見出し画像

【太宰治】『人間失格』を執筆した町、大宮

画像1

 1948年(昭和23年)4月29日から5月12日までの約2週間、太宰治は『人間失格』第三の手記 二」「あとがきを執筆するために大宮へ滞在します。
 山崎富栄は、太宰との暮らしを綴った手記の中に、

四月二十九日、古田さんと、神田駅で待ち合わせて、ここ大宮市の一隅に修治さんと生活する。人間失格の第三の手記を執筆なさるためのカンズメ。

と記しています。

画像17

 『斜陽』がヒットし、流行作家となった太宰の元には、ファンやマスコミなどの来客も多く、三鷹にいては執筆に集中できないという理由から、大宮での執筆を決意します。『人間失格』を出版した筑摩書房の社長・古田晁は、作家が小説を執筆するために最適な環境を提供することが得意で、太宰の大宮滞在も古田晁の手引きによるものでした。

画像13
 今回は、太宰が住んだ大宮(管理人:玉手洋一さん)主催で10月19日に開催された「太宰が住んだ大宮探索ツアー 2019 秋」の参加ルポを通じて、太宰治が『人間失格』を執筆した街・大宮を紹介していきたいと思います。
 小栗旬さん主演の映画『人間失格』公開の影響もあり、申込者が殺到した中で、参加枠をご用意頂き、「ぜひお会いしたい」と言って下さった玉手さん、本当にありがとうございました。

『人間失格』執筆当時の太宰治

 『人間失格』執筆当時の太宰について、少し見ていきたいと思います。
 1948年(昭和23年)、太宰治は『人間失格』の執筆に取り掛かっていました。前年の12月15日付で『斜陽』を刊行。初版1万部、再版5千部、3版5千部、4版1万部…と、ついにベストセラー作家になった、そんな状況でした。
 同年3月7日、筑摩書房の社長・古田晁の計らいで、東京12時40分発の電車に乗り、「太宰さん。私。古田さん。セレエヌのマダム。石井さんの五人。」(山崎富栄のノートより)で熱海の起雲閣に向います。(画像は熱海市役所HPより)
 「私」は、太宰の愛人・山崎富栄、「石井さん」は、筑摩書房編集部員の石井立、「セレエヌのマダム」は古田晁の知人で、太宰や富栄とも顔馴染みの間柄でした。

画像2

 起雲閣は、1919年(大正8年)に桜井兵五郎別荘として築かれ「熱海の三大別荘」と賞賛された名邸を、1947年(昭和22年)に旅館として建て替えたもので、山本有三、志賀直哉、谷崎潤一郎、舟橋聖一、武田泰淳など、日本を代表する文豪たちも訪れています。
 太宰は、奥さんの津島美知子に宛てた3月10日付のハガキに、

ここは山のテッペンでカンヅメには好適のようです。留守お大事に、急用あったらチクマへ。

と起雲閣での様子を記しています。
 ここ起雲閣では、途中に2日間の帰京を挟みながら、3月28日までの約20日間で『人間失格』の第二の手記までを脱稿します。
 3月31日に三鷹へ戻り、4月28日までに、下連雀の仕事場で『人間失格』第三の手記 一までを脱稿します。この頃の太宰の様子を津島美知子は、「自宅近くの内科医に寄って、ザルブロの注射を打ってから、仕事部屋へ出かけるのがきまりで、その外常用するビタミン剤などの注射は夥しい数に上り、常人の何倍かの量を用いてい」たと記しています。
 結核も悪化して肺に水が溜まって痛む胸を抱え、不眠症でも悩んでいた太宰でしたが、三鷹に戻って来た途端、訪問客で賑わい、思うように執筆が進まなくなってしまいました。こんな太宰の姿を見た古田は、太宰に新たな執筆場所を提供します。それが、大宮です。
 長野県東筑摩郡筑摩地村(現・塩尻市)出身の古田は、戦時中、妻子を故郷に疎開させ、自身は大宮の宇治病院に身を寄せていました。宇治病院は、古田の奥さん・と志の姉の嫁ぎ先でした。
 そして、大宮駅の近くの天ぷら屋「やなぎ小路 天清」に通ううち、主人の小野沢清澄が同郷の信州人という事が分かって親しくなり、小野沢の人柄を見込んだ古田は、彼の自宅に太宰を託します。小野沢は「天清」の2階に住んでいたため、自宅は空いている状態でした。また、結核治療を行う事ができる宇治病院が近くにあるという点でも、この地は最適でした。
 古田は、「すごい作家なので、栄養のつくものを食べさせてほしい」と頼んだそうです。
 それでは、ツアー当日に頂いた玉手洋一さん作成の「『太宰が住んだ大宮』探索地図」(ブログの構成に合わせ、⑩を修正しました)を片手に、大宮・太宰ゆかりの地を巡っていきましょう。

