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【短編小説】甲州葡萄 ーマリアージュー

 フルーティーでアルコール分の弱いサワーくらいしか飲まなかった菜穂がワインを覚えたのは、修平と付き合い始めてからだ。酒と料理の相性はとても大切で、ワインと料理の相性は特に結婚にも例えられる、そんな文章が修平の部屋で読んだ雑誌に書かれていた。
 グラスの表面についた水滴が、かなりの時間が過ぎたことを知らせている。
 菜穂は左手首の時計を見た。交際を始めて最初の誕生日に修平がくれたイタリア高級メーカーの時計が、約束の時間から十五分以上過ぎていることを告げている。
 修平はこのごろ、約束の時間に遅れることが増えた。「遅れる」という電話もメールも、以前ほどまめにはしてこない。
 少し自分の扱いが雑になったかもしれない。そんなことを思った時、ドアが開き、修平が店に入ってくるのが見えた。少し気難しそうな表情をして、早足で菜穂のテーブルに近づいてくる。
 「悪い。帰り際にどうしても今日中に段取らんといかん仕事が一件入ってよ」
 梅雨ももう終盤で蒸し暑い日が続いている。今日も朝から湿度が高く暑かった。それでも慌てて来たわりには、修平は汗をかいている気配もない。いつも通りのさりげない、それでいて多分それなりのしならしいスーツを着、革靴も磨かれている。顔に汗が浮いた姿を見せるくらいなら少し遅れても汗ばまないようにゆっくり歩いてくるか、近くてもタクシーで来る。そんなそつのなさとちょっと見栄っ張りなのが彼らしかった。
 椅子に座ると、修平は胸ポケットから携帯電話を出して卓上に置いた。ホールスタッフの女性がメニューを持ってきた。
 「先に飲み物でも頼んじょったらよかったに。あ、俺、コースよりは適当な皿をいくつか選びたい気分。すいません、今夜はなにかおすすめあります?」
 遅れたことにそれほど悪びれもせず、矢継ぎ早に言葉を発する。
 「飲み物はカリフォルニアのスパークリングワインのフェアをやっています。カウンターのボードに書いているのがフードメニューのおすすめです」
 女性が微笑みながら答える。
 「それじゃあ、とりあえずスパークリングワインのハーフボトルを。グラスは二つで。料理はボトルがきた時に注文します」
 ホールスタッフの女性がテーブルから離れる。菜穂はここまで自分が一言も喋っていないのが少しおかしかった。修平はおすすめが書かれたボードに見入っていたが、女性がボトルとグラスを持ってくると、さっさと注文してしまった。
 「それじゃ、お疲れ」
 「お疲れ様」
 やっと菜穂がしゃべるタイミングがきた。
 「久しぶりやね、この店も、会うのも」
 このところ電話とメールのやりとりが多かった。今夜は久しぶりに一緒に食事をし、秋に控えた結婚式の話を具体的に進めようと、追手筋近くのこの店で会っている。
 最初にトマトのカプレーゼが運ばれてきた。モッツァレラチーズの上に高知市近郊の薊野で収穫されたフルーツトマトがのっている。一口頬張ると、新鮮なトマトの甘さと控えめな酸味が口中に広がった。
 ハーフボトルが空くと、修平はワインリストを持ってきてもらった。さっと目を通すと、なにかをスタッフの女性に告げた。
 次々と料理が運ばれ始めた。県産夏野菜のサラダ、朝どれイサギのカルパッチョ、地鶏のたたき風、水菜がたっぷり入ったパスタなど次々と修平が注文したメニューがくる。
 すべて菜穂も好きなもので、量も適量に近い。悪くはない。しかし……。
 「なに食べたい?」の一言くらいあってもいいんじゃないかな、と彼女は思う。
 二カ月前、修平がプロポーズした。菜穂は迷わずOKした。それなのに、なにか微細な澱のようなものが彼女の心に最近溜まり始めている。
 ワインがテーブルに運ばれてきた。エチケットにMeursaultという文字が読める。まだあまり詳しくない菜穂でも分かる、有名どころをきっちり押さえた修平らしいチョイスだ。しかし食事が進むにつれ、彼女には果実味がやや強く、後味に残る甘い感じが今夜の料理と合わない気がした。夏が近いこの時季のの魚は脂もまだ少ない。偶然そういうボトルだったのかもしれないが、やや重厚な白ワインは料理に勝っていた。このメニューなら、きりっと酸の立った日本の甲州くらいが良かった。
 いつの頃か分からないくらい昔にヨーロッパから渡ってきて、そのまま日本の風土に溶け込んだ葡萄品種。その奥ゆかしい感じが菜穂は好もしかった。
