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短編小説:平等女

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 夏の教室に揺蕩っている空気は独特なもので、開け放った窓からはプールの塩素の匂い、黒板からはチョークの粉の匂い、一生懸命にノートに書きこむみんなからは汗の匂い——それらが入り混じった、何となく心地の良いものだった。僕はこの匂いが好きだ。春や冬にも独特な空気と呼べるようなものはあるけれど、それでも一番は夏のソレだ、と断言できるほどには。
 高校に入学して数か月、正直なところ所謂『高校デビュー』というか、そのようなものに期待していたのは否定しない。そりゃそうだ、環境が変われば少しは状況だって変わるんじゃないか、と人間が思うのは普通だと思う。僕自身は中学時代と(外見も中身も含めて)大きく変わったところはないが、同じ中学から進学した生徒もいないし、電車で地元から一時間と半分かかるそれなりに遠めなところを選んだつもり。
 だがしかして現実は甘くなく。つまるところ僕は、中学時代とそう変わらない生活を送っている。つまらないとまでは言わないまでも、何となく日々の生活から瑞々しさが失われていくのは致し方ないことなのだろう。物語の登場人物のような、波のある、昨日とは違う今日、今日とは違う明日がやってくる人生は望んでいない。揉めごとに関わってしまうくらいなら、むしろそのほうがいい。

 僕がそんな風に、現実逃避がてら窓から見える他クラスの水泳の授業をぼんやりと眺めている教室。そこでは、現代文の授業が執り行われていた。響くのは教師の声だけの、静かな空間。
 その教師というのも、今年なりたてという若い女性の教師で、女生徒たちからは『ちゃん』付けで呼ばれるような愛嬌のあるヒトだった。教師としての尊厳か、生徒との交流か。その塩梅が難しいところではあるのだろうが、僕には関係のないことだった。
 授業外では愛嬌のあるヒトだったが、授業中ともなれば教師としての尊厳に傾くようである。その教師はある意味独特で、生徒としては面倒なことに、好んで指名し授業に関する意見を引き出そうとしてくる手合いだった。
 僕もそうだが、クラスメイトは皆一様に「あたりませんように」という顔をしている。皆の前で意見を述べることそのものが面倒で、恥ずべきものではないが恥ずかしいものではある。だが、誰かしらが生贄にならなければならないのは明白で、今日も誰かが指名されるのだ。こんなようなことを人は諸行無常、というのだろうか。
 もう必要ないかもしれないが、(誰に向けてか知らないけれども)僕の心情を吐露すると、今日は普段以上に指名されるのは避けたかった。今日のテーマは『平等』。下手に語れば突っ込まれ、下手に語らなければ突っ込まれる。一言で表すなら、だるい。「あなたは『平等』についてどう思いますか?」と問われて、何をどう語ればいいのか僕にはわからないし、この教室の中にだってそれがわかる人間はいないだろう。いや、それを問う教師はわかっているのかもしれないのだけれど。

 そんなわけで僕は、僕を含むクラスメイトたちは、いつも以上に『指名されたくないオーラ』を放っている。いつ彼女が指名してくるのか、もし指名されてしまったならどうやって場をやり過ごすかを必死に考えていた。否応なくシャーペン回しが加速する。ちらと確認すると、クラスメイトの中でも特に親しい友人のうち一人は教科書を顔まで持ち上げている。顔を隠して「当たりたくない」というアピールのつもりなのだろうか。寧ろ目立っているようにしか思えない。別の友人は元来の真面目な性格からか、比較的真摯に授業に取り組んでいるようだったが、それでもやはり複雑な表情で黒板の内容を書き写していた。我ら学生陣の気持ちなど、教師にはミジンコ程も分かるまい。
 そんな中、渦中の現代文教師は黒板と教科書を使いながら饒舌に平等が何たるかを彼女なりに語っている。これに「僕もそう思います」でやり過ごせてしまう教師ならよかったのだが。この語りが終わったとき、誰かが犠牲になるそのときだ、と思うとなかなか気が抜けない。折角の夏の空気も台無しだ、と思っていると、さてその時がちょうどやってきたようだった。
「じゃあそろそろ、みんなの中から意見を聞いてみようかな。じゃあ今日は、」

 ゴクリ。息をのむ。
 自分でさえなければいい。皆がそう思う中彼女が告げた名前は、僕のものではなかった。

「彩瀬さん、あなたにお願いしようかしら。あなたはどう思う?『平等』について。好きなように話していいわよ」
 その言葉を受けて、一人の女生徒が立ち上がる。そうして僕は、不愉快なことに…というほどでもないけれど、
 ともかく、これまでの言葉のいくつかを撤回しなければならなくなった。


