ひとなつの巡礼(神泉薫『白であるから』より)

わたしたちよりもずっと低い
大地の皮膚にもっとも近い目線で
空と地を分ける あの果てのない地平線を目指している
無数のつぶらな黒い生き物
初夏のさわやかな風のただ中で
一心に連なっている
蟻の行列
つつましやかな
寡黙な足並みは
ときに背に負う蝶の遺骸をも
清潔な生の循環を教える手立てとして
区切られたまなざしの世界像のひとつとして
物言わぬ温かな吐息とともに
わたしたちに知らせる
ひとつぶ
ひとつぶの
小さな身体をめぐる愛おしい記憶のかけら
螺旋にうねる時の波しぶきの中へ
放られたかじりかけの林檎
錆びた自転車の車輪
窓から見る月
子犬の足跡
影は伸びてゆく
目的地を持たない列車が運ぶ
モノクロームの冷たい季節を人はいくども潜り抜けた
傍らで地を這う
蟻たちは
永久に変わらぬ目線で
大地と呼吸を合わせていた
すぐそばに立つ樹木の根が
そよぐタンポポが語りかけていたから
白いキャンバスシューズの子どもたちが
はしゃぐ声を天に届けながら走り抜けていったから
砂糖
はちみつ
あめ玉の
健やかな甘さが好き
気温 二十八℃
恒常的希望を感知する触角は
朝露のきらめきにいつも磨かれていた
蝉しぐれ降る夏の
未だ余白に満ちた人類の
観察日記は終わらない
慈悲深い神のように
ただひとつの手のひらを開いてみれば
そっとよじ登る黒い蟻
ひと時の体温へ刻まれる文字と化しては逃げてゆく
くすぐったいカリグラフィー
指の狭間からこぼれ落ちる
時の狭間からこぼれ落ちる
闇色の肢体に
光へのオマージュを携えて
いつだって
大地を歩くんだ
並々と連なる祖の背中を見つめて歩くんだ
青い草の匂いのする道行のかなた
琥珀色の夕陽が落ちるまで
もうすこし
ひとなつの
巡礼は
つづく



神泉薫『白であるから』収録
発行:七月堂

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