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例えば、近頃のデザイン話。

2月も中旬を過ぎて、気温も肺炎ウィルスも不安定である。昼夜働く身としてはまぁ何かと影響はあるが、他にいろいろできる生業ゆえそれもいい。

自分のやりたいことが仕事になっているのは継続理由の一つ。無論若い時や組織に属している時には「やらなければならないこと」「やっておかないといけないこと」この微妙な言い回しの違いの幾つかをこなしてきた。まぁスポーツで言うところの「練習は嘘をつかない」と信じていた部分だ。

こういう、半ばトンネルの先の光を信じて突き進む段階において、その長さがどれくらいで、それは単線なのか走る車が何台かいるのか、道の幅はゆったりしているかつまり渋滞は起こっていないかなどと、GPSナビゲーションのない頭でただひたすらにスクラムやランパス(何人かで細かいパスをしながら延々と走り続ける、ラグビーで言う辛い練習)を繰り返すようなことは、ともすれば「これに何の意味があるのですか?」と上司に逆ギレする事由もありそうなものだが、トンネルの怖いところは挫折を選択できない(途中で抜けることができない、引き返せない)という前提で入ってしまうので、結局諦めよりも一歩ずつ進むという選択をせざるを得ない状況だった。

これはネガティブな話ではなく達成感への序章に過ぎず、ドラマティックな展開には不可欠なことだとおそらくはゴールを切った時に思うようになる。ただ、それはいつ訪れるかの不安にも苛まれることに繋がるし、確かに理不尽で不条理な過程は端折ってもいいが、工夫する、苦労することは尊い。そもそもトンネルに入らない人も多い。文字を書くこともスケッチを描くこともしないで、いきなりデジタルに触れそこに委ねる。コンピューターは「正確で楽」である。その過程、プロセスに疑いの目は持たない時代の縮図。

例えばCM。タレントを起用し何部作かの壮大なストーリーの展開も期待されるが、商品が何であったか印象に残らない本末転倒もある。トンネルという思考に消費者を引き込まず、交通量の少ない高速道路で「景色の残らない」誘導をする。合間にはキャンペーンを打ち、パーキングエリアで退屈を解消させる。これはデザインというよりは自動運転の世界であり、ドナドナ現象(意図とは反して運ばれる動物の様)と僕が勝手にそう呼んでいる。

そうして生まれるものの大半はオシャレ(アイロニーも含めて)だが「のようなもの」が多く、カッコイイけど消費される運命をたどる。器用なら誰でもデザイナー、加工アプリもあれば編集作業もできる。周りにもそういう輩が多くなったが、根本的にプロフェッショナルと素人の違いは明確だ。

デザインを日本語にしてみなさい。
そう問われて、デザインに関わる人間すら答えを持たないでいる。

プレタポルテとオートクチュール。デザインで言うところの、レディメイドとハンドメイドの違いを考えてみれば自ずと見えてくる。既製品のツギハギ、レディメイドで溢れている社会だと気づくと少々恐ろしい。

ともかく僕は、入らないと灯りが見えないトンネルが好きなようである。

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