No.175 「桃源郷日和」と故郷の桜

 実家の祖母が亡くなった都合で, 普段は帰省していない時期に帰省している. おかげで地元の遅い満開桜に思いがけず遭遇することができた. 特に今日は正に「桃源郷日和」と言ってよい素晴らしい日で, どこへ行っても素晴らしい光景を目にすることができた. 

 先週は祖母の遺影を片手に京都にも奈良にも行ったが, 久々に地元の町中を歩いたり, あるいは車で走って遠目にみた「桃源郷日和」の故郷の桜は, 長らく実家を離れ, ある意味今では見慣れた京都や奈良の観光名所の桜よりも素晴らしいとさえ思えた.

 何より外国人(最近の京都は日本人より外国人観光客の方が明らかに多い)はおろか, そもそも人が誰もいない. 人々の喧騒とは無縁の静寂の中にたたずみ, サラサラとただ静かに散っていく桜が森に, 川沿いに, そして山々にと, 目に入る至る所に連なる様は, 本当に何とも言えないほど見事である. 桜が国花であり, そしてまた日本人は津々浦々に至るまで桜を愛でている様をこれ以上ないほどに思い知る. 

 中には田んぼや畑, あるいは山や森の際にポツンと一本だけ咲いた桜もある. それはソメイヨシノに限らず, 時に枝垂桜であり, 八重桜であり, 山桜であるのだが, そこには必ず田舎特有の塚か, 祠か, 墓がある. そして恐らくはそれらを作った, あるいは管理している人達の祈りや願いのようなもの, より素朴に人間の存在や奇跡の類を感じられることに喜びを感じる. そう, 人が, あるいは人の営みが確かにそこに生き, 息づいているのである. 

 観光地ではない, 有名なところでもない. 今では寂れゆく, 片田舎に過ぎない我が故郷にあってさえこんな文化が, 祖母が亡くなった今になお, 確かに残っている. あるいはこれが滅びゆくわが故郷において, 我々に最後に残されたものなのかもしれない. もしかしたら「花のあとさき」のムツばあさん達が残そうとしたものは正にこれだったようにも思う.

 それこそ「華鳥風月」ではないが, 


何処までも美しくあれ
いつまでも美しくあれ

と願わずにはいられない. 正にそんな「花鳥風月」の, 「桃源郷日和」と故郷の桜であった.

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