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好きな人「語尾の音が妹と同じだから付き合えない」私「なんて?」
天国に向かって昇るような高揚感なのに、速度は落下のそれだった。
ああ、これが恋に落ちるってことか。
26歳の私は、久しぶりにその感覚を味わった。
二年ほど恋愛市場から身を引いていた私は、2024年4月、ある男性と出会った。
始まりはX(旧Twitter)だった。相互フォロワーでそれなりに長く、たまにリプライを飛ばし合う程度の仲。
頻繁にやりとりをするというわけでは無かったが、食いついてくる話題やそのリプライの思慮深さ、意見の持ち方や伝え方でずっと興味を持っていた。
1月、2月とコロナや後遺症、産休中だった前任が仕事復帰する上での準備やらで、自分の時間なんてものはそっちのけで生活をしていた中、3月になり、ふと交友関係を広げよう、興味のある人に自発的に会ってみようと思いたった。その時に、会ってみたいと思ったのが彼だった。
何か、素敵な誘い文句でお誘いしよう。私は、会いましょうというDMを貰っても、興味の起こる文面でないとすぐに断るから、なるべく興味を持ってもらえる文章にしよう。そう思って、毎日DMの画面を開き、書いては消して、書いては消して。幾万の言葉が、ああでもないこうでもないと消えていった。
思えば、この時点でちょっと好きだったのかもしれない。
そして4月。
やっとのことで「上手い誘い方が見つからなかったけど、今月食事に行きませんか」と、半ばあきらめの文章を送ったのだった。
4月後半、私達は私の最寄り駅で待ち合わせて会う事となった。
送ったDMは快諾してもらえて、すぐさまとんとん拍子で食事の日程が決まった。
好き嫌いが無いからあわせられる、と言ってくれたところも素敵だった。好き嫌いが無い人は育ちが良いと聞いている。目上の人とでも、会食でも、どこにでも連れて行ってもらえるように、いい家の出身の人は好き嫌いを治されるらしいから。箸の持ち方もまともに教えてもらえず、好き嫌いまみれで生活していたのを、なんとか表に見える範囲だけ治した私が憧れる、そんな人だと思った。
彼は待ち合わせた駅で、黒い服に身を包んで、駅前から少し外れたところによりかかって待っていた。長い前髪と黒縁眼鏡。がっちりした肩幅と細い腰。ちょっと偏屈そうな目線が、私をとらえた瞬間、ふわりと柔らかくなった。
「はじめまして」
人を怯えさせない、置いて滑らせるような低い声が、私に挨拶をした。
SNSで知り合っていたし、一目ぼれらしき一目ぼれではないけど、もしかしたらこれって、一目惚れって言っていいんじゃないの。
私はもっと、彼と親密になりたいと、この時点で思った。
その日の食事はとにかく楽しかった。
彼は私の知らない事を沢山知っていて、まるで図書館みたいな人だと思った。
物理の話、音楽の話、私のであったことのない人の話。
興味を持たなかった、というより、興味を持つ選択肢が選べる程さえも知らない彼の話す事は、とにかく面白くて。私も負けないようにしゃべって、とにかくたくさんの会話をした。
炭火で焼かれた焼き鳥が、一口かじるだけでうれしくなる大好きな店なのに、その日はどんな味をしたかんて覚えてないぐらい。きっと不味いと思わなかったから、あの最高の時間の中でも不愉快にならない、素敵な味だったんだろうけど。
彼がコメダ珈琲に行ったことが無いと言って、まだもう少し話していたかった私はコメダ珈琲に誘った。閉店間際のコメダ珈琲は閑散としていて、私達はカフェオレとココアとシロノワールを頼んだ。
シロノワールはたっぷりアイスが染みたのがおいしいから、とふざけてアイスを強奪しようとした私に、彼は沢山あるからとココアのアイスを使って食べて、アイスを譲ろうとしてくれた。優しい人なんだろうな。それか、私にちょっとだけ、好意の芽が出ているか。後者だったらいいな、後者であってくれ。
1件目で食事をしたくせに、シロノワールとカフェオレをたらふく食べた頃、閉店だからと店を追い出された。名残惜しな、帰りたくないな、と思いながら喫煙所に彼を誘って、あーだこーだ焦って、どうにかもう少し一緒に居ようと詭弁を垂れた気がする。
彼はメープルシロップの香りのする甘い香りの煙草を吸いながら、コーラが飲みたいと言った。私達はコンビニでコーラを買って、駅前広場の大きな木の下のベンチで、月を見ながら話し始めた。
