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教育にできることは何ですか、と問われて。

さて、昨日の話です。

友人の結婚式でした。
これで、僕の大学時代いつもいたメンバーの5人中、3人が所帯をもち、4人目も来年1月に挙式予定。つまり、あとは僕だけということになりました。笑


そんな結婚式を終えてから、総社市はスタジオ・ザ・ブーンへ。

誠和学舎さんのイベント第40回 マルいサンカク塾【学】「"学ぶ"にもいろいろある!教育のニュージェネレーション!」に恐れ多くも、ゲストとして呼んで頂きました。

ゲストは、僕のほかに
子育てサポート かがやきっず 黒川晃良さん
特定非営利活動法人ステップ 原 昌広さん
LEAD学習塾 守谷克文さん
の3名。

右から2番目で、(平日お昼のトーク番組の司会者のごとく)お行儀よく座っているのが僕です。笑


各ゲストの自己紹介が終わったのち、パネルディスカッションということで、主催の高山さんが出すテーマに対して各ゲストが回答していくスタイルで、場を進めていきます。

テーマは
「勉強はやらなければいけないですか」
「大人は子どもにどのような関わり方をすればよいですか」
「私教育の立場から、学校に求めることは何ですか」
「教育にできることは何ですか」
など、僕は答えに窮するものばかりでした。笑

話すって難しくて、終わった後に、「僕は今日何を言いたかったんだ。笑」と反省をしてまして、帰り道「結局、僕の考えって何なんだろう」というのを振り返っていました。

教育にできることは何ですか」という問いに、僕は「社会をつくる」と答えました。

この回答自体について説明する前に、キャリアとは何か、自分らしく生きるとは何か、を僕の中でより明瞭にするべきだと思いました。


自分は他者とは違う存在であり、様々な人と接する中で、他者と自分を比べて、違いを見つけることで、それを個性だと認識する。自分ができることだったり、得意なことだったり、性格だったり。

また、G・H・ミードの言うところの「社会的自我」は、他者からの役割を認識し、その期待に応えようとする一方で、そうした期待を抑圧対象だと認識し、独自の反応を示そうとする、この二つの側面の間に生じる緊張を孕んだ相互作用によって、それが形成されるとしている。

自分らしさを知るには、他者の存在が絶対的に必要ということなんでしょう。

自分らしさ(自分のできること・やりたいことなど)に気づいたとき、その領域にはほぼ必ず先人たちの知恵が存在していて、僕らはそのバトンを受け継ぐ。それが教科教育であり、学問だと思う。そう思うと、「勉強」という言葉に対する受け取り方を少し変えた方がいいのかもしれない。

数学の方程式も理科の法則も、無機質な暗記事項ではなく、先人たちが真理に近づくために試行錯誤した結果生まれた血の通った知恵なんだと。

その知恵(バトン)を受け取る行為が、勉強するということなんだと思う。じゃあ今度は、自分がどのバトンを受け取るのか、ということが重要になってくる。

ずいぶん前に高度経済成長は終わり、人口減少が始まる日本、自分が受け継ぐバトンを決めるのは、(以前と違い)出生や学歴などが全てではなくなった。「自分は何者か」と個人を問われる時代になった。


(少し余談ですが)リースマンの『孤独な群衆』によれば、ポスト近代社会に多いパーソナリティは「他人指向型」だそうです。急激な変化の時代、かつてあった分かりやすくシンボリックな「成功」や「富」のかたちは、誰しもが叶えられる目標ではなくなった。そうなると、人は手近にある目標に従うのが常である。それが、他人に合わせる・同調するという行為だという。

今は、”ポスト近代社会のその先”であり、その他人に合わせるという行為に対する問題提起が多くなされるようになっている。
ex:「りゅうちぇるが辿り着いた“自分らしさの見つ方”

自分の個性と向き合うことが許されるということであり、自分は何者かということを問われることでもあるだろう。


話を少し戻して、バトンを受け取れるようになる瞬間(=自分は何者であるかを理解する瞬間)は人によって様々なんだろうと思う。「自分は何者であるか」なんて、どこかの時点で確定するものではないだろう。常に暫定的なもので、移ろいやすい。

自分にできること・やりたいことに気づくタイミングは人それぞれだと思うので、バトンを受け取る瞬間は人によって違う。回数も違う。だからこそ、気づきを生む機会・環境を可能な限り整え、拡充することが大切なんだろうとも思う。自分の正解を試行錯誤し、答え合わせできるように。


人とのつながりが、「自分」という存在をより明確にし、自分が受け取るべきバトンを発見させる。バトンを受け継ぎ、自分にできること・やりたいことを行っていく。

それすなわち、自分らしく社会をつくっていく行為であり、教育にできることなんじゃないかと。

人は社会のピースだけど、そのピースは誰かが指定した歯車ではなく、自分で決めた行動主体としてのピースであり、社会は人によってつくられている。他の誰でもない、自分たちが。


と、自分の頭の中を整理するために、文字化してみましたが、うーん。どうなんでしょう。笑
まだまだですね。色々と勉強しなければ。

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