ぼくは演出をするのが楽しい

 ぼくは大学の放送サークルで音声ドラマを作っている。放送サークルでいうところの「音声ドラマ」っていうのは、あらかじめ収録して編集して完成させておくタイプのやつと、発表会でお客さんの前で上演する朗読劇みたいなタイプのやつの二種類がある。ぼくはどっちも作るが、どっちかというと朗読劇タイプのほうを中心に作っている。ここでぼくが「作っている」と言っているのは、具体的には「脚本を書く」と「演出をする」をやっているということだ。今回は「演出をする」とはどういった作業なのか、このnoteを読んでくれているきみだけにこっそり教えよう(ここまで前回のコピペ)。

 ぼくはどんなお話を作るか決めると、登場人物の設定を考えつつ、サークルの部員に連絡して出演をオファーする。そして、この役を演じるのはこのひとだなと想定しながら脚本を書いていく(これを「当て書き」という)。そこらへんのあれこれは「ぼくは脚本を書くのが憂鬱だ」に書いた。

 ぼくは脚本を書き終えると、翌日に読み直して内容を微修正した上で、そのWordファイルを出演者とミキサー(音響機材を操作して音楽や効果音を繰り出す係のひと)にメールで送る。「これが今度の脚本です。目を通しておいてください」っていう一文を添えて。さらに、「関係者の顔合わせをしたいので今週の空きコマを教えてもらえますか」とも尋ねる。それで、たとえば水曜の4限の時間だとかに、図書館のグループ学習エリアとか、9号館のグループ学習エリアとか、あるいは部室とか、いずれにせよ会議室の代わりになるところに集まる。その席でぼくは生意気に「えー、この度はよろしくお願いします」とか言って、自宅でプリントアウトしてきたA4冊子バージョンの脚本を配る。出演者5〜6人分、ミキサー1人分、ぼく1人分。というわけで、ぼくの自宅のプリンターはインクの減りが早い。特に黒インクの減りが早い。A4コピー用紙の減りも早い。ぼくの近所のホームセンターのオフィス用品コーナーが成り立っているのはぼくのおかげだ(大嘘)。

 その席でみんなに改めて空きコマを教えてもらい、音声ドラマを練習する曜日と時間を決める。この練習にミキサーは参加しない。この練習は出演者とぼくによる「演技の練習」である。この練習のことは「稽古」と呼んでもいいが、ぼくはそれは少し気恥ずかしいのであえて「練習」と呼ぶことにしている。ドラマの練習を図書館やら9号館やらのグループ学習エリアでやるのはさすがに憚れるので、学生センターに届け出して教室を借りることが多い(実際にはゲリラ的に空き教室を見つけて占拠することが多い)(借りたり探したりが面倒なときは手っ取り早く部室に集まることもある)。この間もぼくは脚本に修正を加え続けている。変更がわずかな場合は「そこの『待ちやがれ!』という台詞は『待て!』に変えてください」などと口頭で伝えて各自手持ちの台本にペンを入れてもらうが、変更がある程度広範囲にわたる場合はA4冊子の台本をまた刷り直す。そういうわけでぼくの自宅のプリンターはインクの減りが早い。コピー用紙の減りも早い。ぼくの近所のホームセンターはぼくに感謝状を授与すべきだ(モンスターカスタマー)(できれば副賞として黒インク1年分とコピー用紙1年分もください)。

 空きコマを教えてもらって教室を借りて練習する……といっても、出演者が一堂に会するとは限らない。出演者がぜんぶで6人だとして、みんなの空きコマを突き合せたとして、一度には最大で4〜5人しか集まれなかったりする。かといって、各自のバイトやら何やらの狭間を見つけて、夜間や休日にZoomやTeamsを使って練習することはない。それはぼくのやりたい演出がやりにくくなるからでもあるが、スケジュール調整やモチベーションの維持が難しくなるからだったりもする。

 出演者はぼくとまったく同じ熱量でぼくのドラマ作りに臨んでいるわけではない。ぼくにとってドラマ作りは自分の存在理由確認行為だが、大半の出演者にとってはせいぜい趣味に毛が生えた程度のものである。これは「仕事」ではないのだ。ぼくはぼくのドラマの関係者に「こいつの作品は練習が面倒なんだよな」と思わせてしまってはいけない。それで得することは何一つない。だから、できるだけ5限後(19時以降)には練習の時間を設けず、あくまでも授業と授業の合間の空きコマに練習を入れるようにしている。しかも美味しそうなお菓子をいっぱい差し入れるようにしている。ヴィレッジヴァンガードで買った変なステッカーを配布したりもする。効果のほどは不明だが、ぼくは関係者に「あいつの作品の練習に行くのは楽しい」と思ってもらいたい。これを読んで「ぼくちゃんは気を遣って大変ですね。かわいそうに」などと思ってくれるひともいるかもしれないが、ぼく自身はこうやってみんなに気を遣うのをふつうに楽しんでいたりするので心配は無用だ(誰も心配していない)。