探索MAP20190811_page-0001 (1)
①やなぎ小路 天清

 太宰が大宮で身を寄せる事になった場所を提供した小野沢清澄が主人を務める、天ぷら屋「天清」の跡地です。
 店名は天ぷらの「天」と、お名前・清澄の「清」から来ているそうです。当時は、現在の「すずらん通り」沿いにあったそうですが、1960年(昭和35年)大宮東口商店街を襲った大火災で焼失。現在の高島屋 大宮店の一角、その後、南銀座通り近く(②日活館の向かい)に移転(中華料理人だった御子息様が跡を継ぎ、「中華料理 天清」に名前を変えました)しながら営業していましたが、残念ながら、現在は閉店しています。

画像4

 現在では、高島屋 大宮店が建っており、’’突き当り’’になっていますが、昔、この場所には紀州徳川家の屋敷があり、それが大宮郵便局に代わり、今に至るそうです。

画像5

 当時、結核といえば、”不治の病”
 食べ物を扱うお店と同じ建物に”結核患者”を住まわせる訳にもいきません。小野沢さんは、駅から少し離れた静かな住宅地の民家(小野沢氏自宅2階。八畳と三畳の二間。)を太宰に提供します。
 また、玉手さんは、小野沢さんが太宰を受け入れた理由の1つに、小野沢さんと青森に縁があったからでは?と指摘しています。小野沢さんは、若い時に青森の洋食屋で修行していた時代があり、「金木の殿様」を知っていたか、もしくは当時を懐かしむ気持ちも影響していたかもしれません。
 小野沢さんは、魚好きの太宰のために、隔日で遠い築地まで仕入れに出掛け、刺身、天ぷら、煮魚、焼魚と、思慮を凝らした料理を提供してくれたようです。

②日活館

 大宮駅前にある飲み屋街「南銀座通り」に位置していた、映画館です。

画像6

 現在は、ステージクラブ「トレビアン」となっています。

画像7

 これが、当時の日活館の外観です。
 太宰と、山崎富栄、小野沢さんの姪で、太宰の食事の世話をしていた藤縄信子の3人でよく訪れており、観に来ていたのは邦画だったそうです。太宰も富栄も近眼だったため、決まって一番前の席に座っていたといいます。
 当時の様子を藤縄さんは「映画館に行くとね、太宰さんと山崎さんは、決まって一番前に座るのよ。私は、スクリーンが目の前だし、見上げるようで、めまいがしそうだったわ。映画のストーリーどころじゃなかったわ。」と話していたそうです。
 太宰・富栄・藤縄さんの3人が当時観た邦画は何だったのか。玉手さんの調査によると、太宰が大宮に滞在していた際に日活館で上映されていた邦画は、以下の3本。

●『秘密』:悲しいラヴストーリー
 監督:瑞穂春海
 出演:原保美、小暮実千代、井川邦子、神田隆
●『弥次喜多凸凹道中』:東海道五十三次がベースのコメディ
 監督:原研吉
 出演:清水金一、大坂志郎、並木路子、山路ふみ子
●『偉大なるX』:社会派サスペンス
 監督:大庭秀雄
 出演:宇佐美淳、津島恵子、清水一郎、杉村春子

