見出し画像

散文① 大人という猛毒

これは駆け出しの書き出し。
これは、吐きだし。

またね、と言ったきり、もう二度と会う事はありませんでした。
 今度、六本木の夜景を見に行こうだとか、あそこのラーメンを食べましょうだとか。そんな小さな口約束を信じて生きたまま、ついぞそんな事は叶わぬ夢となり、排水溝に流れていくシャンプーの泡のように、ぽつりと弾けて消えていくばかり。
 そんな経験を重ねているうちに、人から大人と言われる歳になりました。

 人並みの幸せを追いかけています。
 いつからでしょうか。子供の頃は、ゲーム機がほしいとか、私も友達と同じような習い事をしたいと思うばかりでした。
 そういうのが、豊かで羨ましいものでした。
 気が付くと、結婚がしたいだとか、恋人が欲しいだとか、広い家に住みたいだとか、人並の幸せが欲しいと思うようになりました。
 ではこれは本当に私の欲しい幸せなのでしょうか。
 私は家で、淹れたての珈琲を嗜みながら、本を読んでいる時間が好きです。
 深夜の眠れない時間に、明日の事も考えず、晩酌をしながら流し始めた海外ドラマを見ている時間が好きです。
 夜が明けて、重たい身体を引きずりながら、会社への電車に乗り込むとき、どうしようもない憂鬱さと満足感で板挟みになり、晴れた青空の吹き抜けるような世界を窓から眺めている時間は、幸せではないのでしょうか。
 幸せの形がわからないまま、人から大人と言われる歳になりました。

 五感の中で、人が一番初めに認識するものは、声だそうです。
 人が一番初めに忘れてしまうものも、声だそうです。
 十数年前に大好きだった声。夜中に長々と、くだらない話で盛り上がったうだるような暑さの夜。網戸から入ってくるささやかな風に、気持ちが良いなと思ったあの夜の声を、私は思い出せなくなってきました。
 声を覚えて、声を忘れて。
 忘れた声が積み重なって行くたび、人から大人と言われる歳になりました。

 ピーマンが美味しいと感じられるようになりました。
 ブラックコーヒーが飲めるようになりました。
 甘いものが沢山食べられなくなりました。
 嫌いな人にも笑顔を向けられるようになりました。
 煙草を吸うようになりました。
 お酒を飲むようになりました。
 まだ、大人という認識はありません。

 恥の多い生涯を送ってきました、と太宰治の人間失格では語られていましたが、まだ恥の中に居る、恥を恥と思わず恥を重ねて、過ぎ去っていった時の中で後悔する様は、止められないのでしょうか。
 沢山の後悔と恥を重ねているうちに、人から大人と言われる歳になりました。

 よく、大人は身体だけが大きくなった子供だ、なんて聞きます。
 私は、人にそう思われたくない一心で、大人らしき大人でいるように努めている瞬間があります。
 服に皺がないように伸ばし、髪の毛を綺麗にします。毎日会社に行き、言われた仕事をして、きちんと食事を作り、それを食べます。
 安定した毎日を過ごすことを心掛け、無駄なお金をあまり払わず、たまの休みには友人と食事に出かけます。
 そうして生きている日に、ふと水の中で酸素が無いような息苦しさに襲われることがあります。自分の浅はかさや、気持ち悪さに、吐き気に襲われることさえあります。
 一体これはなんなのでしょうか。

 幸福の数も多い人生だとは思います。
 仕事があるのも、当たり前の事ではない。屋根のある生活も、友達の居る生活も当たり前の事ではない。それでも、より豊かな生活が欲しいと自分の足りなさ、至らなさに目を向けてしまうことは、大人になったということなのでしょうか。
 ただ夕方に暮れる夕日を見ながら、ああもう帰らないと怒られてしまうと、それだけで頭がいっぱいになり、逃げるようにまたね、と帰宅した日々は、本当に子供だったのでしょうか。私には、ついぞ未だにわかりません。

 大人になるという事は、腹の中に悲しかったことや、満たされない思いや欲望を毒のように抱え込んだまま、社会に適応することなのではないかと思い始めました。
 ミツユビハコガメという生き物が居ます。
 毒を食べて、身体の中にため込む亀だそうです。
 なぜ毒をため込んでいるかと言うと、毒に対して耐性があるから、食べてもあたらないため、食べているうちに溜まっていくんだそうで。
 ミツユビハコガメ自体は、毒をもっていてもなんの意味もありません。
 ですが、ミツユビハコガメを食べると、毒を食らうそうです。
 硬い甲羅につつまれて、その肉には毒のある姿が、理論武装で身を守るところも含めて、自分に重なって見えました。
 大人になるという事は、ミツユビハコガメのようになっていくことなんでしょうか。

 大人と言われる歳になり、もう一度子供と言われる歳に戻ることはありません。時間とは不可逆なものですから。
 私はこのまま、大人と言われる歳のまま、不思議な感覚で生きていくのだと思います。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?