 音声ドラマを練習する時、出演者には本番と同じように立ち姿になってもらう。発表会で上演されるぼくの音声ドラマは、決してストレートプレイ(ふつうのお芝居)ではないが、「リーディング公演」とか「ドラマリーディング」などとは呼んで差し支えのないものである。「アナウンス作品」ではなく「演劇」に近い。というか、演劇である。縦に横にのダイナミックな動きがあるわけではないが、舞台の見せ方はこだわっている。ぼくは時々、自分は放送研究会ではなく演劇部とかミュージカル研究会に入るべきだったのではないかと思うことがあるが、幸いにもうちのサークルは「面白そうなことは何でもやってみよう」と考えてくれるひとがほとんどなので、ぼくの存在と活動もちゃんと許されているというわけなのである。

 さて、話が横道に逸れたような気がしないでもないので、慌てて練習を始めることにする。出演者には立ち姿になってもらい、まずは台本のワンチャプターなりワンブロックなりを各自のプラン通りに演じてもらう。ぼくの脚本はすべて当て書きなので、基本的にはぼくがあらかじめ脳内でイメージしていた通りの光景が目の前に広がることになる。岩下がぼくの想定通りの間合いで「おい、ちょっと待ってくれよ」という台詞を言ったぞ、とか、堀切がぼくの想定通りのトーンで「だまらっしゃい!」という台詞を言ったぞ、とか。だけど、聴いていて気になるところもある。ぼくは聴きながら自分の台本にシャーペンを走らせる。ワンチャプターなりワンブロックなりの通しが終わると、ぼくは出演者の演技に修正を加えていく。「はい、ありがとうございます。……ガンちゃん(岩下の愛称)、前半の『なんなんだ、こいつらは』ってところなんだけど、あそこは興奮した感じじゃなくて冷たい感じで」とか、「千佳ちゃん(栗山の下の名前)、『みなさんに、ほーら!』の『ほーら!』は上げ調子でいけるかな?」とか。ぼく自身が実際にお手本を示すこともあれば、言わせてみて「うん、いい感じ」で済ますこともある。

 これがぼくの演出スタイルである。おそらくは世界で最も簡便な演出スタイルではないかと思う。「ダメ出し」というほどのことはやっていない。役者が目の前でやってみせてくれる演技のうち、ぼくが違和感を抱いたところをならしていくだけの作業である。ぼくはこの作業が本当に楽しい。楽しくて楽しくてたまらない。音声ドラマを作っていてぼくがいちばん楽しいのは、まさにまさしくこの時間だ。自分が脳内で想像していただけのシーンが現実の風景となり、ぼくのちょっとした一言によって解像度がさらに上がっていく。至上の快感である。これはもしかすると、ドラマの脚本家と演出家を兼任する人間ならではの喜びかもしれない。

 出演者とぼくのあいだでこういった練習を重ねながら、ぼくは堀切と一緒に衣装を買いに行ったり、同期の花谷に衣装のアレンジをお願いしたり、本番で照明を担当してくれることになったひとたちに「(明転)」とか「(ゆっくりと暗転)」とか書かれてある台本を渡したりする。そうして迎える全体リハーサルの前日または前々日、ミキサーの篠丸も交えて、ここでようやくぼくらの班は音響入りの練習を行う。場所は部室だ。ミキサー込みの練習は音響機材が置いてある場所でないとできないからだ(大学の教室に音声ドラマ用ミキシング装置は配備されてません)。これが全体リハーサル前、最初で最後のミキサー込み練習となる。「それで大丈夫なの?」と疑問に思うひともいるかもしれないが、これはぼくらのミキサーが篠丸だからこそできるわざだ。篠丸は普段は旅行サークルで活動していて、うちのサークルに顔を出すことは滅多にないのだが、ぼくが一年生の頃からぼくの作品専属でミキサーを担当してくれている。日頃は機材に触れていないはずなのに篠丸はミキシングの技術がプロ級で、ぼくの望む通りのペースとタイミングと音量でBGMや効果音を操ってくれる。ぼくの音声ドラマには欠かせない影のMVPなのだ。ただ、実際には篠丸が事前にぼくの台本を読み込んでイメージトレーニングしてきてくれていることも、ほんの些細なミスも激しく悔しがるまじめなやつだということも、ぼくはよく知っている。