 食事をしながらも、修平が携帯を気にしている。付き合い始めたころなら、菜穂と二人の時に卓上に携帯を置くことはまずしなかった。まして鳴って出たり、届いたメールに菜穂の目の前で返信したりすることは考えられなかった。今では鳴れば取るし、メールに返信するのも普通だ。仕事の連絡としても一、二時間くらいオフにしていてもいいだろうに、そう菜穂は思う。
 「ハワイのガイド買ったよ」
 修平の変化を観察するのはひとまずやめて、菜穂は今夜の話題の口火を切った。
 「そのことながやけど」
 少し決まりが悪そうに修平が言った。
 「新婚旅行、ハワイやめてアジアにせん?」
 「なんで?。結婚休暇は十日あるき、ハワイでのんびりしようってゆうたが、修平やろ」
 「実は旅行期間と新規事業のスタートがかぶる。俺、サブリーダーやき不在はまずい」
 だから申し訳ないけど少し短い旅行にしたい、そう彼は言葉を続けた。底に溜まったワインの澱がボトルが揺す振られて舞い上がるように、菜穂の心に不吉な小波が立った。それでも穏やかな口調を懸命に保つ。
 「サブやろ? 数日くらいやったら、おらんでも大丈夫ながやない?」
 「けんど自分がリーダーになった時、示しがつかんやんか。それにシンガポールやったらハワイの半分の日数で十分楽しめるき。街はきれいやし、食べ物もうまいし。間に一泊ばぁインドネシア側のビンタン島に行くとか、ジョホール水道をマレーシア側に渡るとかもおもしろいかもしれんで」
 矢継ぎ早に修平が自分の中で組み立てたプランを提示してくる。
 優しくない訳ではない。思いやりも人並み以上はある。ちょっと合理的な考えに走りすぎるのと、独善的すぎるのだ。それに最近なにか焦っている。菜穂は修平の観察と分析を再開した。冷静に観察対象として突き放して見れば、感情的にならなくても済むような気がした。
 考えてみれば菜穂が修平の部屋に泊まっても、彼は彼女より先に起きて髭を剃り、髪に櫛を入れている。彼女のために朝からけっこう手の込んだ朝食も作る。愛車は格別高級車ではないが、趣味のいいドイツ製のコンパクトカーだ。今更ながら修平の隙というものがあまり記憶になかった。
 菜穂は鶏肉の欠片かけらを口に入れた。飲み込んでグラスに口をつける。口中に残った肉の後味とワインの果実味が合わない。ワインと料理の相性についての文章を思い出す。完璧主義者に近い修平と自分は同じ屋根の下でうまくやっていけるのだろうか。いま嚥下した肉とワインのように、不協和音を奏でたりしないだろうか?
 心の奥底に溜まっている澱の正体がはっきりと不安の形をとりつつあった。絵に描いたようなマリッジブルーというやつだろうか。
 今夜はこれ以上会話すると、何かが起きそうな気がした。幸い注文した料理はすべてきて、ボトルも空いた。店を出ることにした。
 中心街を歩く。アーケードに「貸し物件」の張り紙が目に付く。
 「仕事の後、ぶらっと寄れる店がもっと増えたらえいにね」
 「しょうがないろ―。土地の経済力を反映しちゅうがやき」
 「それはそうながやけど」
 結局、式と旅行の話はほとんど具体化しなかった。すれ違いの気分のままぶらぶらと歩く。これ以上会話を続けると、これまでにないくらいの大喧嘩をしそうだ。
 「泊まってく?」
 修平が遠慮がちに聞く。
 「ううん。きょうは帰るね。また話そ」
 アーケードの東端で修平と別れた。なんとなくそのままマンションに帰る気もせず、まだ開いていたカフェでコーヒーを飲むことにした。役に立つかどうか分からないハワイのガイドを読みながら過ごすうち、不思議と小腹が空いた。アーケードから北に行くと屋台が数軒あったことを思い出す。
 カフェを出て、一度同僚と行ったことのある屋台に入ると、餃子と生ビールを頼んだ。
 斜め向かいに、テーブルに突っ伏している若い男がいた。どこか修平に似た雰囲気だった。「へいやん、起きや」。大将が声を掛ける。一瞬起きて周りを見、また突っ伏した。驚いたことに修平本人だった。
 「その人よう来るがですか?」思わず大将に聞いてしまった。
 「うん。知り合いかえ? なんかこのところ彼女としっくりいかんゆうて、さっきまで結構酔うて愚痴りよったがよ。彼なりに頑張りゆうみたいやけどね」
 大将がいうには、「平やん」は彼女と離れたくなくて、地元の食べ物も好きで、県外への転勤を拒み会社で苦労しているらしい。菜穂の知らない、不器用で泥臭い修平の一面だった。
 見えないところでまぁ――。にやけているのか苦笑なのが自分でも分からない表情になっている。不思議とこの先、うまくいくような気がし始めた。中ジョッキを一気に飲み干すと妙に力の入った声が出た。
 「大将、生中なまちゅう、もう一杯ちょうだい」

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