【短編小説】セシル
貿易風の影響を強く受けるこの島は、夏の午後になると海風が強くなる。
その強風に一羽の鳥が翻弄されている。
猛禽類の一種らしく日本のトビやミサゴによく似た姿をしているが、それらと同種かどうかは鳥類が専門でない僕には分からない。
強風に弄ばれながら、鳥は両足の爪で自分の体長の半分近い魚を掴んでいた。風のされるがままになんとか羽ばたいてはいるが、時折バランスを大きく崩しては辛うじて持ちこたえている。いっそ魚を放して木にでも止まれば一息つけられるだろう。だが、捕らえたか拾ったか分からないそのごちそうをやすやすと捨てる訳にもいかず休息することもできず、藻掻きながら徐々に風下へと流されていった。
僕はテーブルの向かいに座っている彼女に視線を戻した。
解くと肩より少し下まで届く金髪を、今日は涼しげに結い上げている。髪より少し色が濃い眉毛は整えられて、その下にはブルーの瞳がいたずらっぽく、それでいて少し淋しげに輝いている。チークと薄い色だがしっかりと口紅を塗っているのがいかにも白人女性の化粧の仕方だった。
半袖のVネックのコットンニットは瞳の色に合わせてブルーで、深く切れ込んだ胸の谷間は下品さを感じさせない程度に露わだ。腕も指もすらっと長く美しい。ニットで隠されているお腹はうっすらと腹筋が割れているのを僕は知っている。七分丈のグレーのパンツにベージュのサンダル、足首にはシルバーのアンクレットが控えめにきらめいている。ペディキュアも品のいい薄紅色。足下にはキャリーバッグが一つ、主人を待つ小型犬のように置かれている。
ヨーロッパ、特にラテン系諸国には、自分の美しさをいっそ清々しいほどに自信満々にアピールする術を知っている女性が多い。セシルもそんなフランス人女性の一人だった。
僕らは海産物市場近くのオープンカフェにいる。潮の香りにまじって、時折甘やかな香りが鼻腔をくすぐる。この島を代表する花、ニアウリだ。
僕が仏領ニューカレドニア・グランドテール島に来て間もなく二年が経つ。彼女とは知り合って一年と九カ月くらいが過ぎた。
セシルの前にはカフェ・ボウルが置かれている。この島のカフェでは、紅茶やコーヒーはカップでなく少し大きめのボウルで提供される。時折ボウルを口に運ぶ彼女の表情には気分屋の猫のように、薄く暗い影が差しては消えてを繰り返している。
「本当にフランス語が上手になったよね」
突然、彼女がいった。
「きみと話すために必死で覚えたから」
「冗談の言い方まで、フランス男みたいになって」
冗談を言った訳じゃない。出会った頃はとてもじゃないけど、僕は彼女とフランス語での意志疎通はできなかった。
彼女と出会ったのは、彼女の叔父が経営する小さなビストロでだった。僕は駆け出しの海洋生物学者で、この島には調査研究で来ていた。
見知らぬ土地だとどうしても日々の行動がパターン化してしまう。来島して三カ月が過ぎた頃、普段とは違うところで夕食を食べようと偶然入ったビストロで、彼女は叔父の手伝いをしていた。
ニューカレドニアの公用語はフランス語だが、当時の僕は英語は使えたもののフランス語はまるでダメだった。この島を訪れる外国人観光客の半分以上は日本人で、中心都市のヌメアや観光地アンスヴァタにある日本人がよく来るレストランやビストロではフランス語に日本語の説明が併記されている。しかしセシルの店は地元民向けのこじんまりとしたビストロだったので、メニューはフランス語だけだった。お互いたどたどしく、英語で注文と料理の説明のやりとりをした。島の魚介を中心にした気負いのない料理を僕はひどく気に入って、週に一度は通うようになった。
何度目かに行った時、僕が研究者で生物の調査に来島していること、彼女は体調を崩した叔父の手伝いに本国から短期間の予定で来ていることを自己紹介がてら話した。
「僕は次郎」
ようやく覚え始めた僕のフランス語に、彼女がふふっと笑った。
「変かな? 僕の発音」
「違うの。名字みたいな名前だから。フランス人の名字に『ジロー』って多いの。ピカソの愛人だったフランソワーズ・ジローとか。アンリ・ジローっていうシャンパーニュの造り手もいるわ」
いたずらっぽく微笑みながら彼女は答えた。
フランス語力が上がり、その店に行くにつれて、次第に彼女との会話も増えていった。食事よりも彼女と話すのが目的になっていったとも言える。
