【短編小説】父のミューズ
父が色気づいている。
久しぶりに実家を訪れて祥子は気づいた。
部屋や廊下が塵一つなく掃除され、新しい本棚に写真雑誌が整頓され並んでいる。ここ数年は雑草が繁り放題だった庭も手入れが行き届いている。父一人暮らしにしては、なにもかもが整いすぎていた。
なにより父の服装が小綺麗だ。休みは無精髭にスウェットの上下が当たり前だったのが、今日はきちんと髭をそり、チノパンにポロのボタンダウンシャツを着ている。以前より腹周りが引き締まり、庭先にはレーサータイプの自転車が置かれていた。
「なんか好きなものがあったら飲みや」
そう勧められて開けた冷蔵庫には、缶ビールと一緒にサワーの可愛らしい缶も並んでいる。タッパーに小分けにされた料理も行儀良く箸が付けられるのを待っていた。
祥子は梅サワーの缶を取り出す。
「もっとええもんもあるぞ」
そういいながら父が指差した先には、小さなワインセラーが据えられていた。
祥子の両親、和人と麻子は学生結婚だ。中高の同級生だった二人は、学部は違うが地元の同じ大学に通っていた。大学二年の終わり頃、麻子が妊娠した。和人は中退して、それまでアルバイトしていたスーパーの社員にしてもらい、麻子と結婚した。間もなく祥子が生まれた。祥子もあと半年で麻子が自分を生んだ年齢になる。まだ若い両親だった。
それにしても和人の急な変化は不審だった。物心付いた頃から、別々に暮らし始めた頃まで、父がこんなに掃除や料理をしているのを見た記憶がない。祥子にとって父は完璧な無趣味人間で、運動したり、写真を撮ったり、ワインを嗜むなど想像もつかなかった。
和人と麻子は、祥子の高校入学と同時に離婚した。祥子は麻子と暮らしているが、時折和人が一人で住んでいる生家の様子を見に来ている。
「なにかあったん? お父さん」
セラーから取り出した白ワインを飲みながら和人に問う。テーブルの上には和人が撮ったらしい風景写真が飾られていた。
「べつに、なんもないて」
そう答える和人の表情は、小さな動揺とまんざらでもなさそうな感じが混ざっていた。
「嘘や。前はワインなんてまず飲まんかったやんか。カメラ持ってるのも見たことがないで」
「ワインは酒類売り場担当になって知っておく必要ができたからや。カメラは社内とかメーカーへの資料用に売り場とかボトルのラベルを撮ってるうちにおもしろうなってなぁ」
そう答えながらも和人は祥子の顔を見て話そうとはしない。照れているわけではない。
「年々あたしに似てくるもんやから、あんまりまじまじとあんたの顔を見とうはないんやろう」とは麻子の言だ。母を連想させる自分の顔で父の女性関係を追求するのもかわいそうな気がして、それ以上、祥子は聞かなかった。
その晩、祥子は麻子に和人の変化を報告した。
「あの人らしいわぁ」。微苦笑しながら、麻子が小さなため息をついた。
「売場に来るメーカーの営業さんか、パートさんに好きな女ができたんやろう」
ワインもカメラもその人のせい、そう麻子は決めつける。
「お母さん、お父さんを中学生の頃から知ってるんやもんね。長い付き合いやから、お父さんの考えること、手に取るようやね」
両親の若い頃の話は知っているようで知らない。麻子もいつもより多めにビールを飲んでいて、酔いのせいか昔話をし始めた。この機会に祥子は聞いておくことにした。
「あの人、昔から好きになった女のためならすんごい頑張る人やったんよ」
麻子によると、誰かを好きになった和人は、分かりやすいほどにその人のために努力する少年だったらしい。ラケットなど握ったこともないくせにその子が部活でやっているテニスを始めてみたり、その子が好きな小説やマンガを熱心に読んで話題を合わせようとしたりと、好きな女の子のためには手間暇を惜しまない質だった。精一杯努力して、ふられて落ち込んで、またほかの誰かを好きになって努力してと、和人の中高時代は慌ただしかった。
中高と単なる友人同士だった和人と麻子だが、大学生になると付き合うようになった。
「お父さんがバイクの免許取ったんは、私が後ろに乗ってみたいってゆうたからなんよ」
やや自慢げに麻子がいった。
「お父さん、バイク乗りよったん?」
