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他人の自己肯定感のあげ方なんてYouTubeのゲームCMくらい信用できねえ

SNSをやっていれば、自己肯定感という言葉を嫌になるほど見る。
YouTubeの中国人が「カキン スレバ ツヨクナレル!」みたいなカタコトの日本語で話す広告と同じくらい見る。
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社会はみんなの「なりたい」の集合体。

マゾ猫は思うわけです。
今の社会で求められているものって、みんなの「こうなれればいいよね」であると。
それがいつの間にか「こうあるべきだ」というものになってしまった、と。
安定した仕事、素敵な恋人、美しい容姿。
丁寧な暮らしに、完璧なワークライフバランス。
みんながそれをかなえているように”見せかけている”だけな気がしている。

早い話が、仕事がバリバリできる先輩も、部屋はめっちゃ汚いかもしれないし、水道代滞納してある日流れなくなってるかもしれない。
丁寧な暮らしをしているあの人も、その暮らしに時間を割くために、職場ではドチャクソ忙しいのに定時にすぐ帰るから「ちょっとなあ……。」って思われてるかもしれない。

結局は、見えてるものや見せたいものしか見えてないから、全部偶像の可能性がある。

何もかも完璧な人間なんて居ないのに、みんなが外では完璧を演じているから、自分も完璧でいなければと思い込まされて、他の人と比べて、自分は不出来だと思ってしまう。

それが、自己肯定感が下がる理由だと思ってる。

SNSでの自己肯定感のあげ方なんてもの、YouTubeのCMくらい信用できねえ。

そうなってくると、自己肯定感を上げなきゃ上げなきゃと思ってしまって、SNSを開くとやれ「〇〇という商品を使って半身浴すると、肌がもちもちになって自己肯定感が上がる~」だとか「〇〇を利用すると自己肯定感が上がる!」なんて、おありがてえ綺麗なお言葉が乱立してるもんで、ついついやってみてしまうけど、本質的に思うところがある。

そもそも、容姿を整えることに大して興味が無い人間が、肌がもちもちになって自己肯定が上がるのか?

人は生まれも育ちも、かけられてきた言葉も違うから、言葉の意味も価値も人それぞれちょっとづつ違うのに、その「かわいい」は自己肯定感を上げてくれる価値のある言葉になり得るのか?

そもそも、本質的に自分が何を望むかがわかってないのに、”自己肯定感が上がる”なんてキャチーなCMにつられて、大して上りもしないのにやってみると、一時的に上がっても、またすぐ嫌なことがあったら沈んでしまうと思う。
そんなCM、10連ガチャのゲームCMより信用できねえぞ。

じゃあどうやって自己肯定感を上げればいんだよ

ここで、自己肯定感について一度立ち返って考えてみてほしい。

自己肯定感とは、自分の存在そのものを認める感覚のことです。他人と比べることなく、ありのままの自分をかけがえのない存在として肯定すること。
……らしい。

そんなこと言われても、自分がそもそも大して好きじゃなかったらどないするねん。

そこでマゾ猫、もっと噛み砕いて考えた。

ようは自分の事を好きになればええんよな?
自分のことを、人と比べなくていい段階までもっていけばええんよな?

すなわち、なりたい自分を想像して、どういう自分なら好きになれるかの目標をもって、そこに向かって努力をする。
そしてその努力の積み重ねが、自己肯定感なんじゃないかと。

現にマゾ猫、それをおもいついて、ジムに行っていた時期がある。
その時期、結局「もっとあの人のようになりたい」ではなく、「こんなに頑張って自分の身体がこう変わった。もっとこうしていきたい、これならできる!」と自分に目を向け、自分のできることに邁進するようになった。

今の現実と、自分の努力をきちんと見て、手の届く範囲の努力を自然とできるようになった。要は高望みしなくなったという事だ。

勿論、高望みが悪いわけではない。だが、高いところにある目標にひとっとびで行けるわけはなく、地道に重ねた階段を昇らないとそこには行けないので、その階段をいっぽいっぽ踏みしめて上がるという事を覚えたのである。

結論、自己肯定感とは「人のこうあるべきだ」を取り除いて、なりたい自分を本質的に考えて、そこに努力をしていった道のりなんじゃねえの。知らんけど。


今日も誰かの生きづらいが、少しでも楽になりますように。


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