 玉手さんは、藤縄信子さんにインタビューを行った際、「この中に当時観た映画はありますか?」と尋ねたところ、「だって、楽しい映画が観たいって言うんだもの」と、『弥次喜多凸凹道中』だと答えたそうです。
 太宰の絶筆『グッド・バイ』の「行進(二)」に書かれた

「そりゃ、女性ですもの。たまには、着飾って映画も見たいわ。」
「きょうは、映画か?」
「そう。もう見て来たの。あれ、何ていったかしら、アシクリゲ、……」
「膝栗毛だろう。ひとりでかい?」
「あら、いやだ。男なんて、おかしくって。」

のやり取りを書いた際、太宰は大宮で観た『弥次喜多凸凹道中』を思い出していた可能性もある、と玉手さんは指摘しています。
 その後、日活館は「大宮松竹ロキシー」「大宮シネマリゾート」と名前を変えながら、2005年(平成17年)まで営業していたそうですが、現在では映画館としての役目を終えています。
 ちなみに、この日活館は『男はつらいよ』の寅さんで有名な俳優・渥美清が初舞台を踏んだ場所でもあります。旅芸人の父を持つ友人に誘われて、幕引きのバイトをしていた渥美は、セリフもない通行人役として初舞台を踏みました。1946年(昭和21年)、太宰が大宮に滞在する2年前のことです。

③務台医院

 太宰が古田晃、山崎富栄と大宮に到着した際、小野沢宅へ歩いていくのも辛い状態だったため、駅近くの務台病院(むたいびょういん)でブドウ糖やビタミン剤などの点滴を打ちました。

画像8

 現在は、美容室「MORIO FROM LONDON 大宮店」になっています。
 院長の務台実は、「ブドウ糖とビタミン剤を注射したが、かなり疲れていたらしく、奥の茶の間でしばらく横になっていた。大島の服を着ていたが、口数が少なく寂しい人だった」と話しています。
 三鷹~大宮は、電車に乗って約1時間。この程度の電車移動が堪えてしまう程、太宰の病状が進行していた事を伝えるエピソードでもあります。

④逸見製油

画像9

 名前を変え「大宮製油」となっています。ここは、戦前から営業する菜種油・胡麻油の老舗です。現在は、商業ビルと立体駐車場になっていますが、かつては大きな製油工場が軒を並べており、この工場からモクモクと立ち昇る煙は、大宮駅からも見えたため、大宮のランドマークとなっていたそうです。
 1948年(昭和23年)当時は、物資が不足していたため、胡麻油と菜種油をブレンドして販売していたそうです。現在「大宮製油」では、当時のブレンドを再現した油を販売しており、玉手さんは「太宰ブレンド」と呼んでいるのだとか。
 「天清」で作った料理を、太宰が寄宿していた小野沢宅まで運んでいたそうなので、ここで作った油で揚げた天ぷらを、太宰も口にした可能性は大いにあります。

⑤氷川神社、氷川参道

画像10

 太宰が、大宮滞在時に散歩をした氷川神社です。参拝者の数は、全国でもトップ10入りする人気を誇り、2400年の歴史を誇る古社です。氷川神社は、およそ280社あるそうですが、その総本社でもあります。
 大宮の地名は「大いなる宮居」に由来し、氷川神社は大宮のルーツとも言えるでしょう。
 昼に訪れた事もあったでしょうが、松の湯(⑥を参照)で風呂に浸かった後、散歩に来ていたそうです。
 最近、補修工事があり、社殿の入口の朱塗りの門が塗り直されたそうですが、実は、太宰が滞在した当時は、朱塗りの門が出来たばかりだったそうで、太宰と一緒に氷川神社を散歩した藤縄信子さんは「(出来たばかりの朱塗りの門が)綺麗なのが印象に残っています」と語っていたそうです。太宰が見た朱の色も、こんな感じだったかもしれません。