和人が二輪の免許を持っていることは、祥子は初耳だった。それに麻子がいうように和人が好きな女性のために努力を惜しまない男なら、麻子の一言でバイクの免許を取るほどに父は母が好きだったということになる。
「バイクを買うよりも先にあんたができたから、結局お父さんの後ろに乗ることはなかったけどね」
そう言うと麻子は一息にタンブラーを空けた。
「それまで顔合わせよったのに、なんで大学生になるまで付き合わんかったん?」
「高校を卒業するまであたし、ババ臭かったからねぇ」
麻子は十代後半までやや老け顔だった。実年齢よりも七、八歳くらい上に見られることもあった。
「『ネエサン』とか、ひどい人には『オカン』って仇名付けられよったから、そらぁモテんわねぇ。けどお父さんだけはちゃんと名前で呼んでくれよったよ」
麻子は少し遠い目をした。
「二十歳くらいになってようよう顔と年が一致したころ、お父さんが告白してきたんよ」
「老け顔って、実年齢に近くなったら結構美人に見えるっていうもんね」
約二十年前の両親の青春時代。親にも自分と同じ年の頃があったという当たり前のことが祥子には少し不思議な感じがした。
戦後最高の暑さという夏が過ぎた頃、地元新聞社主催の写真コンテストで和人が入賞した。紙面に載った写真には、祥子の知らない美しい女性が映り込んでいた。
ちょっとしたお祝いでもあげようと祥子が父の家に来ると、ガレージに一台のオートバイが置かれていた。
「お父さん、バイク乗り始めたみたい」
夕食時、麻子にまた父の変化を報告する。
「あらまあ。お父さん、かわいそうにもうすぐ失恋するねぇ」
苦笑いしながら、麻子が予言する。
「なんでそう思うん?」
「女のカン。っていうより、そこまで自分のために新しい趣味始めたり、気に入られようと努力する男って、ちょっと重とうない?」
さすがに父のことをよく分かっていた。伊達に夫婦だったわけじゃないなと祥子は妙に納得した。一点不思議なのは、和人のことを話題にする時、離婚した元の夫のことを話している割には麻子の口調には楽しさと寂しさがないまぜになっている。
今夜も麻子は結構酔っていて機嫌がよさそうだ。多少のことを聞いても怒りそうにない。祥子は思い切って聞いてみた。
「なんで離婚したん?」
少し不意を突かれた表情になったが、「まだあんたにはちゃんとそのこと話してなかったねぇ」と、まじめな顔をして麻子は話し始めた。
一言でいうと、麻子も和人が重たくなったらしい。
大学を中退し、自分たちのために働き始めた和人は最初は頼もしかった。しかし家族を支えるという使命感に燃え、ひたすら仕事に打ち込む和人の存在が、麻子にのしかかるようになった。疲れて帰ってくるとせっかく作った夕飯も食べずソファーで朝まで眠ってしまったり、二、三日風呂に入り忘れたりするようになった。服装にも気を使わなくなった。動けば十分とボロ車で割り切り、体型もどんどん崩れていく。家族のために頑張っているのは尊敬できる反面、ただの「お父さん」になってしまい、「男性」としての魅力を失っていく和人が麻子は残念だった。
だから嫌いになる前に距離を取ったいうことだった。
数日後、和人の家を訪れた祥子は、結構な銘柄のワインが無造作にセラーでなく冷蔵に入れられているのを見つけた。
「ダメやんか、ちゃんとセラーに入れとかんと」
「ああ、それか。もうどうでもええわぁ。よかったら持って帰りやぁ」
祥子は、麻子の言う通りに和人の恋が終わったことを理解した。その晩、和人の変化をまた麻子に伝えた。
その次に祥子が和人の家へ行く日、数年ぶりに麻子もついてきた。二人が着いた時、和人はちょうどガレージにいた。
「これ学生の頃、中古車屋に一緒に見に行ったのと同じバイクやね」
アルファベットの「S」と「R」がサイドカバーにペイントされたバイクを見て、麻子は和人に声を掛けた。突然の麻子の訪問に戸惑いながら、和人が答える。
「うん、俺もまだ同じ型のバイクが新車で手に入るとは思わんかった」
「せっかく買うたに一人で乗るんも淋しいやろ。後ろ、乗ってあげようか?」
冗談めかして麻子が言う。数秒の沈黙の後、和人が変にまじめぶった表情で言った。
「そうやな。本当は麻子が座るシートやったかもしれんしな」
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