1

 夏のアスファルトに陽炎が浮かぶのは、そりゃあ毎年見飽きたものだけれど、なんとなくそれも夏の風物詩かなぁと思うとこの暑さも我慢できるような気が、するわけもなく。家から歩いて駅へ、駅から学校の正門まで。たったそれだけの歩行で僕の体とワイシャツは汗でぴっとりと張り付いて、それはそれは気持ちの悪いものである。冬の寒さよりは僅差で夏の暑さのほうがマシかな、と思う僕だが、それはそれ。この暑さには耐えがたいものがあるし、早く冷房という便利な文明の利器に頼りたいところなのだった。暑い、暑い、アツイ。
 
 夏休みに入って数日。僕は相も変わらず毎日学校に通っていた。なぜなら、そうするように言われているからである。つまり、そうするように僕に言いつけた人間がいるという意味で、それが誰なのか、というのがこの話のすべての答え。
毎日飽きもせず僕を呼びつけているのは、あの女生徒だった。
 
 
 
 僕の学校は夏休み期間中、図書室が解放されている。お盆はきっと開いていないのだろうが、夏休みが始まって数日の今日はまだ通常営業。といってもその図書室に夏休み中訪れる生徒はいないにも等しく、僕と呼び出したヤツ以外には未だ出くわしたことがない。図書委員とか常駐するものじゃないのか、普通。そもそも、鍵を毎朝開けているのは誰なのだろうか。
 生徒もほとんどいないからなのか、窓も締め切って外気以上に蒸し暑い廊下を進む。正面玄関からそのまま真っすぐ、大階段を二つ上がり、向かって左側最奥が目的地の図書室。汗まみれの体を引きずるように進んで、ガタついた引き戸に適切な力を込めた。
 
「おはよう篠崎。今日も精が出るね」
 と、冷房のかかった涼しい図書室の扉を開けた僕に声をかけるそう、この声の持ち主。目の前で足を組んでさも僕が来るのが遅い、待ちくたびれてすっかり冷房も効ききっているじゃあないか、とでも言いたげな顔をしている女がその連日呼びつけている張本人、彩瀬さんだった。
「さて、何で精を出さなきゃいけないのでしょうね?」
「ところで、精を出すってなかなか卑猥じゃあないかな、ほら君男だし。所謂セクハラってやつだ」
 それこそセクハラ発言なのでは、という言葉を飲み込む僕。この人に反論しても意味がないことはよくわかっている。ちなみに、「精を出す」の「精」は元気、とか精神力、だとかそういう意味で、卑猥な意味はない。あしからず。
 
 そんなやり取りを交わしつつ、僕は彩瀬さんの対面の席に座る。ここが定位置。正直もっとほかの席に座りたいところなのだが、以前そうしたところ彩瀬さんが僕の対面に移動。ので、さらに別の席に移動したらまたその対面に、といたちごっこなのでやめた。この女、根気を向けるべき場所が異常じゃないか?
 
「フフッ、これもまた不平等もいいところじゃないか? 君、理不尽だとか思わないのかい?」
「ええ? というと?」
「私は『ほら君男だし』と言った。これは、君が男であるがゆえに起きる事象であって、君が女性であったなら私はこのような発言はしなかっただろう。ならば、君と仮定上の女性との間には差が発生する。これは不平等といえるだろう?」
 
 冷房の効いた図書室、僕ら二人以外居ない図書室。
 ああほら、始まったよ。この平等女めが。
 
「まあ、話をする前に熱いコーヒーでもいかがかな?」
 言うが早いか、彩瀬さんは立ち上がり図書室の横に併設された、所謂図書委員やら司書の先生やらが使っている小部屋に滑り込むように入っていった。多分というかなんというか、コーヒーを淹れに向かっていったのだろうけれど、僕には手伝う義理はない。というか、このクソ熱い夏にコーヒーというのも。まあいいけど。そもそも僕は飲むなんて言っていないし。
 