駅から降りた時、うるさいのは治安が悪い土地だということ。物理はこの世の真理だってこと。文芸と歴史はお隣さんで、歴史背景を知っている方が文芸は面白いこと。ねえ、講師とかなってみないの? いや、私高校までしか出てないから、何も教えられないよ。それにね……。
かわるがわる、好き放題好きな事を、好きに喋っていく。時間の感覚なんてなくなる程、沢山喋った。
まわりに人がゆっくりと少なくなってきた。私は最寄り駅だからいいけど、彼は終電があるかもしれない。春でもう暖かくなってきたとはいえ、ほんの少しだけ、夜風はまだ冷たい。身体が冷えてきた。
そろそろ行こうか、と私から言って駅へと向かった。もう少し話したかったけど、帰れなくなったら可哀想だから。
改札間近で私も彼も、ほんの少しだけとどまった。1秒にも満たないぐらいの、変な空気の凍り付きというか、間というか。
こののち、私も彼も、この場で次の約束を取り付けようとしたけど、お互いの事を考えて一旦言わないようにしたのだ、という事を知った。
別れてすぐに、メッセージアプリで連絡を取った。朝の3時ごろまで話しながら、次は国立科学博物館の大規模な展示会を翌月に見に行くことになった。
舞い上がるほどうれしくて、新しい服をかわなきゃなあと思い立ったのを覚えている。
だが、ここからすぐに私達の話はもう少し、踏み込んで動き出す事となる。
食事の翌週、親友の家に泊まりに来ていた私は、親友と学生時代の話をしていた。私達は12歳の頃から仲が良い。だから、よく昔の話になる。
親友がゴロゴロとしていて、私が本を読みながら寝転がっている時に、頭の中で恋と過去が混ざって、妙な事を思い出した。
昔好きだった男の子と、ホテルに行ったときのこと。その時、好きではあったけど温まりきっていない感情の中、嫌ではないからという理由で行ったホテルの中。さあ、身体を重ねましょうとなった時、彼の男性器が、根本は一般的な大きさだったけど、挿入ができない程の小さいサイズ感ですっと冷めてしまったのだった。
こんなことで冷めるのは人としてどうかと言われればそうかもしれない。行為自体を超重要視している程でもなかった時代である。
だが私にとって、交際は結婚への助走なのだった。一度付き合うのであれば結婚を必ず考えた。
私、この人に一生抱かれるの? 死ぬまでこの人とだけ性行為をし続けるのにこの人でいいの?
そう思ったらあまりにも怖くて、私達は徐々に疎遠になった。
その時に、私は彼に、ホテルに行く前提で明日会えないかと、とち狂った連絡を送ってしまったのだ。
少し考えて、リスクの方が大きいからと送信取り消しをしたが、彼には通知で見えていたようで。
彼は優しい人だから、次の日、それを前提としてまた会うことになった。
彼と待ち合わせをした。高円寺で大道芸のフェスをやっていて、好きな大道芸人さんのライブを見ようと彼をひっぱって行った。人込みをかき分けて、前から3列目で聞くアコーディオンと、マイクを通り越して耳まで届く歌声に興奮した。彼の横顔をのぞくと、真剣なまなざしでみていた。
高い鼻。ほんのりアーチをえがいた頬からつながる、上向きにつんと尖った小さな上唇と、輪郭のキレイな顎。
ああ好きだ。私はこの人と、もっと楽しい事を共有したい。
そこから終わって、たこ焼きを食べて。猫舌だからと冷ましてから食べる彼と、熱いものは熱いうちがいいからとたこ焼きをほおばって、見事に口の中を全て火傷して、そのあとの味なんて何もわからなくなった私。楽しかった。
その日はお気に入りのBARを紹介したり、カラオケに行きたいと言った彼についていって、全く知らない曲を歌う彼の横で、頑張って歌ったら声がかれてしまったり。
そうして、そうして、私達はホテルへときた。
抱き着いた彼の身体は少し体温が逃げているような低さだった。心地よい心音と、いい匂い。鼻の奥に広がる、汗のにおい。
シャワーをあびて、ベッドへいった。彼は困ったような顔で布団へと入ってきた。ゆっくりと身体を触られる。全く不快じゃない。
少しだけ強い触り方も、男の人らしい筋肉質な腕も、何一つ不愉快じゃない。
首筋に当たる吐息で、身体がびくびくと反応した。這う舌で、確信的な場所になんて触れていないのに、快楽が降り積もって頭が真っ白になった。
「噛んでいい?」
「……だめ」
吐息を流し込むような声で聞かれて、咄嗟にそう答えた。
被虐性癖を持つ私が、この人に噛まれたらきっと、もうどうやっても後戻りはできなくなる気がしたから。
