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「びる夫」がまた、どこかに逝った

当たり前に自宅にいることが多い。店も開けられず(おそらく5月6日に休業要請がハイ終わりとはならない)昼の仕事も止まってる。しかしそれは「何かが生まれる」タイミングであり、今だからこそ浮かぶアイデアもある。要するに動くのかじっとしているのか。どちらにも意義はあり答えもある。

先の日曜も昼に塩屋の海にピクニックという、おおよそ似つかわしくない行動に出る。その後、近くの住人も合流し、ソーシャルディスタンシング(ディスタンスじゃなく自粛、半強制の意味)で酌み交わす。離れた仲間をオンライン飲み会に誘い、互いの顔をデコレーションできたりくだらない会話に救われたりして過ごす。騒動がなければ思いつかない日常が見事に尊い。

              ◇◇◇◇◇

関わりの深い人が亡くなると、いなくなったことよりも、いると思う方が大きいゆえに大層あっけない。昨日まで会っていたという人より、いつまでも受け入れられない罪もある。だから周りは好き勝手言うもので、これは続けられなくなった店と同じで「いいヤツだった」「惜しい人をなくした」という話で彩られてゆく。平尾さんの時もそうだった。僕の知ってるところはそうじゃないと思いながらも、故人を悼む気持ちはマチマチで仕方ない。

さて、おそらくとてつもなく長いが書いてしまおう。

この同級生はなかなか厄介なヤツだった。いや、まずはいいことを書く。大阪体育大学(大体大)ラグビー部に同期は30人近くいた。卒業する時は23人だったか。とにかく、入学した時にこれは「ヤバい」と思った。

大体大は当時関西リーグで同志社大学に続く2位にいて、それでも雑草軍団と揶揄されるまだまだ歴史の浅いチームだった。そんな中、同期の面々には花園に出場した者や地方選抜選手などが何人かいて、そいつらは皆、体の大きさが違ってた。僕らは京都でもベスト8が最高の勲章(伏見工、同志社、花園、東山が絶対的ベスト4)で、ウェイトトレーニングを全くしない(当時は成長が止まるとかでフリーウェイトはやらず)公立高校だった。

その中で、背は高くないがひときわ目立って凄い身体のヤツがいた。筋肉の説明がすぐにできそうなボディービルダー然としたカラダ。花園にも出てる彼をすぐに僕は「ボディびるお」と名付けたのだった。そう、名付け親。

以降先輩も、のちにできる後輩たちも彼のことを誰も本名で呼ばず、びるおと言った。本人曰く「ボディびる夫」らしい。どうでもいいことにヤツはこだわっていた。宴会では1年時から皆を盛り上げる鉄板ネタを持っていて(大抵それは裸だけど)チームのムードメーカーになってゆく。ヤツと同じ試合に出たのは1年の頃くらいで、僕はずっと彼の背中を追い掛けることになる。背は小さくても強い、圧倒的レギュラーのWTBになった。

ラグビー選手はポジションごとに行動することも多い。スクラム組むFWと走るBK。その中でも細分化されハシゴする。梅田で飲んだら京都までの電車がなくなって、僕はFWだからびる夫とは違うはずなのに、大阪千林商店街抜けて太子橋今市辺りだった?ヤツの家によく泊まった。正確に言うと、ヤツの爺さん婆さんの家。彼には両親がいない(と聞いてたが詳しくは聞かなかった)し兄弟も離れて住んでいた。トイレットペーパーの補充もいい加減な家で、朝起きてトイレに行った時に僕は用を足した後、縁側を歩き棚の上のペーパーを取りに行った話はいつも彼を笑わせるネタだった。「ざんないなぁ」と新野新がよく使ってた言葉(貧相で見るに忍びない意の大阪弁)を互いに多用し、漫才作家の香川登枝緒の真似をしたらヤツは相当喜んだ。そう考えるとヤツはすでにその頃には、もうお笑いの世界に首を突っ込んでいた。思えばヤツは、ポジションを超えていつもなぜか隣にいた。

大学卒業後その世界を「支える側」に就職して、そこでラグビーのクラブチームを作る際、声を掛けられてまた深くなる。僕もちょうど、リゾートホテル業界(僕の就職の時、旅立ちの朝、京都駅にヤツは見送りに来ていた)から関西に戻ってきた頃だったのでチームに加入。そこでもヤツは実力を発揮して、皆を盛り上げ、圧巻のプレーを披露した。大学4年間それほど一緒にプレーできなかった鬱憤を、僕は喜びに変えた。試合はずっと嬉しかった。

