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コロナ時代の道のカフェ

 二度目の緊急事態宣言が延長されそうだ。
 感染のすそ野がいぜん広いのだろう。そこからハイリスクの高齢者に影響が及んでしまっている以上、やむをえない判断なのだろうが、自分の身近にもたくさんいる飲食や観光などの仕事に関わる人たちのことを思うと胸が痛い。

 まもなくコロナ下での二度目の春が来る。すでに窓の外はうららかな陽気だ。一方、心の内は見えない先行きに滅入るばかり。パンデミックがこれほど長引くとは、少なくとも去年のいまごろは想像していなかった。
 これを書いている今日は3月4日。思えばきょうど去年のこの日、ブラジルのサンパウロに到着したのだった。そしてその後、3月11日にパンデミックが宣言され、ブラジルでもあれよあれよと感染が拡大する。街はロックダウンされ、帰国便は欠航、ブラジルに取り残されるという前代未聞の事態に陥った。
 前代未聞とは言うものの、じつは10年前にもちょっと似た出来事はあった。東日本大震災が起きたときのことだ。2011年3月、ぼくはウガンダにいて、そこで震災の発生を知る。その直後、原発が爆発した影響で、日本への運航を取りやめる航空会社が相次いだ。エミレーツ便の片道チケットで1週間後に帰国できたのはよかったが、ガラガラの機内でひとり落涙させていたときの、行き場を失った感情をいまもありありと思い出すことができる。

 帰国後、被災3県をがむしゃらにかけずり回った。たくさんの写真を撮った。でも、時間が経って脳裏に蘇るのは、撮れなかった瞬間のことだったりする。人の痛苦を見て、撮って、写真を持ち帰るばかりでいいのか。そんな葛藤から生じた問いに十分には向き合えていないうしろめたさをいまも引きずっているからだと思う。
 当時、社会には目には見えないさまざまな断絶があったと思うが、自分の心の中にも写真を撮ることでは埋められない溝があると感じていた。その隔たりをどう乗り越えていけばいいのか。そんなことで悩んでいたとき、「道のカフェ」というプロジェクトに参加してほしいという誘いがあった。
 チームの中心は、「いまこそカフェで人と人をコネクトしたい」という思いを抱えていたスターバックスの人たちだ。被災地でその日限りのカフェを開くことで、被災した人たちに少しの時間でもリフレッシュしてくつろげる場を届けたい。そんな熱い思いに共感した松下政経塾の有志が企画をプランニングし、キヤノンの社員がプリント係として参加することになった。そうして立ち上がった道のカフェに来る人たちの写真を撮る。それがぼくの役割だった。

 2011年7月23日、はじめての道のカフェが陸前高田市の米崎中学校仮設住宅団地で開催された。
 淹れたての一杯のコーヒー。それを誰かと一緒に飲む。そんなありふれた日常が仮設住宅の一角に帰ってきた。仮設入居者や地元の人もグリーンエプロンを着て運営を手伝った。知った顔同士でコーヒーを味わっていた人たちが、「あなたもまざりなさい」と外から来た人たちを“お茶っこ”の輪に招く。それぞれのカップにはその人の名前が書かれている。互いの名前を呼び合う関係の中で会話がはずむ。震災の話も聞かせてもらう。当事者と部外者の垣根は少しずつ低くなっていった。被災後、道のカフェではじめて再会を果たした人たちもいた。そんな会話と再会の時にレンズを向けた。
 撮った写真をその場でプリントしてプレゼントした。思っていた以上に喜んでくれた。多くの人が写真も含めてなにもかもを津波で失っていたから。被災地で写真を撮りながら、内心では自分はそこにいるべき存在ではないと感じていた。だから、写真を撮ることが誰かの喜びになることを実感できたのが素直にうれしかった。被災者を元気づけるつもりだったが、結局、元気づけられていたのはぼくのほうだった。

 東日本大震災からまもなく10年が経つ。本来ならいまごろ、岩手と宮城、福島の沿岸部を移動しながら、撮影が縁で出会った人と出会い直す旅をしようと考えていたが、いまだコロナ禍に阻まれている状態だ。
 人と人との距離感を保つことが求められるあいだにも、被災地の風景はどんどん変化し、人の記憶は徐々に薄れ、交流の機会も少なくなっていく。感染症の脅威によって、人とのつながりが奪われているいまこそ、未来への道を拓く一杯のコーヒーと、生身の語り合いが求められていると感じる。
 コロナ時代の道のカフェは、どんな形であるべきなのだろうか。

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