 待った時間は一、二分そこらで、如何にも、という匂いをさせながら青とピンクのマグカップを彩瀬さんは持ってきた。なにやらニヤついた表情で。なんだこの女。僕が喜ぶとでも思っているのだろうか?
「はい、お待ち。君が図書室に来るタイミングを見計らって隣のコーヒーメーカーを作動させておいたのさ。淹れたてだよ」
「…」
「おや、感謝もなしかい?君のためにわざわざ淹れておいたのに?そうかいそうかい。つまり君はそういうやつだったんだな…フフ」
「そうです、僕はそういうやつなんですよ」
 ヤママユガとか関係ないし。
 ともあれわざわざ淹れてくれたコーヒーというのであれば、頂くしかないだろう。そも、僕はコーヒーが嫌いではない。
 彩瀬さんは僕の前にピンクのマグカップを、自分の席に青のマグカップを置いて座る。そのマグカップに入ったコーヒーは、僕が見る限り同じ高さまで注がれているように思う。
「さてとだ、コーヒーも用意したところで、私がしたい話をしようか」
「勝手にどうぞ。僕は聞くなんて言っていませんから」
「うん、好きにするといい」
 そういうとマグカップに手を伸ばし、一口飲んでから、
「君はこのマグカップに違和感があるかい?」
 なんて問う。はてさて、僕に問うているのか。僕が答えるかどうかは僕の勝手である。
「そうですね。特に何の変哲もない、普通のマグカップだと思いますが」
 態々僕はマグカップを手に取り、両手で持って手の中で一周させてから飲む。ちょっとだけ悔しいが、とても僕好みの、美味しいコーヒーだった。口の端で笑みをこぼす彩瀬さんの顔が鬱陶しい。それで少し気が付いたのは、
「強いて言うなら」
「強いて言うなら?」
 さらに笑みを強くする彩瀬さんにさらに鬱陶しく思い顔を逸らす。
「僕のがピンクで、あなたのは青だ。夫婦モノの茶碗とかなら、普通逆でしょう」
「へぇ、君は私と夫婦だと?面白いことを言うね。私はそんなつもりじゃあなかったんだけれど」
「そうは言っていないでしょう、勘違いも甚だしいですね。単純に色の話です。別にお手洗いの表示でも何でも良かったけれど、曲がりなりにも食品の前なのだからと別のたとえを使ったまでです」
 それを聞きたかったと言わんばかりに頷く彩瀬さん。思惑に乗っかっているようで僕としてはとても癪に障るのだけれど、出会って以来この人の思惑から外れたことなんて記憶になかった。
「そうだね。私が君と夫婦かどうかはさておいて、私が聞きたかったことをズバリ言ってくれる君は素直で良い。そう、私は敢えて君にそのピンクのマグカップを渡し、私が青のマグカップを使った。今回に関して、私はそういう、話を作るためという思惑の上でそれぞれのマグカップを使ったわけだ。」
「くだらないことをしますね」
「話の核はここからさ。今回は違うわけだけれど、例えばマグカップがこれら二つしかなく、そして私が単純に青が好きだという理由で青を選んでいたらどうだろう。私には青を使う理由がある。そしてその権利もある。なぜならコーヒーを淹れ、注いだのは私なのだからね。事前に君から『青がいい』と言われていたならば話は別だが、そういう話をされていたという訳でもないならば。で、だ。」
 また青いマグカップを口に運んで、一口飲む。
「うん、やはり美味しいな。私はコーヒーを淹れる天才かもしれない」
 …淹れたのはコーヒーメーカーであって、彩瀬さんじゃあないだろうというツッコミを待っているのだろうか。確かに、豆を選んだのが彩瀬さんだとしたら多少は彩瀬さんのお蔭、ともいえるかもしれないけれど。
「ちなみに豆はそこにあったのを拝借しただけだよ。私は選んでいない。…それで、君は青とピンクについて違和感があると言った。それは、ある意味では私はピンクを使うべきだと思ったということだ。私が青を使うということに関して、君は口出しする権利がないというのにね。それは、そういう意味で君は私に不平等を敷いたとも言いかえることができる。面白いね、君のせいじゃあないんだ。印象が、君にそういう違和感を抱かせた。日本の世の中では、男は青や黒、女はピンクや赤という印象が一般的だからね。君がさっき言った夫婦茶碗なんかもそうだ」
「でも、僕がそう思ったとして、今回はあなたに言わされましたよね。普通なら、この程度の違和感を持ったところでそんなことを態々口に出さないと思うのですけれど」
「そうだよ。私が言わせたんだ。だからこういう結論になった。君の言うとおり、普通ならこんな些細なことに口を出す人間というのは少ないはずだからね。だから、不和にもならないし不平等にもならない。つまりは、そういうことさ。」
「つまり、どういうことですか?」
 そうだ、この人は結論を言いたがる。そして、それを敢えて隠し、僕に問わせるのだ。それが目的かのように。また彩瀬さんの思惑通りなのだけれど、そうしないとそれはそれで、面倒なのを僕は知っていた。
「つまり、世の中思ったこと、というだけなら不平等なんていくらでも起きているということさ。この世がある程度平等のような世界であるのは、人間が…そうだな、なんて表現しようか。」
 彩瀬さんは両手で包み込むように持ったマグカップをしばし覗いて、
「人間が、一般的に言う、大人であるから、かな。うん、我ながら皮肉が聞いていて良い表現だ」
 なんて言うのだった。
「はあ。」
 心の底からどうでもいい。たとえ上っ面だとしても、それが成り立っているのであれば、成立していると言えるのだろう。どうでもいいからこその同じ意味の重ね合わせ。僕の口からは、風船から空気が抜けるときの最後のアレみたいなため息が出た。
「人が真剣に考えたというのに、ため息とは失礼な奴だな君は。そんなにつまらなかったかい?」
「さいですか。」
 実際のところ、男女においてどちらがどんな色で表現されようと、それで困る人間というのは少数だろう。お手洗いの表示が青だろうが赤だろうが、どちらであるのかが重要なのであって、それが判断できるのであれば問題ない。茶碗だって一緒だ、どちらが自らの茶碗であるかが見て断じることができれば良い。
 