画像11

 これは、氷川神社の旧参道。現在の「平成ひろば」です。大宮滞在中、太宰はほとんど外出せず、外に出るといえば、「松の湯」か、そのついでに足を伸ばす、この「氷川参道」「氷川神社」、一日おきに注射に行く「宇治病院」(⑨を参照)くらいのものだったそうです。

画像26

 当時、氷川参道の両側には闇市が並んでおり、ウナギの肝焼きを買って帰ったり、小野沢さんに「ご主人、今日は珍しい魚が出ていましたよ」と話した事もあったそうです。

画像27

 上の地図は、玉手洋一さんからご提供頂いた、昭和50年代の地図。松の湯(⑥を参照)の近くに「中田魚店」の文字が。太宰が立ち寄った魚屋は、おそらくここではないかな、とのことです。

⑥松の湯

画像14

 太宰といえば、無類の風呂好き
 美知子さんと新婚時代に住んでいた甲府では「喜久の湯」(現在も営業中)。三鷹の住居の近くには「連雀湯」(現在は、ホンダカーズ 東京中央井の頭公園店)がありましたが、大宮で滞在した小野沢宅から歩いて3分程度のところには、銭湯「松の湯」がありました。

画像15

 残念ながら、現在は「蓮見医院」となっています。玉手さんの現地調査で、当時からこの辺りに住んでいた方への聴き込みにより、この場所にあった事が判明したそうです。
 上の2枚の写真は、ほぼ同じ方向から撮影してあります。

⑦小野沢宅(『人間失格』執筆地)

画像16

 大宮滞在中、太宰が寄宿し、『人間失格』を執筆した小野沢宅の跡地です。現在は、一般住宅が建っているため、現地写真は割愛。道路を挟んだ跡地の向かい側には、太宰ゆかりの地である事を伝える案内板があります。
 ちなみに、太宰が妻の美知子宛に出したハガキでは、滞在中の住所が「藤縄方」となっています。物件所有者は小野沢清澄ですが、名義は姪の藤縄信子となっていたためのようです。藤縄さんは、太宰の食事の世話をしていました。

画像17

 Google Mapsで見ると、こんな感じです。
 太宰は小野沢宅の2階の二間を借りて、手前の八畳間を山崎富栄との生活の場に、奥の三畳間を仕事部屋にしていました。

画像23

 毎朝9時頃に起き、昼頃からちゃぶ台に向い、傍らには辞書を置き、3時間ほどペンを走らせ、夜はじっくり時間をかけて食事をする、という規則正しい生活を送っていたそうです。
 調子が良く、1日に5、6枚書く日もあれば、床柱に座布団を巻き、そこに寄りかかってジッと考え込んでいる時もあり、小野沢さんは「小説を書くって大変なんだな」と思ったそうです。書き損じの原稿用紙で、屑かごは毎日一杯になっていました。「しかし、尋常一年生のようなへたくそな字を書くので、正直いって、大した作家だとは考えてもみなかった。そう、連れの女の人は、いつも静かに編み物をしていたね」という小野沢さんのお話が残っています。『斜陽』でベストセラー作家となった太宰ですが、その名前を現在のように周知されるようになるのは、その死後。当時の太宰治の知名度は、意外にもこの程度だったのです。
 また、原稿が進み、「やっとできたよ、信子さん」と嬉しそうな表情を見せた太宰に「先生、おめでとうございます」と言うと、「ありがとう」とニッコリ温かい笑顔を見せていた、という信子さんのお話も残っています。
 信子さんは太宰の食事の様子を、「先生は魚や煮物など淡白な料理をさかなに酒を飲んだ後、おにぎりが好きでつけ物だけで食べてました」と語りました。
 小野沢さんや信子さんの親切に、富栄も感謝しており、5月9日付の日記に、

 お食事もここの御主人が大変心をこめておつくり下さるので、いつも美味しく頂き、お蔭で太宰さんもめっきり太って来られた。御自分でもそれが嬉しくて、やすみながら両腕を交互につくづく眺められている御様子は、側でみていてもほほえましい位。うれしくて涙が出るほどです。どんなに丈夫になり度く思っていられることでしょうか。編集者の質問責めに逢わないことだけでも気持がゆっくりして、いいことなのね。