彼は少しだけ待って、考えるような間の後に、私の耳を甘噛みした。
抑え込めなかった声が、肺を潰して漏れ出るように口から溢れ出た。
じわりとした痛みが身体に広がって、子宮に熱をともして、思考を溶かした。
しばらくして、さあ挿入。心も身体も潤って待ち構えていた。薄暗い電灯の中。大体この辺にあるだろうと彼の下半身に手を伸ばした。
が、思っていた場所にそれは無かった。もう少し下だったのだと思う。
でも頭が真っ白になった私は咄嗟に、無い、とつぶやいてしまったのだ。
きょとんとした顔の彼。あ、やってしまったっぽい。
目線を下にして、彼の男性器を見る。さっきまでそそり立っていたものが、ゆっくりと小さくなっていく。
それから何度か頑張ろうとしても、彼の集中をそいでしまったらしい。なかなか上手く行かなかった。
そもそも一回目は失敗しやすい。お互い緊張しているから。それでも、言ってはいけないことを言ったせいで、ついぞきちんとはできなかった。
とはいえ、かなり眠くて意識が朦朧としている中で、一回だけ上手くはいったみたいだけど。
その日は、ホテルにとまってケバブを食べに行って解散した。
ケバブを大きな口でこぼさないように食べる姿に、やっぱり育ちが良いとか、セクシーだなとか考えた。
彼に2回程付き合ってほしいと言った。こんな素敵な人なら、多分引く手あまただろうから。
彼は笑いながら、文脈は? と言いながら聞き流していた。
そこから少しして、彼と私の中で取り決めた。5月20日までに結論を出してほしいと。
5月20日というのは、私達が初めて食事に行ってから1ヶ月たった日だった。
早く結論が欲しかった。それと同時に、1ヶ月を超えてしまうと、彼に対してよくない執着が生まれたり、私の中で彼と付き合うことが最終目標になってしまって、付き合ったとしても上手く行かなくなると思ったから。
どれだけ好きでも、たった1ヶ月好きなだけなら、ふられても後戻りも早いだろうし。
彼はしぶしぶ、と言った様子で承諾してくれた。
それからというもの。
週末になると彼の家に行き通い妻をしていた。料理を作って、煙草を吸って、色々な話をする。
ボードゲームをしたり、身体を触り合ったり。性行為は失敗ばかりだった。多分一回目の失敗が尾を引いてたんだと思う。
松坂牛を食べた。未来の話をした。寄り添いながら夜風にあたった。
幸福な日常だった、間違いなく。
見切り品の大根で作った私の料理を、おいしい美味しいと感動しながら食べてくれる様子も。
一緒に音楽を聴いている時間も。
小説の話をしている時間も。彼の寝顔を眺めている時間も。
なんの変哲も無い、ドラマでは早送りされるような時間。これが一生続けばいいと思った。
変わらない毎日を、二人でしっかり踏みしめて歩んでいきたいとさえ思った。
幸福だった記憶を忘れたくはない。
同時に、次第に近づく5月20日に焦りを感じていた。
結論はまだ? と聞く機会が増えたと思う。
振られるのが怖くて情緒もずっと不安定だった。
一度得た幸福を手放すのが酷く怖くて、処刑台への階段を自分一人で昇っているような気分だった。
彼は、このまま何もなければ付き合うと思うと言っていた。
ではなんで返事をくれないのだろうと返すと、もう少し考えたいとはぐらかされた。何かが引っかかっている、と。
彼ははじめ、引っかかっている内容は多分、まだ会ったばっかりで知らないことが多いからだとか、急に好きになった人は急に冷めちゃうことが多いからもう少し見極めたいとか、そういうようなことを言っていた気がする。
この辺は、確かにわからなくもない。だから彼を尊重することにした。
5月15日。彼はもう少しで結論が出そうだと言った。
結論が出るまで二、三日もかからないとも言った。
いつも通り、好きだよとも言ってくれた。
あいしてるよ、と言ったら、彼も同じように愛してるよ、と返してくれた。
きっと大丈夫、きっと大丈夫。言い聞かせるように口の中で大丈夫を反芻した。
もうできる事は他にないのだから。あとはもう、時間に任せるしかない。
そして、5月18日。
仕事終わりに電車にのっていると、スマホに連絡が来た。
結論が出たよ。
震える指先で、次のメッセージを待った。
まだ、来ない。きっと長い文章をうっているのだろう。
まだ、来ない。
まだまだ、来ない。
電車は四谷を超えて、新宿に到着しようとしていた。
「結論から言うと、語尾の音が妹と同じだから付き合えない」
……。
…………。
…………………。
いや。
え?
