見出し画像

瞑想の達人は”悟り”を求めていなかった

坐禅や瞑想アプリが、コロナによりダウンロードが伸びたとききます。
心の安定には瞑想がいいっていうのは、ヨガや仏教を学んでいる人でなくてももはや、実感としてみんなの中にある時代なんでしょうね。

先日も仕事で、瞑想の達人約20人に話しを聞く機会がありました。
その中からこぼれ話的な小ネタを忘備録的として書いておこうと思います。

瞑想の達人は”悟り”を求めていなかった

達人に共通していたいのは、瞑想の体験に重きをおもいていないということ。と、言うと語弊があるけれど、実際、40年以上に渡り瞑想をしている達人たちは口を揃えて言いました。

朝夕2回実践するとすれば、1年で700回、10年で7,000回、40年だと30,000回も瞑想をするわけで、そうするといろんな瞑想があっていいわけで、毎回「真我と繋がった!」なんてことにならなくてもいい。そこが重要じゃなくなるし、そもそもそれって不可能だということのようです。毎日毎日世界中のごちそうは食べられないよ、飽きない白ごはんとお味噌汁があればサイコウ、みたいな感じなのかな?あれ?違うか…。

と、そんな一球入魂な体験をしなくても、みなさんが口を揃えて言うのが
・すっきりする(朝瞑想)
・鎮静する(夜瞑想)
・睡眠の質があがる(夜瞑想)

つまり、”ととのう”ということは間違いないようです。その効果は睡眠よりも高いと言われています。ある先生は「仮に神のビジョンがみえたとしても、それが一体なんの役に立つのか」と。「瞑想は求めるものではなく、離れるものだ」とも教えてくれました。

そうやって、歯磨きをするように淡々と習慣的にやっていると、脳は変容してくるそうです。変容するとどうなるかというと、ブレなくなります、迷わなくなります。なぜかというと、瞑想により潜在意識とつながるようになるから。それだけでも、すごい!十分だわ〜ってわたしは思うのです。(まだ一ヶ月なのでそこまでいけてませんが)

そんな中、時たま、真我とつながれる。真我というのは、「魂」とも言われている「本当の自分」のこと。話がちょっとそれますが、今「これが自分」って思っている自分って「幻」ですからね!(by 釈迦)

話を戻して──。ある先生は、つながったときの感覚を、こう言っていました。「静かで安心する場所。ここはいいな〜」と。ある先生は「心の動きが止まっているので、戻ってきたらすべて忘れています」(えーー!マジか!)。他には「光につつまれた」とか「全身がシビレた」とか「自分の中にあるブラックホールのようなものにひき込まれて、自分が無くなっていく」とか。とにかく、「なにも不安も心配もなく、自分自身でいられるめちゃくちゃリラックスできる場所」のようです。それは確実に気持ちがいいはずですね。

最後に、言っておきましょう。冒頭に「悟りを求めていない」といいましたが、達人たちが適当に取り組んでいるということではありません。みなさんそりゃ究極のゴール「悟り」に向かって修行しているのです。その瞑想歴を聞くとみなさん、インドをはじめ世界中でインテンスな瞑想修行されてきています。ただ、「求める」ことはズレているし、「今生でたどり着けるかどうかわからないほどの、究極のゴール」であるということを知っているのですね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?