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26年目の始まり。変わらない歩み。

先の連休「山の日」明け。今は店のカウンターで眠ってしまったお客を横目に書いている。コロナ禍とは言えども過ごし方を変えない人(もちろんお仕事は大変かもしれない)がいるおかげで、僕の平静も安堵もここにある。

つい先日のこと。震災の1995年8月に開業した加納町志賀は25年を迎えた。ゆえに神戸の人々が震災から何年経ったと話すたびに、店の年月を思い出す。開業日の8月7日を過ぎたら世間は盆休みになる。マチの人々とは違う日の捉え方をしているおかげで、なんとか諸々を保てているようだと判る。

続けられる秘訣は、他とは違う揺るぎない意識を持つことだ。

誰かの背中を追うでもなく、憧れを抱き続けるのでもなく、振り返れば自分だけの足跡を残したいと願っている。無論、尊敬する人はいる。手本とした人もいる。しかしながらそこには「自分」なるものはなく、あくまでも生きてきた環境に抗うこともなく(若い時は、抗いそれがやれていると勘違いしたものだ)、自分にしかできないことは何なのかに注ぐようになった。

25周年を迎えたことはこの時勢もあり大々的には告知、案内ハガキを送るなどはしなかったが、SNSにコメントやメッセージをいただいたことは大層ありがたく嬉しかった。その一つに、以下の文面を返した。

「いつもと変わらないというやり方が、なかなか難しいこの状況に
またチャレンジできる喜びを感じています」

この「チャレンジ」は今までとは意味合いが違う。挑戦とは派手に目立つ行動のことだけではない。黙々とただ淡々と続ける中で横槍のような波風はいつの時代にもあるものだが、まるで平均台を渡るかの如くフラフラとしそうな日々を、体幹鍛えながらバランス保つことを繰り返してきた。しかし今回は店を再開することも、お客を呼び込むこともマチに出ることも手探りに「新たに挑む」ような感覚が伴っている。考えると振り出しにも近い。


休みにあるレストランに行った。入り口にコロナ対策がなされている表示がある。メニューと共に、そうした対策をまとめたものも置いていた。文字だけでなく、幅広い層に対してピクトグラムを使った解りやすい試みがされている。空いたテーブルに次のお客を入れる拭き上げ準備も、少し大げさくらいがちょうどいい。違和感はない。今は、店側の姿勢を見せる時だ。

離れた席に50代夫婦と思しき二人が座った。マスクをしたまま、取り出した小さなスプレー容器をテーブルやカトラリーに噴射、おしぼりで丁寧に拭き上げ始めた。外食が戦いのように映る。この人たちとは開放的なアウトドアでも無理だろう。まず友達になれそうにない。ステイホームを勧めたい。

僕が店で「ちょっとそのボトル見せてください」とカウンター越しに言われ、拭いてから渡すのと、返してもらってから拭くのとどちらが印象がいいだろうか。お客に対しても店に立つ人に対しても抱く尊敬の念。その順番や振る舞いが、口にするあらゆるものの味わいを如何様にも変えてしまう。

外に出る限り、人と関わる限り、心構えと気遣いが要る局面も訪れる。ネットでは見えない素材感、風合いは触れないと判らない。リモートワークでできないことがマチにあり、最低限のマナーさえ守れば上手く付き合える。

スプレーをかけられる対象は大抵嫌われ者(菌だったり害虫だったり)だが、過剰なまでのその姿が周囲との隔たりを生んでいるということが、大いにあるものだと知るべきだ。ウィズコロナとは「自分たちだけが助かる」という意味では断じてない。コロナ禍で尚更、そういうものが見えてきた。


ともかく、僕の振り出しのようなリスタートが始まった。

誰もが飛び越したいこの人生ゲーム、一コマずつ景色を刻みたい。

サポートいただけましたら、想いの継続とその足跡へのチカラとなり、今後の活動支援としてしっかりと活用させていただきます‼️