結論が無くてもいいじゃないか
今まで小説は、その意味とか、それは何を象徴しているのかとか、それは何を示唆しているのかとか、そういうことを考えながら読んできた。
いわゆる、解釈しながら読んできた。
しかし、最近は小説を読むときはそういう能動的な解釈が要らないのかもしれないとも思うようになってきた。
というのも、小説は「端的に説明できるような意味」とか、「意図」とか、そういうものの集合体ではないんじゃないかと思うからだ。
そもそも、そういう端的に説明できるものであれば小説という形態を取り得る必要性が無い気がする。
小説という形態でしか表現できないことは、小説という形態でしか理解することも難しいんじゃないかな、とそういうことだ。
これは他の例でも言える。
俳句は、俳句として作られている。
だから俳句を原稿用紙何枚分かで説明しようとしても意味が無いのと一緒だ。
もちろん、研究の対象としてはそれでいいかもしれない。
一つの解釈を与えてみるというのも試みとして面白いかもしれない。
しかしいちばんいい俳句の味わい方は、俳句を俳句として読むことのような気がする。
カレーライスが何故美味しいかを説明してもいいのだが、それよりもカレーライスを食べて美味しいと感じることの方がカレーライスにとっても本望のような気もする。
* * *
解釈をしないで読みたいなと思うようになった理由は他にもある。
ある出来事の意味っていうのは、かなり後になってから分かってくるもののような気もするからだ。
それは、歴史を勉強していると、感じる事でもある。
ある出来事は、その起こった瞬間はいったい何であるかが良く分からない。
下手をすると10年くらい経っても分からない。
100年くらいすると、
ああ明治維新って日本が西洋化した大変革だったんだな、とか、
黒船がやってきたあの瞬間がすべての始まりだったんだなとか、
結局、織田信長じゃなくて徳川家康が後世を作ることになったのだな、とか。
そういうことがようやく分かる気がする。
こういうマクロ的な話だけではなくて、個々人の人生のあらゆる出来事も同じだと思う。
自分の人生を振り返ってみても、ある出来事の意味は10年くらい経たないとよく分からなかったりする。
「あの時、大学受験に失敗したのはむしろプラスだったな」
とか、
「あの時、転職したことは大成功だったな」
とか、
「あの時、うまくいったのは今思うと奇跡だったなぁ」
とか・・・。
人間万事塞翁が馬じゃないけど、ある出来事の意味とか価値とかそこから学べる教訓や、気付きなどはかなりあとになってからようやくなんとなく分かったりする気がするのだ。
小説も、ある出来事の集合体である。
だから、それらの出来事の意味とか解釈はすぐにしなくてもいいのかもしれない。
* * *
じゃあどうやって小説を読むのがいいのか、という点についてだが、「覚えるように読む」というのが一つの方法かもしれないと思う。
一つ一つを理解しようとしたり、解釈しようとしない。
ただ、(細部も含めて)「こういうことがありました。」という物語をそのまま頭に放り込めば良いのではないか?
頭に放り込んでおいて、あとになってふと、その小説のある情景や言葉を思い出したりする。
頭に放り込んでおいて、とりあえず、「なんかよかったな。」としみじみする。
そういう読み方でいいのかもしれない。
これはたぶん映画とか音楽も同じような気がする。
映画も、映像として脳に放り込んでおく。
セリフを脳に放り込んでおく。
音楽も、解釈するのではなくとりあえずメロディを楽しむ。
フレーズを楽しむ。
音楽を聴くように小説を読むと言ってもいいかもしれない。
* * *
「容易に答えの出ない事態に耐えうる能力」のことを、ネガティブ・ケイパビリティというらしい。
元々は、詩人のジョン・キーツの言葉らしい。
答えとか、結論なんてそんなにすぐに出さなくてもいいのかもしれない。
だから、小説を読んで「結局、何が言いたかったの?」「で、何?」みたいなことを考えなくてもいいのかもしれない。
私は本や映画の感想をnoteに書いたりしているのだが、今後も「だから何?」みたいなことにこだわりすぎずに書いていきたいなとも思う。
結論を急ぎすぎない。
結論がなくてもいいじゃないか。
そういうネガティブ・ケイパビリティ的な態度も備えたい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?