「前から疑問だったけど、どうしてこの島にこんなに日本人は来るの?」
ある日、彼女がそんな問いかけをしてきた。ホテルや観光客向けの施設でないと日本人と話す機会はそれほど多くはない。彼女も日本人とまともに会話するのは僕がほとんど初めてだったらしい。
「映画の影響だよ。『天国に一番近い島』っていう」
森村桂の小説を原作に撮影されたその角川映画は一躍この島を日本人の間で有名にし、原田知世という一人の少女の人気を決定的なものにしたらしい。らしい、というのはその映画の公開時は僕もまだ小学校に入るか入らないかくらいで、まだその映画を観たこともないからだ。
「すごいね、一本の映画の力って。でも、わたしが高校生の頃は叔父のところに遊びに来ても東洋系の観光客は日本人しか見なかったけど、この頃は韓国人も中国人も増えたわね」
「区別がつくの?」
「団体でいる時の声の大きさ。多分、一番騒々しいのが中国人」
その後いつのまにか、僕と彼女は店のスタッフと客の一人という一線を越えた。お互いいつか島を離れるという似た境遇が、一足飛びに僕らを近づけたのかもしれない。
結局、セシルが先に島を離れることになった。続いて僕の帰国も決まった。
彼女は今夜、この島を立つ。
叔父の体調が完全には回復せず、店の経営をあきらめて売却することになった。彼女だけこの島に残る理由はない。彼女の実家は南仏にあって、古くから葡萄栽培とワイン醸造を営んでいるという。
僕は四国の小さな漁村の出身で、本来は神奈川県内にある大学の水産学部の講師だ。ある学術団体の補助を受けてこの島に滞在していたが、急遽補助が打ち切りになった。来月には帰国して、四月から大学に戻らなければならない。
「これ、見つけたの。近くの雑貨店にまだ在庫が少しだけあった。このカメラもあげる。叔父が若い頃使っていたものだけど」
彼女がくれたのは僕が好きだったアグファのフィルムだった。研究資料の撮影にはデジタル一眼レフを使うが、趣味で写真を撮る時はフィルムだった。そのフィルムメーカーは数年前に一度倒産したが、人物を撮影した時の肌に独特の赤みがかかる風合いが好きで、僕は見つけては買い置きしていた。彼女の写真も、そのフィルムで何枚撮っただろう。叔父のものだったというカメラは、古いニコンのコンパクトカメラだった。
「少し歩こうか」
彼女の言葉を合図に僕らはカフェを出た。ヌメアは「太平洋の小さなパリ」と呼ばれている。マルシェから街中心部に位置するココティエ広場を横切り、街を見下ろす高台の聖ジョゼフ大聖堂へと向かう。彼女は日曜日によく通っていた。ヨーロッパの街並みに似た通りには土産物のTシャツ屋や食料品店、観光客向けの免税店などにまじって一軒だけ、ショーウィンドゥにウエディングドレスを飾ったブティックがあった。何秒かセシルはその前で足を止めたが、また歩き出し、やがて僕らは大聖堂に着いた。大聖堂からはヌメアの街並みから、ヨットが帆柱を並べて浮かんでいるモーゼル湾までを一望できた。
「背景に海まで入るかな? 最後の記念にそのカメラで私を撮ってよ」
最後、という言葉に少し胸が締め付けられた。さっきもらったばかりのカメラとフィルムで彼女を撮る。現像しても、もう、直接彼女に手渡すことはできない。
「この島と世界が永遠でありますように」
そうセシルが大聖堂に向かって祈った。
「中に入らなくてもいいの?」
「いいの、ここで」
彼女の実家の葡萄畑は、かつて一人の修道僧が切り開いた場所を遠い先祖が譲り受けた由緒ある畑らしかった。彼女は一人娘で、やがては家業を受け継いでいかなければならない。駆け出しの学者の僕とはあまりにも生きていく場所が違っていた。
風は弱まっていた。
彼女は大聖堂のそばにタクシーを呼びつけた。
「叶うならまた、いつか世界のどこかで」
タクシーのドアが閉まる瞬間、セシルが言った。夏の鮮やかな日差しを受けた街並みと、タクシーの窓越しに見た彼女の後ろ姿は、一生忘れられない絵として僕の脳裏に残るだろう。来月には僕も日本へ帰る。南半球のこの島がようやく長い夏の終わりを迎える頃、北半球の日本は春になっているはずだ。彼女の故郷の南仏も。
ことし二度目の夏を、僕と彼女はそれぞれの場所で過ごすことになる。
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