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まっちゃんのみかた

自分の子が取り返しのつかない大きな罪を犯したとしよう。例えば殺人ともなれば、マスコミが自分の家にも押し寄せる。その時、自分ならどういう態度でマスコミと対峙するだろうか。想像する。その自分の子が未成年であった場合は別として、自分がとる態度は一つしかない。取材拒否。

ローカルとは言えマスコミと何十年も仕事をしてきて、媒体社の多くが、肝心なところで大人の事情によって情報を捻じ曲げるその現場を見てきた。広告会社は広告主を守るという正義のために、真実とは異なるビジネスの理論を報道に押し付けようとする。昔の媒体社には「営業と報道(制作も)は互いに不可侵」のルールを守ろうとする気概があった。が特にこの15年くらいだろうか、テレビがもはや儲かるビジネスモデルではなくなり、金のためならなりふりかまわなくなり、制作と営業ががっちりと手を組み、報道も営業への配慮をあからさまにするようになった。チョムスキーが2003年に上梓した「メディアコントロール」の中で伝えようとした「偏向報道が起こるメカニズム」の正しさを身をもって理解した。

程度の差こそあれ、マスコミはどの会社も「真実を伝えること」に執着していない。もちろん、「真実の報道」を志し使命感に燃えるジャーナリズムなどとうに絶滅している、とまでは思わないが、瀕死であることは間違いない。組織が大きくなればなるほど真実からは遠ざかる。真実とは別の力学が働く。その力の正体について、ここで自分の意見を述べるのは差し控えるが、特にこの数年の間に、その別の力なるものが、悪意をむき出しにしたわかりやすい偏向で、世論をコントロールしようとしている。何故かはわからないが、間違いなく、まっちゃんはその犠牲者。

さて、冒頭の話に戻る。「自分の子どもが殺人を犯したら」という問いに対して、私なら自信を持って答える。「世界中が敵になったとしても、最後の最後まで自分は子どもの味方でいる」それは「正しいとか正しくない」という問題ではない。現代はいつのまにか「正しい方の味方であるべき」を強制する社会になった。世界中がこのポリコレ圧力に支配されている。が、善悪を見極められるほど人間はそんな偉くない。真善美についてそもそも考える頭を持ち合わせない殆どの現代日本人が、正しい判断などできるはずがない。せいぜい、論破できるかできないか、理路整然として平仄が合っているかどうか、というレベルでしか正しさを判断できないのだから。
まっちゃんの議論を傍観してて、その「正しいかどうか」にみんなは振り回され過ぎていると思うのだ。そしてひとしきり議論に参加して、その翌日には自分がとった立場すら忘れ、そして事件のことすら忘れ、いつのまにかまっちゃんごと忘却の彼方に捨て置かれる。これこそがキャンセルカルチャーの正体。

私は高校時代からダウンタウンが大好きで、映像を通してしかまっちゃんのことは知らないのだけど、もう40年近くもずっとまっちゃんを見てきたからわかっている。文春報道が真実かどうかなど、私にとってはどうでもいいのだ。まっちゃんに心酔し続けて何が悪い。これからだって変わらない。もう私の価値観やものの考え方のベースにまっちゃんが成分多めに含有されている以上、これはしょうがないのだ。事実はわからないが、まっちゃんのことは勝手にわかっている。誰がなんと言おうと私は、どこまでも、まっちゃんの味方です。


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