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5-2 無力

 つわりがひどく、そのつわりが治まっても夏の暑さにやられた私は、九月くらいまで機能不全だった。それでも、母のそばにいたくて、徒歩20分+電車40分+実家の家族の車での出迎え15分をかけて、自宅アパートから実家まで通った。それに加えて、名古屋のアロマスクールにも通っていた。試験勉強もした。試験までに50回、誰かにモデルを頼んでフルボディ施術するという宿題もあったので、それもやった。一体どうやって日々を回していたのか、記憶が定かではない。ただ、毎日を駆け抜けたとしかいいようがない。

 もちろん、産科へ検診にも通った。毎回出してもらった超音波による赤ちゃんの写真を見せると、母は非常に喜んでくれた。しかし、さすがに毎日実家に通うことはできなかったので、私は母と交換日記をして、お腹の赤ちゃんの様子を書き綴り、母に報告することにした。母も母で、日記や絵を描くことが好きな人だったので、調子の良い時には、日々の何気ないことを日記に書いてくれていた。赤ちゃんの成長は、母にも私にも希望の星だった。


 しかし、お腹の赤ちゃんが無事成長する一方で、母は日に日に弱っていった。末期で見つかったため、既に手術のしようがなく、治療は抗がん剤のみで行われた。抗がん剤治療については様々な見解があることは承知で、私も当時は「抗がん剤は…」と口を出したくなったものだが、今はあれで良かったと思っている。あれが母と父にとって、あの時点での最良で最善の選択であり、あれしか選びようがなかったのだ。

 でも、それにしても、抗がん剤の威力はすごかった。母はみるみる内に弱っていった。話に聞く以上の威力で、「破壊力」とすら私は感じた。ただ、肝心の癌への効果は、今一つだった。母は、「髪の毛が抜けるのが嫌だから」と、髪の毛をブラシでとくことを止めたと笑って言った。その笑顔に、力はなかった。


 私はそんな母に少しでも元気になってもらおうと、いや、何なら私が癌を治してやろうと息巻いて、お腹の赤ちゃんそっちのけで自然療法の本を読みまくっていた。できる範囲で、グッズも取り寄せた。時には福沢諭吉さんが複数飛んでいくこともあったが、「後悔だけはしたくない」という一心だった。

 ただ、癌への自然療法の多くは、食べ物やサプリメントなど、「口から入れるもの」だった。元々食が細かった母は、ますます食べなくなり、食べられなくなり、やがて、口から何かを入れることを拒否するようになった。水すら飲みこむことが辛そうで、私は「これを飲めば治るよ」と言いたくなる気持ちをぐっとこらえるしかなかった。もう、これ以上、母に無理をさせたくなかった。苦しむ母を見て、「もういいんじゃないか」とすら、私は心のどこかで思うようになっていた。

 「口から入れる」自然療法以外にも、癌に対する療法はいくつか勉強したが、熱いお風呂に入るなど、何らかの「我慢」が必要なものが多かった。闘病の辛さに耐える母の背中を見て、私はこれ以上、効果があるかどうか分からない療法を「我慢して試してみて」とはとても言えなかった。私は自然療法の本を片手に、なすすべもなく、呆然とした。無力だった。限りなく、私は無力な存在だった。


 結局、私が最終的にできたのは、「アロマトリートメント」だった。いや、「アロマ」はつかなくてもいい。とにかく、母のそばにいて、母に触れること、これしかできなかった。ちなみに、少し専門的な話に道が反れてしまうが、癌などの患者に対してトリートメントを施すことは、癌の転移を促進するため禁忌とする意見もある。私はそれを承知の上で、でも、「触れ合う」ことのメリットのほうが大きいと自己判断で母にトリートメントをしていた。お考えの方は、ぜひ専門家に相談するか、自分でメリット・デメリットをよく勉強してから行うことをお勧めします。


 ある夏の暑い日、自宅で横になる母へ、私はハンドトリートメントをしていた。二人だけで、静かな時間だった。母は、ぽつりと私に話し始めた。

 「母親らしいこと、何もしてあげられないで、ごめんね」と。

 何を言っているのか、私にはよく分からなかった。私は末っ子として、存分に母の愛情を浴びて育ったと思っていた。小さい頃、母の膝の上に乗せてもらい、「電車ごっこ」をしてもらった記憶は今でもはっきりとある。楽しかった。手作りの洋服も、お菓子も作ってくれた。料理はもちろん毎日で、母の作るご飯はとてもおいしかった。中学校からは毎日お弁当も作ってくれた。受験勉強で忙しくなった高校時代は、学校まで送り迎えしてくれることも多くなった。一人暮らしを始めた大学は、とにかく金銭的に迷惑をかけた。私は恩返しをしなくてはならないほど愛情をもらった自覚はあれど、「母親のくせに、それらしいことはしてくれなかった」と責めたくなるような記憶は、一つもなかった。

 しかし、子供好きな母にとって、そして、ある意味真面目で努力家で正義感の強かった母にとっては、三人兄弟の末っ子の私への愛情の注ぎ方が、自分の感覚では不十分だったらしい。上の二人より、愛情という名の時間をかけていられなかったのかもしれない。世話好きな母は、すぐに赤の他人に対しても世話を焼いてしまう癖があったのだが、それが特に自分で気がかりだったようだ。よく行くスーパーでレジを打っている若い女の子が、アルバイトをして学費も生活費も稼いでいる苦学生だと知るや否や、お弁当を作ってあげて自宅まで届けに押し掛けるという世話の焼きっぷりだった(もちろん、頼まれてない)。とにかく、誰かの世話を焼きたかったのだろう。しかし、「そんな他人の面倒を見るくらいなら、家のことをやりなさい」という意見も家族内にはあったらしく(大人になってから知った)、それを母は気にしていた。「他人の面倒なんてみてないで、もっとあなたのことを可愛がれば良かったねぇ」としみじみ言っていた。私は、「そんなことないよ。十分、私は可愛がってもらったよ。今度は、私が親孝行する番だから。お腹の赤ちゃんも、ばぁばに会えるのを楽しみにしているよ」と言った。

 すると、母は両手で私の手を握り締めてきた。手の力は弱かった。もう、弱っていた。けれども、握り締めるその力が、母の精一杯であることが、私にはわかった。

 母は震える声でこう言った。「死にたくない。死にたくないよぉ」と。

 母には余命が告げられていなかった。母自身も、表面上では、直前まで死ぬつもりがあまりなかったように思う。しかし、やはり心のどこかで感じていたのだろう。自分の死期を。

 母は力一杯私にすがり、「これから孫が生まれるんだ。これから最高に楽しい第二の人生が待っているんだ。死ぬもんか。ここでくたばるもんか!」と言った。

 私はそんな母の手を握り返し、「大丈夫だよ」と言うしかなかった。もう、こんな辛い現実からは、本当は目を反らしたかった。けれども、逃げられなかった。逃げずに、そばにいること。今にして思えば、それが私にできる親孝行だったが、当時は無力感しかなかった。

 その三か月後、母は空へと還っていった。「最高に楽しい第二の人生」を迎えることなく。

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