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バスの中

 カーテンを吊るす。十センチほど長すぎるそれは春の風に揺れ、ずず、と床を掃く。
「わかってはいたけど、やっぱり長かったなあ」
「そうだねえ。でもとりあえず当分はこのままかな。部屋が片づいてきたらミシンでガーッとまつっちゃうから、悪いけどそれまでは我慢してね」
「急がなくていいよ。踏まないように気をつければいいんだし」
「うん、ありがとう」
 日中は会社の彼、PCとインターネット環境さえあればどこでも行える仕事の私。
 過ごす時間の長い瑞樹さんが好きな家具を買い揃えればいい、と言ってくれた彼に甘え、テーブルも椅子もチェストも、冷蔵庫も洗濯機もストーブも、何もかもかわいらしく女らしい色で揃えたが、カーテンだけは地味な薄灰色のものにした。彼には「防犯になるから」と伝えてあるが、本当の理由はそうじゃない。
 揺れる、カーテンの裾を見ている。
 頭の中で音楽が鳴る。


 *


 真冬のバスは暑い。異常なほど暖気された車内は雨に濡れた人々の熱気と混ざり合い、鉛のような質感になっていた。このバスは町はずれの住宅街にあるバスターミナルから、海沿いにある観光地を過ぎた駅前までを繋ぐ路線で、その途中には県立高校がある。普段どおりの朝ならば人の少ないこのバスも、雨や雪が降ると自転車通学の生徒でごった返してしまう。
 幼いころからどうしても自転車に乗れない私は、毎日ターミナルから数えて二本目のバス停からこのバスに乗っていた。学校からは「他の利用者の皆さんのご迷惑にならないよう、できるだけ席には座らないようにすること」と言われてあるが、従順に守っている生徒なんて誰一人もいない。朝から疲れたくないのは、他の利用者さんも私たち生徒も同じだ。大抵の生徒はお年寄りや親子連れ、妊婦、具合の悪そうな人を見たら立ち上がって席を譲っているし、私もそのくらいで充分だろうと常々思っている。
 ドアが開く。皆が一度携帯電話の画面から目を離しスペースを作る。できた空白に新たな生徒が乗り込む。運転手がぼそぼそと発進を告げ、それと同時にドアが閉まる。再びバスが動き出す。
 入り口付近に目をやると同級生の女子がこちらを見て笑っていた。口の形で、おはよう、と伝えてくるのでそっくりそのまま返してやる。彼女は普段自転車通学で、天候の悪い日だけこのバスを利用するが、彼女の家の近くのバス停は路線の中頃にあって、そういう彼女が座席に座ることはなかなか難しい。
 さらにしばらく進んで高校前。車内から一斉に生徒が吐瀉され、私もその中に混じる。運転手に惰性そのままの礼を伝え、もちろん運転手も何も言わない。校門まで傘を差すか迷っていると、
「おはよう」
 歩道の隅で立ち止まっていた同級生がそっと私をその傘の内に誘導する。
「おはよう。寒いねえ」
 ダッフルコートのポケットに両手を突っ込みながら素直に彼女の傘に入る。
「寒いねー。スカート穿くのがしんどいよ。わたし、きょうタイツ百二十デニール。しかも裏起毛だからね」
「いいなあ、私八十だ」
 華奢な身体つきの彼女が細い脚にまとわせる肉厚なタイツは何となくアンバランスに思えたが、どのような状況であれ寒さには勝てない。自分も近々厚手のタイツを買おうか、しかしバスの中は蒸すように暑いし、などと考えながら私は彼女と共に校門をくぐった。
 私たちはクラスが違う。C組の前で彼女と別れ、私はD組に入る。幾人かの友人たちと挨拶を交わし、机の上に鞄とコートを放って、スマートフォンだけを手に自らを招き入れてくれる輪に参加する。昨日観たテレビ、キュレーションサイトの情報、SNSのハッシュタグ、別クラスの噂話に街中の新店。自分でも、なぜこうも毎日話題に尽きないのか不思議に思う。
 あるいは、「大人」という生き物から見たら私たちがこうして話している内容なんて「話題」とカウントするまでもない、取るに足らないものなのかもしれない。いや、事実そうなのだろう。だからといって私はこの時間を自ら切り捨てようとは思わない。良くも悪くも、今が楽しければそれでいい、それが子どもの特権で、子どもはそう在って然るべきなのだ。当時の私は、子どもとは得てしてそういう生き物であるのだと思い込もうと必死だった。
 鐘が鳴り、各々席に着き始める。私も放り投げてあった上着と鞄を片し、携帯電話をサイレントモードに切り替えて机の中にしまう。しばらくすると教師がやってきて、代り映えしない話を普段通りの口調で話し始めた。



