【小説】カノコユリの香り⑴

 手の話ですか。
 していらっしゃったでしょう、手の話。
 何と言ったら良いんでしょうかね。そうですね、ええ、もしかしたら私、知っているんじゃないかと思いましてね。
 はい。そう、手をです。
 見つけたと言いますか、今申しました通りね、知っているんですよ。
 どこで、と聞かれましてもね、そうですねえ、とても、申し上げにくいのですけどね、
 ここ、なんですよ。
 ああ、いえ、今はね、どうやら、いないようです。
 嘘、と言われましてもね、ううん、残念ながら証拠などはないのですが、それでも見たんですよ、私は。
 初めてその手に気がついたのは、先週の頭でしてね。
 そんなはずがありませんか。でもね、それが、あるんですよ。私だって最初は目を疑ったものですが、それでも間違いなく、手が。
 今日の電車、混んでいるでしょう。普段のこの時間ならいくつか空席が――ええ、空いているんです、本当は。ですから先週のその日にはね、座っていたわけです、私は。
 でも、空いているとは言え、仕事帰りの人が多い時間ですからね。がらがらに空いているというわけでもなくて、詰めてまで座りたいわけでもない、という人もいる、といった具合でして。
 ケータイをいじっていたんですよ。
 いえ、私が、です。最近じゃあ大勢そうしてますようにね、私も画面を見ていたわけです。それで、ふと、何の気もなしに視線を上げてみたんです。
 するとね、吊り革を掴んで立っている女性が視界に入りまして。そこで、あれっと思った。
 最初は、よく分からなかった。ただどうにも、違和感があった。どこがどうおかしいのか分からないんですが、違和感だけがあるんですよ。
 じっと見てみるというのも不審がられるかなとは思ったんですがね、運良くと言いますか、幸いにもその人は、それまでの私と同じように、片手でスマホを持って、その画面に釘づけになっていまして。ですから私は視線を外さずに、その違和感の正体を探ってみようとしたわけです。
 普通の、と言うか、何の変哲もない人なんですよ。顔も服装もあんまり覚えてはいないんですけれどね、ちょっとラフかなという程度の、本当に何の変哲もない。
 でね、気づいたんです。違和感の正体に。
 吊り革を持つ手がね、多い。
 右手にスマホを持って、左手で吊り革を掴んで。その、左手の上にね、指が、覆い被さっている。
 ええもちろん、その人の手であるわけがないんですよ。でも、多いとしか言いようがない。だって彼女の近くには吊り革を掴むことのできる他の人なんていなかったんですから。
 そうですよね。今思えば怖いというか気持ち悪いというか、自分でもそう思うんですけど。でもね、そのときは本当に、意味が分からなくて。なんだろうあれは、という好奇心というか興味というか、それしかなかったのです。
 見間違いかと思いました。指に見えるけど、どうせ違う何かなんだろう、と。だけど見れば見るほど手なんです。ああ、爪があるなあって。もう、見間違えようもなく手が多いんですよ。
 違う角度からも見てみたくなったんですが、それをしようと思ったら、席を立って移動しなければならないわけで。さすがにそこまでするのもどうかと、ね。
 そしてそのまま――手は多くて、私は何もできない、そんな状態のまま次の駅に着いた。その女性はね、そこで降りていってしまったんです。降りるなら当然、吊り革からは手を放すわけでして、その、放す瞬間に、
 手はね、
 はい、その、上にあった方の手は、こう、すうっと奥に引くみたいにして女性の手から離れると、そのままどこかへ消えてしまったのです。
 もう、不思議で不思議で。一体あれは何だったんだ、って。吊り革の方がおかしいのか、電車から降りた女性の方にタネがあるのか、あるいは自分の目がおかしくなってしまったのか。確かめようにもどうしたら良いのかすら分からなくて。
 そうやってもやもやしているところに、新しく乗ってきた男性が、ちょうどその吊り革を持ったのです。
 もちろん、見ましたよ。吊り革を、じいっと。
 まず、吊り革を持つじゃないですか。その段階では、ええ、手はその男性のものしかないわけです。だけどね、扉が閉まって電車が動きだすと、
 はい、そうなんですよ。手が、出てきたんです。
 輪っかを掴む手の、その陰から少ぉしずつ、少ぉしずつ、滑るようにして、指が出てくる。そして見る間に、最初の女性のときと同じように、覆い被さるかたちになったのです。
 彼は、それに気づいていないようでした。
 私はそこで初めて、ああ、見てしまったな、と。見てはいけないものを見てしまったんだなと怖くなってしまいまして。かといって目を離すのも何だか不安で、だから自分の降りる駅に着くまでは見ていようと、そう決めました。
 今度は、はい、その男性のときには、手が多い、とは感じなかったんですよ。その理由は、すぐに分かりました。
