【小説】カノコユリの香り⑸

 私が乗り込んだとき、吊り革は健気にも孤独だけをぶら下げてその身を揺らしていた。プラスチック製の真っ白な穴は、手の姿を欠くとどうにも不格好で、不自然で、奇妙である。激しい義務感が脚を急がせるせいで、私は気持ちの準備ができないままに手を伸ばす羽目になってしまった。
 すぐに、指の感触が手の甲を伝い始める。安心した。昨日は、少しばかり勝手が過ぎたような気がしていたのだ。まさか肘まで引き出される羽目になるとは思っていなかっただろうに、嫌われてしまっても文句は言えまい。昨日までと変わらない感触は、だから私の杞憂を笑い飛ばしてくれているように感じて、それが淡く瑞々しい喜びを誘った。
 不意に、甘い匂いがした。
 夜の電車内においては異質な、不安を誘うほどに強い花の香り。花の種類までは分からないし、本当にそういう香りをした花が存在するのかどうかも分からないけれど、執拗なまでに甘く明るく粘着質なその匂いは、きっと花の香りなのだった。
 香水だと思った。列車内には匂いの発生源となりそうな花などは見当たらないので、そう思った。花の香りをした香水なのだ。そうと断じてみると、むせ返るほどの甘ったるさは人工的であるようにも感じられる。
 もしも、これが香水ならば。
 確信めいた予感があった。もしもこれが香水ならば、これほどに強く匂うということは、私の近くに香水の主がいるいうことなのではないか。そして今、私の一番近くにいるのが誰なのかと言えば、考えるまでもない。
 指先に冷たさが重なる。私の視線は意図しないままに窓の外へ向けられていた。目を合わせる勇気がなかった。昨日まではこんな匂いを放ってはいないはずだった。手の様子が変わってしまったのだという想像は、なぜだかひどく忌まわしくて、私に呼吸の仕方を忘れさせようとしているかのようですらある。
 車窓の向こうでは、光が揺れて、流れていく。白い光の群れがビルの窓となって、車の列となって、町の営みとなって、流れていく。それなのに、赤い光の一群だけが、ずっと同じ場所に貼りついたまま。
 手が重たい。
 手が冷たい。
 手が、なぜか、赤い。
 夜景を背景にしてガラスに映りこんだ手は、蛍光灯の白を反射させて、その指先を赤く光らせている。
 花の匂い。強引で無遠慮な甘い匂い。私は視線を持ち上げた。手の方を見るつもりだったのか、匂いのする方を見るつもりだったのかは判然としない。眼前に佇む手は、ガラス越しに見たときよりもずっと鮮やかで、毒々しい色のマニキュアで彩られていた。
 どきりとした。中指にささくれの痕を見止めて、息が止まった。これは同じ手なのだ。
 すぐにでも手を放してしまいたい気分だった。すぐにでも逃げだしてしまいたい気分でもあった。
 きつい香水が嫌なわけでもなければ、透明なマニキュアが好きで真っ赤なマニキュアが嫌いだというわけでもない。私は、この手と向き合う覚悟を持っていなかったのだということを悟ってしまったのだ。
 今は、吸っている途中だったのか、吐き出している途中だったのか。鼻で息をしていたのか、口で息をしていたのか。息の仕方を思い出そうとする間にも、手は重みを増し続け、ついには昨日と同じように――いや、昨日よりももっとずっと強く強く強く、私の手を、握った。真っ赤な爪の周りの肉が真っ白になるほど、その力は強烈だった。
 ああ、なんて、怖い。
 プラスチックに圧しつけられた私の指は痺れ、関節には痛みが広がった。
 目の縁に涙が滲むのが分かる。怖い怖い。私のぽっと出の孤独感など、この手の抱えているものに比べれば他愛のない幻のようなものだったのだ。
 私が痛みを堪えているせいか、手が力を込めているせいか、吊り革が小刻みに震えている。
 もう無理だ。
 これまでの四日間で育ちつつあった愛着が悲鳴をあげる。私は孤独な手を振り払うように、乱暴な動きで吊り革から手を放した。昨日まではすぐに引き返していたはずの手は、うろうろと彷徨いながら何度か空を掴んだ後、物悲しそうに、口惜しそうに、ゆっくりと輪の中へ吸い込まれていった。
 もう、吊り革へ手を伸ばすだけの好奇心も、優しさも、私は持ち合わせていないのだった。
 再び孤独になった列車は、駅に着くたびに花の残り香を薄れさせていき、私は匂いを連れることもなく電車を後にした。

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