見出し画像

峯澤典子×古屋朋 対談『てばなし』刊行記念 vol.9

魂の時計をうごかす詩の時間。



古:一回やめようかな、と思った頃もあったんですが、結局戻ってきてしまいました。(笑)

峯:詩は、本当は、書いているときの楽しさを感じられればそれでいいと思うんですよね。

これで認められるとか、あの人はすごいとかそんなふうに周囲を気にしていると書くのが嫌になっちゃったり、誰にも届かないとか思っちゃうのかもしれないのだけれど。

でも、大切なのは、古屋さんが仰ったように、書いているときに自分が癒されていく、ということですよね。みんな忙しくて雑多な日常を送っていて、そこで自分を抑えていることも多いけれど、詩を書いているときだけはまっさらな自分に会える喜びみたいなものがありますよね。

古:ありますよね。

峯:詩を書く楽しさがあるとしたら、その一点しかないなって思うんですよ。

私もいろんな付き合いがあって、いろんな誘いがあると気持ちも泡立つし(笑)。

でも、家に帰ったあと、寝る前に少しでも自分だけの時間があるとしますよね。その時に大好きな詩を読んだり、書いたりしていると、詩という行為が自分にあることが本当にありがたいんですよね。

この前ある詩人と、詩を書くこと以上に楽しいことはないよね、という話をしたんですけれど。

詩を書かないと辿り着けない場所があって、そこに行けるという経験を一度しちゃったら、もう、やめられないよね……って(笑)。

詩を書く時以外はひらかれないその空間に入っていく、扉を何個も開けて入っていく。その面白さを一度味わってしまうと、詩から離れたつもりでいても、本当は離れられないんですよね。逆に言うと、その場所に戻ればまた詩が書ける気もするし。

古屋さんも、二冊目にして、ご自身のなかで詩を書く面白さや詩を書く意味というものを確かに捉えられているので、そのあたりが古屋さんの信頼できるところといいますか。

第一詩集を読んだときに本当に最初の詩集なのかな?って思ったんですね。言葉も確かで、すでに独自の書き方があって。みずみずしいんですけど、この人は自身の中に揺るがないものをお持ちなんだなって。さっき仰ったように、自分が癒されるために詩を書くことを続けていらっしゃることが、詩の言葉に表れているのかな……と。

古:そういえば、本当に最初に詩と出会ったのは小学校の時ですね。
みんなでポエムを書いてみましょうという授業があって、書いた詩を廊下に展示するんですよね。誰が書いたかはわからない形で。

その頃、軽くいじめられていたんですけど、いじめっ子のお母さんが私の詩をみてすごくいいねって言っているのをたまたま見かけて、それがうれしくて。いじめとか面倒な人間関係には関係のない場所があるんだなって、幼心に思っていました。

今回このような対談の機会をいただいていろいろ話すことを考えていたなかでだんだん思い出したんです。本当に一番最初の詩との出会いって何だろうと。いろいろな悲しいことや、やるせないことがあっても、気にならない世界があるんだって知れたのが大きかったと思います。

そのことが根底にありつつも詩作はそのあとはしばらくせず、小学・中学のときは、小説を読むことにのめり込んでいたので小説を書いていたんですけど合わなくて長続きしませんでした(笑)。

あとは、中学のころに長編小説をひとつ書いたら満足して、やり切ってしまった。そこからは本を読む日々が続いて…。そしてなんだかんだあって高校にあがってバンドや音楽というものに目覚めていって。

峯:それで詩心が?

古:はい、詩心が活性化したというか……。まさに「微熱期」というか、何か自分のなかに沸々とあったものを出したい、表現したいというのが一定期間あって、そのわたしのなかの微熱があるときパーっと解放された。

峯:わかります。

古:そのきっかけが、私にとっては音楽とか。不思議なんですけど、詩を読むよりも音楽を聴くと何か表現したり作り出したりしたい!と奮い立つものが出てくるんです。

峯:わかります。日常の文脈や流れで言ったら、クラスの中での自分の立ち位置だったり、つらいことから逃れられない時間がありますよね。

でも、詩というものを書くときに、それとは別の時間軸が生まれますよね。自分自身がここにいることの意味がぼんやりと見えてきたり、遙かな場所から不思議な風が吹いてきたりしますよね。詩っていう方角から。

私もずっと小さいころから、日常の時間と詩を書いているときの時間というのが並行しているようでいて、別個にある感じがしているんです。私は、本当の命の時計が動いているのは、詩を書いている時間だけだと、小さい頃から思っているんですよ。

古:「魂の時計が動いている。」

峯:そうですね。もちろん日常の時計も動いていて、毎日が過ぎていきますけれど、それとは別に詩の時計があって、詩の時計が動くときだけ、動く命があって。それが自分の本当の命じゃないかな、と思っているんです、昔から。古屋さんが仰っているのもそういうことだと思うんですけれど。違う時間軸があるんだっていうことが詩によって発見されるというか。

詩は、自分のよりどころでもあるし、自分が発見するから現れてくる世界でもあると思うんですよ。だからある意味、日常が受動的な世界だとすると、詩の時間というのは能動的に生きている時間ですよね。

古:そうですよね。


vol.10 「帰る場所としての詩。」へつづく


古屋朋『てばなし』のご購入はコチラから
峯澤典子関連本は
コチラから


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?