「そうだろうか?私の話は上っ面で、いや、寧ろ奥底で、思ってはいても口にはしない程度、の事柄であるから特に問題ではないということだろうか」
 向かいに座る彩瀬さんは、口につけていたマグカップを一度机においてから少しばかり失望したような目で僕を見た。
「まあ、気が付く人間がいなければそうか。私だってそうだしな、いくら意識的にといっても、私は私であって、客観的に見たところで他人が何を考えているかなど解りやしない」
「あまりに語彙が抽象的過ぎて何を言っているのか僕こそ解りませんが」
 独り言のような台詞に、ついツッコミを入れてしまった。誤魔化すように手元のマグカップを口に運んで、手近な本棚へと目を向けた。夏休みに入って全く更新されていない、『今週のおすすめ』という手作り感満載なポップが目に付く。それと共に陳列しているのは、確かお姉ちゃんからランドセルを貰った少年のシリーズ物絵本だったか。高校生向けのおすすめ本に絵本とはいかがなものか。
「まあ、例えばだが。」
 気が付くと同じ方を向いていた彩瀬さんが、独り言から復旧したロボットのように口を開いた。
「赤いランドセルを背負いたい男子小学生。現実にいたら揶揄われるのは、想像に難くないだろう」
 そちらに顔を向けたままの横顔から発せられた言葉だった。
 
 『人と違うから、やめておきなさい。』大抵の人間が人生に一度は経験するだろう。
 僕にも経験がある。幼稚園児だったころに親と買い物に出て、一つだけ好きなおもちゃを買ってあげよう、と言われた僕が選んだのは小学生高学年向けの図鑑だった。勿論その時の僕は特に深いことを考えていたわけではなく、ただ単に表紙のカブトムシに興味を惹かれただけだ。なぜそんな幼少期のことを覚えているかといえば、その図鑑を買ってもらえず、大分大泣きしたからだろう。結局小学生高学年になった時にクリスマスのプレゼントとして両親から送られたが、僕がそこまで嬉しく思わなかったことは言うまでもない。
 そんなことはどうでもよく、その時母に言われたのが、「あなたの歳の子がふつう読む本ではないのよ、やめておきなさい」という文言だった。要は、普通ではないから無難なコトにしておきなさいということだ。
 その時図鑑を買ってもらえていれば僕は天才少年として名を馳せただろうなんてことは露ほどだって思わない。けれどまあ、今思い返せば、普通である必要があったのかは疑問ではあるかもしれない。
 
「思い当たる節がある、というような顔だね。まあ、そういうことさ。マグカップの色をダシにしたが、私が言いたかったのは、平等と言いつつ、それは『普通』や『一般』という非常にあやふやで不定形な何かが基準としてあって、それら基準らしきものから外れてしまった場合のことを考えるのであれば、成り立っていない部分もあるという、ことだ。」
 付け加えて、
「だから世の中はおかしい、と言う気もないけれど。それはそれで平等の一つの在り方だ、正義と平等は水と油のように交わりはしない。テレビに出てくる正義の味方が平等だった試しはないからね」
 
それを聞いた僕は、丁度マグカップのコーヒーを飲み干して、
「コーヒー、美味しかったです。御馳走様でした」
 と零した。


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