見出し画像

【短編小説】海とわっか

 真っ黒に日焼けした肌とは対照的にサマーワークはどの教科も真っ白で、頭がくらくらしてしまうのはカンカン照りの太陽のせいだけじゃない。冷蔵庫にマグネットで張り付けてある新幹線の乗車券。サイダーを取り出すたびに目につくそれには明日の日付が黒々と書かれていて、夏休みの終わりを意味している。田舎のばあちゃんちの生活にも、ここで出来た遊び仲間にもさよならだ。ちょっぴりさみしいけど、家に帰ってママから怒鳴れることのほうにもう気持ちが寄っちゃってビビってる。勉強道具を詰め込んだが最後、一度もひもを緩めていないナップサックをひっつかんで畳敷きの居間の襖を開ける。ちゃぶ台に陣取って宿題に取りかかる。

 気付けば僕は海の底にいた。ユウタやシロウくんと毎日のように潜った海の底。赤やオレンジ色の魚たちが目の前を横切って、その先には薄桃色のサンゴ礁の大群が広がっている。柔らかな砂の感触が足裏から伝わってくる。一歩一歩踏み込めば、そのたびに砂が舞い上がって視界がきらめいていく。ゴーグルも必要なかったし、呼吸だってできた。吐いた息がサイダーの泡のようにジュワッと音を立てて光が揺れる遠い海面に上っていく。夢中になって歩いていると何かにつまずいた。

 見ると海底に、古い家のドアをノックするときに使うようなわっかがあった。外国のファンタジー映画でよくみるやつ。重たい赤茶色の木のドアにライオンの彫刻が取り付けてあって、その口から垂れ下がっているわっか。三回トン、トン、トンと鳴らせば中から大男のトロールが出てくるような、そんなわっかだ。

 僕は怖いもの見たさでトン、トン、トンときっちり三回ノックしてみた。ノックが終わった瞬間、強い力で引っ張られるのを感じた。僕は必死に抵抗して、そのまま尻もちをついた。耳をつんざくような大きな音がして海底が右に左に揺れた。なんとか顔を上げればパックリと地面が割れて、深い暗闇が顔を出していた。

 その暗闇はブラックホールのように砂も海水も飲みこんで、魚たちやサンゴ礁、ヤドカリ、海藻、そこにある何もかもを引きずって、深い暗闇の底へと落としていった。僕だけが取り残されて、よろめきながら立ち上がれば岩肌が地平線の先まで広がっていた。太陽が痛いくらいに肌に降り注いで、世界から海が干からびてしまったことを教えてくれた。

 おおぃと、遠くから声が聞こえる。体が揺さぶられるのを感じて、ハッとする。ばあちゃんが隣にいた。畑仕事から帰ってきたらうなされてるんじゃもん。怖い夢でもみたか。

 ばあちゃんが用意してくれた塩入りの水を一息で飲み干した。強にして回してある扇風機のモーター音にまじって庭の先からいつもの潮騒が聞こえた。なあんだ、夢だったんだ。日が傾いて夏の日差しに照らされた畳に寝転がって巻き上がる埃のきらめきに目を細めた。鉛筆の代わりに握りしめられている錆びたわっかのことは、考えないようにした。

【あとがき】
  小学生の頃、転校した学校になかなか馴染めなくて、昼休みは図書室でずっと本を読んで過ごしていた時期があった。当時好きだったジャンルがファンタジー小説で「ハリーポッター」シリーズを筆頭に読み漁っていた。僕の読書好きの原点はここにある。純粋なファンタジーものよりも、現実の世界に住む主人公が異世界に迷い込む話が好きで、今回の作品のように夢オチに見せかけて、あれ…?っていうような展開にドキドキしていた。現実から逃げ出して違う世界で冒険したいという願望が滲んでいたんだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?