 指が細いんです。
 最初の女性の指は、その手と同じような細さだったので、だから多い、と感じたのだと思います。ところが、新しくやって来た男性の指と比べると、明らかに細い。
 つまりね、やっぱり手が多いのではなくて、別人の手が乗っている、そういう状況だったわけです。だけどもちろん、その手の持ち主らしい人が近くに立っているわけでもない。
 この男性はいったいどうなってしまうんだろうかと、びくびくしながら見守っていたわけですが――まあ、結論から言ってしまえば、何事も起こらなかったわけです。何駅かの間そのままだったのですが、彼が降りるために手を放すと、その手はやっぱりすうっと離れる。
 思い返してみれば最初の女性だって何事もなく降りて行ったわけですから、あれは害のないものだと、気味が悪いけれど害のあるものではないんだと、そう思うことにしたのです。
 その日は、それで終わりです。男性の降りる駅が私と一緒でしたからね。
 ええ、もちろん、降りる際にその吊り革を見てはみましたよ。どこからどう見てもただの吊り革で、何かが隠れているようには。
 触ってみる勇気は、そのときはありませんでしたけどね。
 はい。そのときは。結局、次の日には触って確かめることになりました。
 同じ時間に、同じ電車の、同じ車両に乗って。普段から帰宅時にはそうしているというだけで、手があるから乗ったのではありませんよ。
 ただ、ね。やっぱり、気味が悪いとは思うんですよ。いつもの車両を避けようか、いつもの電車を避けようか、いっそタクシーで帰ろうか。迷いはしました。それでも結局同じ時間の同じ車両に乗ったのは、いつもそうしているから、と言うよりも、気になったからに他ならないのでしょうね。
 いえいえ。吊り革を触って調べようと、初めからそういうつもりで乗ったわけではありませんよ。むしろ、そうですね、もう出てこないことを確認しに行った、と言うべきでしょうね。
 あんな得体の知れないものが見えたのは、あのときだけなんだということにして終わらせたかったのです。
 ところが、です。その日は、その吊り革を掴む人はいなかった。
 他の吊り革を掴む人はいたんです。ですが、そこに手は出てきていなかったのです。やっぱりあの吊り革じゃないと出てこないんだと思いました。
 それで、まあ、誰も握らなければ、手が出てくるのか、もう出てこないのか、確認のしようもないじゃないですか。とはいえ、誰も握っていないということはチャンスでもあるぞ、と思いまして。
 握るチャンス、ですか。いえ、ははは。もちろん、吊り革なんですから握る以外の選択肢なんて、今思えば、はい、ありませんでしたけどね。
 ちょっと調べてみるチャンスだと、そう思ったわけです。だから席を立って、近づいた。
 指先で軽く触ってみたり、角度を変えて見てみたり。人目がありますからそう露骨に観察するわけにもいかなかったのですが、私には普通の吊り革だという判断しかできなかった。
 そうなるともう、いよいよ、握ってみるしかない。吊り革を握っているときにしか手が出てこないんですから、手が出てこないということを確認するには、やっぱり握ってみるしかない。
 勇気、とは違うんだと思いますよ。あのときの私は、出てこないことを確認したかった。つまりね、出てくるわけがないという思いの方が、出てくるんじゃないかという不安よりも大きかったのです。何の根拠もありませんけどね、あんな奇妙なことが二日連続で起こるわけがないと、ましてや自分の身に降りかかるわけがないと思っていたのです。
 いやあ、出ましたよ。
 手の甲に、何かの触れている感触がありましてね。だけど、手の甲を見ても何もない。おかしいなと思っているうちに、その感触はすうっと上ってきて、そのまま指に沿うようになって。
 僅かにね、重みを感じるんですよ。
 姿は見えないにしろ、前日に見たもののことを考えれば、私の手の上にあの手が被さっていることはもう疑いようもないわけです。だけどね、私は冷静でした。怖いと思うまでには、一瞬の間があるんでしょうかね。その一瞬の間のうちに、どうすればその感触から逃れられるのかを思いついたんです。そう、単純な話で、吊り革から手を放せば良いんです。
 そっと、ゆっくり、放しました。するとその感触が消えるのが分かりました。
 ああ、良いんですか。場所、譲ってもらっちゃって。
 はは、変な話しちゃいましたからねえ。気味悪がらせてしまいましたかね。
 いえ、すみません。でしたら、じゃあ、
 この吊り革は、私が。
 ふふ。
 ああ、いえ、譲っていただいて、ありがとうございます。
 お礼ついでに、ひとつ。

 さっきのね、あれ、嘘だったんですよ。

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