と綴っています。

画像22

 太宰が当時執筆に使用していたちゃぶ台も現存しており、それを直接見て、触れる事ができるのも、今回のツアーの目玉の一つでした。
 煙草をふかしながら原稿用紙に向っていた太宰。煙草でついた焦げの跡の残っています。
 ちゃぶ台の後ろに立て掛けてあるのは、明治から昭和にかけて活躍し、風刺漫画や風俗漫画を執筆し、「日本の近代漫画の祖」「日本で最初の職業漫画家」と言われている北澤楽天の絵です。

画像29

 ちょうど楽天は、太宰が大宮に来た昭和23年に故郷の大宮へ戻り、新しい住まいである「楽天居」と名付けて新築し、日本画を描く日々を送り始めたところでした。
 『人間失格』「第三の手記」冒頭、突然、主人公の大庭葉蔵が「無名の下手な漫画家」になったと語るシーンが登場します。各社の注文に応じながら「キンタさんとオタさんの冒険」「ノンキ和尚」「セッカチピンチャン」という漫画を描いた…と続いていきますが、これは、太宰が古田から楽天の事を聞き、大庭葉蔵の職業を急遽決めたのではないか?という、玉手さんの推測も、とても興味深いものでした。

⑧大西屋酒店

画像18

 大西屋酒店は、小野沢宅や天清にお酒を配達していた酒屋さんです。
 現在の建物は昭和元年に建てられたので、太宰が当時見たのと同じ建物を見る事ができます。
 お酒好きで、毎日の晩酌を欠かさなかった太宰ですが、仕事が捗った時には、貴重なウイスキーの瓶が一夜で空になってしまう事もあり、一本のウイスキーを求めて奔走したのも、一度や二度ではなかったそうです。小野沢さんは、日々家に酒を切らさないように気を配り、ときには川越まで行く事もありました。
 お酒を預けておくと、飲んでしまう太宰。「預けて置くといくらでも飲むので、茶だんすにしまっておくと、照れくさそうに『ご主人、もうちょっと』」と言われると、ついつい渡してしまったとのこと。
 現在は二代目がお店を継いでいますが、先代は文学好きで、お店の前を太宰が歩いているのを見掛けたが、恥ずかしくて声を掛けられなかった、とよく話していたそうです。
 当時、お酒は大徳利で量り売りをしていましたが、当時使われていた徳利を、お店で見る事ができます。

⑨宇治病院

画像19

 宇治病院に通って注射を打ってもらっていました。当時の医療状況を鑑みると、ブトウ糖とカルシウム程度だったようです。しかし、5月に入ると、富栄に注射を打ってもらうようになっていったそうです。病院までの5分程度の外出すら億劫になっていたのでしょうか。
 宇治病院の初代院長 宇治田積さんも、古田晃と同じ長野出身。先にも触れましたが、古田の奥さんの姉の嫁ぎ先だった、という縁から、肺の結核と不眠症で悩んでいた太宰を診る事になりました。
 田積さんは、医師だった義父を継ぐために宇治家に養子に入り、1920年(大正9年)に「宇治診療所」を開業。1925年(大正14年)からは国鉄大宮工場の嘱託医としても活躍しました。現在の場所に「宇治病院」として開業したのは、1930年(昭和5年)。また、大宮が「大宮市」となる直前、1937年(昭和12年)から3年の間、「大宮町」最後の町長も務めています。
 ちなみに、宇治病院の二代目院長の宇治達郎さんは、オリンパスと共同で世界初の胃カメラの開発に尽力された方です。

画像24

 現在、病院の建物は新しくなっていますが、かつての院長の自宅は当時のまま残っています。実は、ここ、太宰が死の前日の6月12日 土曜日に訪れています。
 その時の様子を、野原一夫『含羞の人』から引用してみます。

