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とにかく立ち止まって考えてみてから、学びに進んでほしいのだー滋賀大学での哲学対話の授業から #1

私は彦根城のなかにある滋賀大学で、いわゆる社会人基礎力や人間力といわれる能力向上をねらいとした教育プログラムを開発し授業として実践している。最近ではリベラルアーツやSTEAM教育のプログラムの一種だと言うこともできる。

その一つに「哲学対話」を通して、誰ひとり取り残さないとは、どういうことかを思考する授業がある。これは昨年の春学期、秋学期に続き、3ターム目の取り組みだ。

この春学期は、経済やデータサイエンスを学ぶ学生1年生から4年生の15名が履修してきた。


哲学や哲学対話なんてはじめてチャレンジする学生たちに何を、どんな学びや成長を期待しているのかといえば、まずは、今あたりまえにやっていること、やらなければならないとおもっていることに疑問をもち、立ち止まり考える時間を経験してほしいということである。

私自身が受けてきた教育は、やらなければならないことが提示され、いやいやでもやってきたし、それに慣れてしまい、理由はわからないけど、言われたからやっているし、その方が楽だという思考になってしまった。

この思考は、もしかしたら今でも結構残っているのかもしれないと、大学生たちを見ていて思う。親世代が私と同じぐらいだから仕方ないと言えば仕方ない。

この哲学対話の授業で、なんとかそこに一石を投じたいと思っている

一石を投じるといっても、先刻の思考を否定するのではなくて、立ち止まって考えてみようと言う程度だ。問い直し、その結果、今やっていることをやり続けるのであればそれでもいいし、今やってることを辞めて、ほかのことをやりだしてもいい

とにかくは、一旦、立ち止まり、疑ってみることが大事だと思う

ということで、この春学期の授業は、2週間に1回90分の授業をやっているのだ

一番最初の問いは、「哲学対話ってなにか」だった。学生はろくすっぽ説明を受けないままに、対話の時間にほっぽり出された。それでもいくつかの問が生まれる中で、円座になって対話することはどういくことか、どうやったら話しやすい空気ができるのか、なんで緊張するのか、などをもとに、40分程度の哲学対話ができた。

2週間後の授業では、テーマは「問いとはなにか」だった。問いをもつことと悩むことは同じか、ちがうか、問いは意識して行う行為か、無意識に行われているのか、人間が目で見る・肌で感じるなど五感の働きも人間が無意識に問を立てるからこそ感じ得るものなのではないか、という意見もありおもしろい時間だった。

5月10日は3回目の授業で、テーマは「ファシリテートするとはどういうことか」だ。授業を通じて、学生が主体的に哲学対話をできるように、ファシリテートへの理解を深めようという意図で行った。

ファシリテートは、その意味や役割や機能そのものを問うものとして、最初の問だしでは、

・ファシリテーターがいる場合といない場合では結果にちがいが出るのだろうか
・司会進行とファシリテーターは何が違うのか
・ファシリテートが必要な場面はどんなところか
・ファシリテーターをやるときに心がけるものは
・ファシリテートするのは具体的に何を促したり、容易にしたりするのか
・ファシリテートを幼稚園児に説明するにはなんて言えばいいか、

などたくさんの問いが出た中で、投票の結果「ファシリテーターがいる場合といない場合では結果にちがいが出るのだろうか」を最初の問いとして、対話を始めた。

約30分の対話では、ファシリテータとは役割ではなく、ファシリテーションシップとしてグループのみんなが持ち合わせるものではないかとか、司会は役割でその役割と同時にファシリテーターという役割があるのじゃないかとかなどの意見があり、アフタートークでは、部活の主将をやっている学生から、自分はどうしてもファシリテーションというものがわからなかった、という感想もでた。 

この回の授業を終えて思ったこと。
僕としては、当初、会議のファシリテーション、哲学対話のファシリテーションと区別して考えていたのだけども、それはいわゆるテクニックというか、表面的なスキルの話だけだったと思った。

そもそも何でファシリテートするのか、ファシリテートってなんだ、を考えると、その場その場の思惑や目的、ゴールがあり、それを達成するためにするのであって、そう考えると、ファシリテーターが一人いたからといって、その場の思惑や目的やゴールが達成できるものじゃない。

ファシリテーションシップをグループのみんながいかに持つか、ということが大事じゃないかと考えたのでした。

次回の24日の授業からは、企業人のゲストを招いての哲学対話が始まる。ここからは学生がファシリテータを努めることになる。楽しみだ


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