遊びと仕事、それは対極にあるもの?

「公私」「仕事とプライベート」
そういった認識における分け方をする方は多いような気がする。

その中で「遊び」はどこに位置付けられるだろう。

「遊んでんじゃねえぞ」
仕事中に怒られる時に偶に聞くような、そういったイメージがあるフレーズ。
正直我々自身、他の人にそういった想いを抱いたことも多少ある。

そういう時どうしてもいろんな疑問が頭に浮かぶ。

遊びと仕事は共存しないのか?
そもそも”遊び”ってなんだ?”仕事”ってなんなんだ?
なぜ遊んでいてはいけないのか?
どういう状況だと良しとされて、どういう状況だと悪とされるのか?

よく使う言葉、よく使う概念、当然なもの、
そういったものこそ改めて自分で考えてみると、足元が崩れるような、今までの常識が常識でなくなるような、あると思っていた枠が実は存在しなくて、ふと気づいた時にはパッと視界が開けるようなことが往々にしてよくある。

今回は”遊び”を定義からもう一度考えてみよう。

あそび【遊び】

1 遊ぶこと。「—に興じる
酒色ふけったり賭け事したりすること。遊興。「—で身を持ち崩す
仕事がないこと。仕事ができなくてひまなこと。「受注がなくて当分—だ」
物事ゆとりのあること。「芸に—がある」
機械などで、急激な力の及ぶのを防ぐため、部品結合にゆとりをもたすこと。「ハンドルの—」
文学上の立場で、対象理性的に突き放してみる傍観者的な態度森鴎外示したもの。
7 「遊び紙」の略。
詩歌音楽舞い狩猟などを楽しむこと。
「—は夜。人の顔見えぬほど」〈二一四〉
遊び女(め)。
「—どもの集ひ参れる」〈源・澪標
10 《「神遊び」の略》神を祭るための舞楽神楽
豊の—をするが楽しさ」〈神楽・篠〉

ー デジタル大辞泉 小学館 weblio辞書より

おそらく3番的な感覚から仕事との対比として使われることが多いのだと思う。

個人的には4番以降(4、5、6、8、10あたり)の意味合いやイメージに注目したい。元々の語源を調べてみる。

「遊」漢字の語源

漢字の「遊」は、「辵」と「ゆれ動く」意と音とを示す「斿(ゆう)」によって構成され、「ゆっくり道を行く」意を持つと共に、「あそぶ」意をも表わしている。 
ー wikipedia参照

語源と辞書の意味を通して、やはりここでキーとなるのは”ゆとり”ではないだろうか。

ゆとりがあるから物事を楽しむことができるし、ゆとりがあるから神と繋がる(少なくとも感覚やセッティング、考える)ことができたのかもしれない。

このゆとりは仕事の中で不要だろうか。

せかせかした日常。
しかし求められ続けるクリエイション、新しさ、革新。
人が必要なもの、ニーズを感知して寄り添い、解決する。
自分が忙しくて余裕がなかったとして、そんなことは本当にできるのだろうか。

そのゆとりを取り戻すための一つの方法は、自分にとっての「遊び」にもう一度立ち返ることかもしれない。

そう考えていくと、遊びと仕事は必ずしも分離したものではない。
分離しているものも中にはあるかもしれないが、共にある場合もあれば、適度にどちらも一つの流れの中に持っているからこそ生み出されるものもある。

その自由さ、柔軟さ、そのワクワクした感覚を忘れずに、
できるだけ多くの人がその中で過ごしていける社会に向かって進み続けたい。

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