 病院長の娘の、当時二十六歳の節子さんは、奥の離れの一間で縫ものをしていた。昼をすこし過ぎたころである。人の気配に目をあげると、庭先づたいに、いくぶん前こごみで急ぎ足の太宰の姿が目にはいった。グレーのズボンに白いワイシャツで、たしか下駄履きだったと節子さんの記憶に残っている。とすれば、太宰が玉川上水に入水したときと同じ服装である。
 太宰は毎日注射をしてもらいに宇治病院に通ってきていたし、それに節子さんは二、三度、下着をとどけに小野沢さんの家に行っている。太宰も古田と同じ背格好の長身であり、古田の下着が太宰のからだに合ったのである。顔見知りの節子さんと目が合うと、太宰は、
「古田さん、いる?」
「いま、信州に行っております。あしたあたり、帰ってくるはずなのですけど。」
 太宰は落胆の色を見せ、うつむいてしばらくたたずんでいた。
「よろしかったら、おあがりになって、お茶でも……。」
 太宰は視線を宙に迷わせていたが、
「いや、帰ります。また、来ますよ。古田さんに、くれぐれもよろしく。」
 立ち去って行く太宰のうしろ姿がなにかさびしげだったと節子さんは回想している。
 その足で太宰は小野沢さんの家にも立ち寄り、「『グッド・バイ』が、どうもうまく書けなくてねえ。悩んでますよ。」と言った。帰っていくうしろ姿が、へんに影が薄かったと、これは小野沢さんの回想である。

 この頃の太宰は、実質的に富栄の部屋に幽閉されているような状態で、誰とも会っていませんでした。野原一夫や野平健一といった編集者たちを介して、この情報は古田の耳にも入りました。
 この状況を打開するために、古田は荻窪の井伏鱒二を訪問。太宰と一緒に一ヶ月間、三坂峠の天下茶屋へ行ってくれないか、とお願いします。甲府の天下茶屋といえば、20代で一度ぼろぼろになった太宰の、再出発の地です。
 当時、宿泊に配給米が必要で、米を持参しないと宿泊ができなかったため、それを理由に甲府行きを渋る井伏でしたが、古田は、郷里の信州へ出掛け、リュックサックに米を詰めて三坂峠へ運ぶ、と説得しました。
 太宰が宇治病院の離れを訪れたのは、太宰を救いたい一心の古田が、天下茶屋に籠るための物資を長野に取りに戻っている、まさにその時でした。
 古田が大宮に帰って来たのは、6月14日の午後。既に太宰が心中してしまった後でした。留守中に太宰が訪ねてきたと知った古田は、「会えていたら、太宰さんは、死なんかったかもしれん。」と、沈痛な面持ちで節子さんに言ったといいます。

⑩ポスト(やき屋おたふく)

画像20

 氷川神社のほど近くにある、広島お好み焼きのお店「やき屋おたふく」。昔、このお店の前あたりに、赤い丸型の郵便ポストが建っていたそうです。

画像21

 こんなイメージでしょうか。
 実は、現在この「やき屋おたふく」がある通りは、太宰が小野沢宅から宇治病院へ通院する際の通り道でした。
 太宰は大宮滞在中、妻の美知子に宛てて、2通のハガキを書いています。

 5月4日 大宮市大門町三ノ九 藤縄方より
 東京都下三鷹町下連雀一一三 津島美知子宛
 無事、大いに食すすみ、仕事も順調なり。
 だいたい十日頃かえる予定。留守中は、うまくすべてやって置いて下さい。
 この住所、誰にも教えぬよう、「筑摩に聞け」と言いなさい。
 5月7日 大宮市大門町三ノ九 藤縄方より
 東京都下三鷹町下連雀一一三 津島美知子宛
 無事の由、安心。万時よろしくたのむ。荷物、石井君から受取る。リンゴは、もう要らない。ここの環境なかなかよろしく、仕事は快調、からだ具合い甚だよく、一日一日ふとる感じ。それで、古田さんにたのんで、もう五日、つまり十五日帰京という事にしました。十五日までに「人間失格」全部書き上げる予定。十五日の夕方に、新潮野平が仕事部屋(チグサ)で待っていて、泊り込みで口述筆記、それゆえ、帰宅は十六日の夕方になる。それから、いよいよ朝日新聞という事になる。からだ具合いがいいので、甚だ気をよくしている。何か用事があったら、チクマへ電話しなさい。