「なんて?」
思わず電車の中で声が出た。
あわてて、どういうことか問いただした。
「声が止まる瞬間に声道に残ってる空気が鼻腔や口に溢れてくるのね。その時に管内を通る空気が壁を擦るのか音がするの。複雑に共鳴したり干渉してるから空気を押し出す声道の形と、厳密には恐らく鼻腔と口腔の形で決まる音かな。体の使い方とかは関係ないのよ」
頭が真っ白になったというか、何も浮かばなかった。
呆れなのか、怒りなのか、悲しみなのか、苦しさなのかわからない感情が混ざって、光の三原色が重なった時のように視界が白くなった。
香りとか声とか、そういうものが苦手な人っていたりするから、きっとそういうものなのだろう。いやでも、それもっと初めに気が付く事じゃない? 期待させた理由って何?
理解できないよ。理不尽で不条理だ。
多分、結構意味不明な事を言われていると思う。
だけど好きな人の言う事だから、信じたくて。でも、はあ? の一言で蹴散らしたい気持ちもある内容だった。
ぐちゃぐちゃの感情になった私は、ここから2日間、どうにかしてこの結論が覆る方法を、あらゆる文献を血眼で探るようになった。
音声、肉体、精神的トラウマ、生物学。
友達になぐさめてもらいながらも、関連しそうなワードを片っ端からうちこんで、ひたすらに調べて、打開案を探した。
だけど彼は乗り気じゃなかった。
そこで気が付いたのだ。
ああ、この人ははなから、付き合わない理由を探していたのだと。
自分を好きでいてくれる人は多ければ多いほどいい。承認してくれるから。世話を焼いてくれる人も多い方が良い。ただ、関係を迫られると、時に人は自分のこと以上に相手を大切にしないといけない時間がくる。それを選びたくない人なんだと。利益は欲しいが、対価は払いたくない。今彼はそういう感覚がある人生の時間帯なのだろうと。
それでも、恥も外聞も捨てて、どうにかしよう、と私は彼に連絡を取って、彼もしぶしぶ了承した。
そこから数日、明らかに減った彼からのレスポンスと、その話す内容から、私は段々、こうも考えるようになった。
二人の事は、一人じゃどうしようもできない。では、はなから相手は失敗すると思っている返信が来ている。
この人は無意識に、私がいくら頑張ろうとも、失敗する理由を探して、それが正になるように動く。ほらね、失敗した、というために。
ここから先は、無駄だ。
恋に浮かされて足元から2センチほど浮いていた意識が、やっと身体に戻ってきた。
ここから先はお察しだろう。
私は彼をしこたま悪く言う事にした。
正直未練はまだある(書いている現在、まだふられて1週間である。切り替えられない)
まだ悪いところを探すのが難しい状態に近いし、毎晩夢に出てきて、あの幸福だった時間の中に居る。
だが、幸福の記憶を塗りつぶす程嫌な事が多ければ、人を嫌いになるなんて簡単である。悪意を向ければ相手も悪意で返す。
未練とは、復縁できる可能性を感じてしまう状態が残っているから感じるのだ。そうであれば、関係を元に戻せないほどぐちゃぐちゃに拗らせて、恨みあってしまえばもう戻る関係なんぞない。
あっちが私は要らぬ、と言っている以上、私がつきまとい続けるのも迷惑になる。
なまじ罪悪感とかを向こうが持っていたとして、次の恋愛に進むときにトラウマになってしまうこともありうる。それは可哀想だ。
私から、私へ。そして彼への最後のプレゼントは、思い切り憎み合い、呪いあい、お互い2度と思い出したくも無ければ、やべえやつだった、という最悪の記憶で終わる事なのではないかと思う。
可能な限り、私は拗らせた関係を目指して、ぐちゃぐちゃにしていく。
書いていて思ったが、多分半分憂さ晴らしである。
これは、ナンパを断られたからと言ってブス! などと声を荒げる男性と同じ心理なのではないだろうか?
……違う事を祈っている。
違う事を、祈っている……。
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