彼はそのうち「芸能界」という華やかな世界を知り、タレントのマネージャーから地下にあったデッセジェニー(さんまさんが付けた、銭でっせの逆)というディスコの支配人になった。覗くといつもVIP待遇で、ええんかいなと懸念をするが、かまへんかまへんと大盤振る舞いをしてくれた。彼はその眩しい世界に、自分のステージも上がったと勘違いするようになっていた。

その頃から少しずつヤツの酒癖が悪い方に出て、少々どころかかなりヤバい方向へと進むにつれ(それは書く必要のない話ばかり)解雇される。ずっと世話になった金持ち(僕の店にも連れてきたことがある)にも変わらず可愛がられたおかげで、東京で何とかやってると連絡がしょっちゅうあり、そのうち僕は1995年の震災を機に連絡をしないようになったが、その間も、大学時代から母親代わりと思ってるらしい僕の母に電話をして、神戸の状況は知っていたようだった。そして街が復興の兆しを見せた頃、なぜか朝方に電話が多くなった。夜勤明けの仕事が終わって立ち飲みに行った時に借りた携帯から掛けてくる。毎回見知らぬ番号だから躊躇したが、彼との繋がりは唯一その電話で、以降は警備員、皿洗い、介護の仕事などと報告とともに職の続かない理由を都合よく言うヤツの性格を受け入れた。これも多くは書かないが、同期に始まり、後輩、そのうち先輩にも無心した。忘れた頃にやって来た神戸でも、先輩の店やウチにもツケをした。無論そのままである。

3年ほど前か。脳梗塞を患ったこともホンマか?と思ったが、東京の病院を知った。関東にいる大学の後輩がいろいろ動いたおかげで連絡も入ってきて、やれ食パン送って、チョコレート送って、あれがあれば助かるなどと周りの同窓生を巻き込んで頼ってくる。縁を切ったと言っていた同期でさえも結局放っておけないのは、同じ大学で過ごした4年間を想ってのことだ。僕もそうだった。しかし僕は食パンは送らず、2015年20周年の時に作った店の記念本を一冊だけ「甘えすぎるなよ また会おう」と書いて送った。

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身内がほとんどいないヤツを大阪の彼の姉ちゃんが受け入れ、しばらくして一人暮らしを始めた。もともとデジタルに弱いヤツだからFacebookをまともに始めたのは最近で、そこからよくわからない投稿をしまくっていた。金魚を飼い始めたことや、酒を飲まずに仲間に会うたびに投稿をした。メッセンジャーの電話機能で連絡してきたこともあったが、僕はスルーしてそっけないメッセージを返すだけだった。それからも時折コメントが入る。

最近で言えば、2月28日には書いたブログに「読み応えある文面やわ〜」とコメントをしてきた。3月20日には、クラッシック音楽会場でのRWC2019にちなんだ同期のナレーション、僕がアップしていた動画をシェアしていた。3月30日にはラグビー関係の仲間と楽しそうに飲んでる(酒じゃないはず)姿を見た。最後の投稿となったのは4月5日。ジローさんってオフコースのドラムやった大間さん。あの頃、松尾さん(ギター)、清水さん(ベース)とともに遊んだこともあったよな。なんだかんだ言いながら、ヤツは世話になった人を忘れずにちゃんと見ていたんだなと、どこか安心をした。

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ニュージーランドに単身渡り活躍した恩師坂田先生の関係で、大体大は夏合宿時ロリー・オライリー氏のコーチングを受けたり、NZ遠征を受け入れてくれたりと今も関係が続いている。この4月始めに来ていたOB会のメール「NZカンタベリー大学ラグビークラブのクラブハウス改修および財団設立への寄付およびご支援のお願い」は見ないようにしていた。正直のところ、今はコロナ騒動で他にボランティアの気持ちが持てなかったからだ。

なのに、思わずヤツの死を知ったこの日に振り込みをした。
びる夫、香典こっちに回してええよな。

「どないやねんっ ざんないなぁ」

ケンケンみたいに笑う、もう隣にはいないあいつの顔が浮かんでる。

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