 5月7日付のはがきに名前が出てくる「石井君」とは、筑摩書房編集部員の石井立のこと。石井の手を介して、美知子からリンゴ等の仕送りを受取っていたようです。
 太宰は、はがきの中で、自身の体調が好転していて、執筆も好調である事を強調しています。「いよいよ朝日新聞」とは、『人間失格』の次に書かれた未完の絶筆『グッド・バイ』を指しています。
 この付近に、ほかにポストは無かったそうなので、この場所から2通のはがきが投函された可能性は高そうです。

おわりに

 「太宰が住んだ大宮 探索ツアー2019 秋 ~名作『人間失格』を生んだ景色に出会う~」が開催されてから、早1ヶ月。イベント終了後、主催者の玉手さんに「今日の事、ブログに書いてもいいですか?」とお伺いしてから、すでに1ヶ月。「早く書き上げなきゃ!早く書き上げなきゃ!」と焦りは募りながらも、記事内容の裏をとるために資料を読んでいると、夢中になって読み耽ってしまったり…と、なかなか肝心の執筆作業が進まず、ようやく更新できるところまで漕ぎつける事ができました。

画像25

 イベントの際に頂いた、20ポケットあるクリアファイルにパンパンに詰められた資料。地元新聞の掲載記事や、関連書籍からの抜粋資料など、とても大充実の内容(人数分の資料準備をお一人でされたため、開催週はあまり寝ていなかったのだとか)で、「太宰が住んだ大宮HP」と併せ、今回の記事を作成する上で、大変参考にさせて頂きました。
 玉手さんのガイドを聞いていて、当時を知る方はどんどん減ってしまい、70数年前の出来事ではありますが、当時の情報が失われつつある、という危機感を覚えました。「松の湯」や「赤い丸型の郵便ポスト」の場所は、調査がもう少し遅ければ、分からないままになっていた可能性もあります。フィールドワークの重要性を再認識するとともに、掘り起こされた情報を伝達する担い手の一人にならなければ、と改めて感じました。
 今回の記事は、玉手さんの調査研究の成果を焼き直しただけの内容になってしまいましたが、この記事を通して、一人でも多くの方が「太宰が住んだ大宮」に興味を持ち、実際に現地に足を運ぶきっかけになれば幸いです。

※現地写真は、ツアー後の2019年11月4日に再訪問し、撮影しました。

【更新履歴】
・2020年1月19日、「➄氷川神社、氷川参道」に追記。
・2020年2月2日、「①やなぎ小路 天清」「②日活館」「④逸見製油」「⑧大西屋酒店」に追記。

【了】

********************
【参考文献】
・山崎富栄:著、長篠康一郎:編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・野原一夫『含羞の人』(文藝春秋、1982年)
・相馬正一『評伝 太宰治 第三部』(筑摩書房、1985年)
・山崎富栄:著、長篠康一郎:編『太宰治との愛と死のノート』(学陽書房、1995年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・長部日出雄『桜桃とキリスト』(文春文庫、2005年)
・猪瀬直樹『ピカレスク 太宰治伝』(文春文庫、2007年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・木村綾子『太宰治と歩く文学散歩』(角川書店、2010年)
・松本侑子『太宰治の愛と文学をたずねて』(潮出版社、2011年)
・松本侑子『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』(光文社文庫、2012年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・太宰が住んだ大宮HP(http://omiyadazai.ninja-web.net/oshinagaki.html)
・ツアー当日配布資料
 ※文中に注記のないモノクロ画像は上記より引用しました。
********************

《下から太宰の全155作品をご覧頂けます!》

画像26

《今日は何の日?生誕111周年の2020年、
 毎朝7時に『日めくり太宰治』を更新中!》

画像28

この記事が参加している募集

イベントレポ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?