 発表会の全体リハーサルは、実際の本番の会場となる教室やホールで行われることが多い。ぼくらの班の場合、出演者はこの時に本番でも着る衣装を着て、本番でも使う小道具を使い、本番さながらに演技を披露する。もちろんミキサーの篠丸も本番と同様の音響操作をみせる。「舞台セット」とでも呼ぶべき大道具(実際には「中道具」程度)が完成している場合には、やはりこのタイミングで舞台上に仮置きしてみたりする。本番で照明を担当してくれることになったひとたちに指示を出して、スポットライトやフットライトの合わせも行う。

 こうしたリハーサルをしている最中、ぼくはなかなかに緊張している。これまで多摩川の河川敷で野球の練習をしてきたのが、ついに東京ドームにやってきたような感じである(誇張表現)。全体リハーサルでのサークル部員たちは、自分が関わっていない作品のリハーサルも客席に座って見物していたりする。特にぼくの作品は常に注目の的なのでギャラリーが多い(不遜発言)。リハーサルが終わると、ぼくは出演者とミキサーを集めて「ここは気を付けよう」とか「あそこよかったよ! その調子で」とかいう最終的な業務連絡を行う。ついでに、ヴィレッジヴァンガードで買った変なステッカーを配布する。みんなだいたい「いらない」と言うが(特に岩下は「本当にいりません。使い道ないだろこんなの!(怒)」と強めに反抗する)、ぼくは無理やり「遠慮するな!」とか言って押し付ける。チェ・ゲバラのステッカーを受け取った岩下はなんだかんだでうれしそうだ。

 本番当日のぼくはそれほど緊張していない。ぼくはサークルでは渉外も務めているので、むしろ、来場した他大学のひとたちへの対応に気を取られている。ただ、ぼくの作品の順番が訪れる直前、ぼくらは控室に集まって顔を合わせる。出演者、ミキサー、そしてぼく。円陣を組んだり掛け声を発したりはしないが(そういうのはぼくの柄じゃない)、その代わりにぼくは「じゃあよろしくお願いします」とだけ告げる。この集結に具体的な意味はない。本当にただみんなで顔を向き合わせているだけだ。ぼくはもうこの期に及んで演技指導しないし、特に誰かから発言があるわけでもない。せいぜい、篠丸が「……よし、がんばろう!」とその場を締めてくれるだけである。これがこの班のメンツが一堂に会す最後のシチュエーションとなる。本番後の打ち上げではみんなバラバラの席に座るので(ぼくと堀切はだいたいいつも同じテーブルだが)、もうぼくらが同じように集まることは二度とない。──といっても、ぼくの作品の出演者は毎回似たような顔ぶれだから、この話はそこまで感傷的な話になってくれないんだけどね。

 発表会で音声ドラマを上演するにあたって、ぼくはチーム意識をかなり重視しているほうだと思う。ぼくの同期だと宮田もずっと音声ドラマを作っているけど、たぶん、ここまでチーム感をもって本番に臨んでいるわけではないはずだ。ぼくはさっき「演出をしている時がいちばん楽しい」と書いた。「自分の想像が具現化されるのが快感だからだ」とも書いた。ただ、なぜそれが快感なのか、その理由については書いていなかったように思う。ぼくが演出をするのを好きなのは、きっと、その時にこそ「共同作業」の状態を感じられるからなんだ。

 ぼくが音声ドラマの脚本を書いているのは、自分の脚本の面白さをみんなに知ってもらいたいからじゃない。自分の脚本に従って作られたドラマでみんなを楽しませたいからだ。この二つは似ているようで全然違う。ぼくは上演されるあてがないなら脚本を書きたくない。空き教室に集まって演出をしている時、ぼくはぼくの「想像」が具体的なかたちになっていっていることを実感する。ぼくの「想像」が「想像」のままで終わらずに済みそうだと実感する。だからこそ、ぼくは「演出をするのが楽しい」と思うんだ。これは「いい作品を作りたい」という見上げた話ではない。「ぼくは気持ちよくなりたい」というエゴイスティックな話だ。ぼくはぼくの作品の出演者とミキサーを愛している。ついでに衣装担当と照明担当も愛している。なぜなら、彼ら彼女らがぼくの脚本に従って動いてくれるおかげで、ぼくは自分の「想像」を「想像」のまま埋もれさせることなく済んでいるからだ。彼ら彼女らのおかげで、ぼくは、この世界に自分がいま生きていることを証明できている。まだ死んでいないことを証明できている。

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