢な独りよがりな大人になるよりは遥かに良いと思うのだ。

北斗の拳であれば、南斗六星の義星"シュウ"が好きだった。鬼滅の刃であれば、煉獄杏寿郎だ。とにかく、己を捨てて、利他のために命を投げ出すキャラクターのかっこよさに憧れ続けた。自分が死ぬ時も、そうありたいものだと思う。無駄に長生きするくらいなら、誰か大切な人のために死にたいと思うし、尊厳ある死とはそういうものだと本気で思う。


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