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そこにはたしかに、人間がいた。

この3日間は、マイプロジェクトAWARD全国Summitでした。

フルオンライン開催になって2年目。僕は全国Summitでファシリするのは初めてで、個人的手探り感満載でしたが、変に慣れてない分、高校生たちと同じ背伸び感で参加できた気もします。笑

この3日間で、「マイプロジェクト」に関する僕の学び(生煮え状態)はこちらのnoteにまとめ?ました。

このnoteでは、「マイプロジェクトAWARD全国Summitという場」についての感想をつらつら書ければなぁと。

感想は一言。

そこで起きるドラマに、心動かされた。

これに尽きます。笑
では、それって一体何だったんだろうか、について紐解いていきたいなと。

感受性と想像力

今回のAWARD(と言っても以前をよく知らないですがw)のキーワードは「感受性と想像力」だったと思います。個人的にも、全体的にも。

「マイプロジェクト」と「感受性と想像力」については、上記noteで書いたので、ここでは「全国Summit」と「感受性と想像力」について。

今のオンライン空間って身体性薄い(画面の向こう側に人間を感じにくい)ですよね。なので、オンラインの没入感ってどうやってデザインするんだろうなぁとずっと悩まされてきました。

この全国Summitでたしかにあった没入感は、「感受性と想像力」による空間創造だったんじゃないかなと。

つまり、画面の向こう側の人間を、こちら側(見ている側)の「感受性と想像力」によって、

「そこに存在する他者」として創造する

感覚があった気がするんです。

その没入感は、読書体験と同じように、その本の世界観を脳内で想像するようなものに近いのかもしれません。とすれば、それは非日常空間への没入だったとも言える、かも。

そこに自分がいる証明

ただ、これだけだと「自助努力(個人の想像力)で何とか」みたいな話にもなり兼ねないwので、それともう1つ。

「自分の行動が場に影響を与えた」と感じる

という場のデザインが大切だった。自分の発言や行動によって、場の進行が変わったり、何かコメントもらえたりすると嬉しいですよね。

インターネット以前・以後で比較すれば、画面(テレビ)の向こう側の世界は、見ている側にとっては干渉不可の一方通行な世界でした。それがインターネット以後では、画面(PC)の向こう側の世界は双方向で、その世界に干渉しやすくなったとも言えます。

少し話が逸れますが、デジタルネイティブとそれ以前の人たちの「画面(モニター)の向こう側」の想像力や認識は、その意味でも異なるのかもしれません。

話を戻すと、その双方向性は、自分の行動が場に影響を与え(たと本人が感じる)、今いる世界(オンラインイベント)と自分がつながる感覚をもって成立する気がしています。

どこか、セカイ系主人公っぽさもありますね。笑
「自分はここに居ていいんだ」みたいな。笑

それでいて群像劇感もある。
「今ここで起きているドラマのどこかに、自分が関わっている」と感じているわけですから。

人間がいたとは何か

「オンラインだと温度感(人間味)がねぇ」とかってよく言われますし、僕もそう思う部分はあります。

ここで考えたいのは、「じゃあ、これまで僕らが感じていた人間とは何か」という点。ここでは、狭義に「その場にいる人間」と定義しておきます。

「その場にいる人間」を因数分解していったとき、もし仮に、感受性と想像力をもって(対峙する本人の規定によって)他者を他者たらしめ、自分がその他者に影響を及ぼしている自覚を以て、自分の帰属や他者との関係性を確かめる(認識する)ことで、「その場にいる人間」感が成立していたとすれば・・・。

そこには、オンラインとリアルの違いではなく、共通項を見出せる可能性もあるよなぁと思ったわけです。(まぁ、現行のオンラインはリアルとリアルをつなげるにとどまっているわけですが)


さて、

そこで起きるドラマに、心動かされた。って何だろう。

をここまで考えてきたわけですが、

そのドラマは、その場にいるみんなによってつくられた。
そこでは、みんながそれぞれの役で踊っていた。

とまとめちゃっていいのかなぁ。笑
(やっぱりまだ微妙にずれるなぁw)

その世界は、そこにいる人たちの感受性や想像力によって創造され、自分の存在を確かめられる場のデザインがあった。

ということなのかもしれません。

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