 昼過ぎには雨も止み、下校時間になるとむしろ雲の透き間からは金色の光の筋がちらちらと見え隠れしていた。相変わらず校庭は水浸しだったが、陸上部は室内でのトレーニングを行うらしく、廊下ですれ違った同級生の女子生徒は「めんどくさいよー」と文句を垂れながら私に手を振った。部活動に参加していない私は、誰かに誘われない限りどこにも寄らず真っ直ぐ家へ帰る。きょうも誰からも声をかけられなかった。自分から声をかけることはまずない。
 視界や道路が悪いわけでもないのに、バスはなかなかやってこなかった。土地柄なのか、遅延することは少なからずあるので十分程度は気にしないのだが、この日は十五分経ってもバスはやってこない。何度も時刻表を確認しながら首をひねっていると、
「あれ、もしかしてまだきてない?」
 駆け足で近づいてきた新藤くんが嬉しそうに私に訊ねた。
「あ、うん、まだ。すっごい遅れてるみたい」
「おおー、ラッキー。雨のせいかな? でももう晴れてしばらく経つし、道路もそんなに水浸しって感じじゃないよね」
「ね、ほんとに。何かあったのかな」
 新藤くんがポケットからスマートフォンを取り出し、何かを入力する。手際よく作業しながら、そうして、
「ああー、なんか事故っぽい」
「え? 事故?」
「うん、ツイッター。ほら」
 彼が私に画面を見せる。映っていたのはツイッターに載せられた写真で、新藤くんは路線名とバス会社で検索をかけたらしい。本来であれば私たちを乗せていたはずのバスは、観光地付近の三車線道路の中央分離帯に突っ込み、前方がひしゃげていた。
【××前で×××のバスが事故ってた。フロントガラスぐちゃぐちゃだわー】
 添えられた言葉の軽さと写真の重さが釣り合わない。新藤くんは画面を眺めながら、
「なんつーか、よくこういうの撮れるよなあとか思うわ。まあ情報としては助かっちゃってるんだけど」
 まるで写真の中のバスみたいに顔面を顰める。
「まあこういうことなら仕方ない。歩くかあ」
 新藤くんが歩き始める。少し行ったところには別路線のバス停があった。おそらく彼はそこに向かうのだろう。私も新藤くんの後をついていく。
 新藤くんはB組の生徒だったが、去年同じクラスだったこともあり別段緊張することもなく話せた。彼は他の男子たちよりも頭半分背が高く、スラックスの裾がちょっとだけ短い。入学当初は平均的な身長だった新藤くんは、この一年半ほどでうんと背が伸びたようだった。道をショートカットするためコンビニエンスストアの駐車場を斜めに過ぎる。公衆電話の囲いに一瞬だけ映る私たちは、平均身長より五センチ小さい私の影響なのか何となくバランスが悪い。
 目的のバス停に到着し、新藤くんと並んでバスの到着を待つ。新藤くんに倣い、ツイッターでこの路線で何か事故が起きていないか確認してみるが問題なさそうだった。新藤くんにそれを伝えると、
「三上さん、マメなんだねえ」
 と、少しピントのずれた答えが返ってくる。
 私たち以外にも、バスの事故を知ったのだろう生徒たちがぽつぽつと列に並ぶ。複数人で並ぶ子たちは各々お喋りに夢中で、ひとりの子は皆イヤホンを嵌め何かを聴きながらスマートフォンをいじっていた。私は新藤くんと並び、何を言うでもなく、聴くでもなく、ふたりじっと前を見つめていた。
 しばらくしてバスがやってきて、先頭の新藤くんから順に乗り込む。新藤くんは後方の二人掛けの席に座り、私は前方の一人掛けの席に座った。鞄からイヤホンを取り出し、スマートフォンに繋ぐ。適当な音楽を流し、キュレーションサイトや有名人のインスタグラムなどを暇つぶしとして眺める。都会で流行っているという、いかにも合成着色料だろう毒々しい色合いの飲料はまだこの街までたどり着いていない。見つけたら買って写真を撮ろうと思っているけれど、きっと私が手にするよりも先に他の子たちが買って、各々のSNSにアップするのだろう。そこに示される、私の交友関係では賄いきれないほどの“いいね”を私は「羨ましい」と思ったりする。皆が承認欲求を満たすためだけに行う様々を鼻で嗤えるほど私は大人じゃなかったし、孤立を受け入れられるほど強くもなかった。
 私が着席して数十秒後、耳元から流れる音楽のイントロが終わるとほとんど同時、バスは走り出した。雲行きが怪しい。今朝のような雨が降るのかもしれない。



「ありがとうございました」
 イヤホンの片耳だけを外し、最寄りのバス停で降りる。なんとか空は持ちこたえていて、坂上の自宅までならば濡れずに済みそうだ。
 新藤くんは七つほど前のバス停で降りて行った。私とすれ違った瞬間、彼は私へ向かって何かを言ったようだったが、その声は音楽に掻き鳴らされ聞き取れず、思わず発した、
「え?」
 という私の言葉に新藤くんは苦笑しながら首を横に振り、そのまま料金を支払うとバスを降りてしまった。悪いことをしたと思い新藤くんにLINEで詫びでも送ろうかと考えたが、しかし私は彼の連絡先の一切を知らない。今度廊下ですれ違ったら、そのときにでも。そんなことを思いながら私はいつもより早足で緩やかな坂を上っている。確かに傘はあるが、だからといって冬の雨をすんなりと受け入れられるわけではない。湿っぽい冬の匂いは心理的にも寒さを加速させる。パート勤めの母はもう帰宅しているだろう。自室の暖房を点けてもらえるよう、バスの中で連絡を入れておくべきだった。いつもそのように思い、しかしいつも頼むのを忘れてしまう。
 薄暗い住宅街、雨合羽を着た大型犬とすれ違う。犬は私の顔をじっと見つめながら通り過ぎ、私は無言で飼い主と会釈し合った。



 翌日は快晴だった。いつも通りの時間にバスへ乗り込み、一人掛けの席に座り、イヤホンから適当な音楽を流している。通り過ぎる保育園ではすでに何人かの子どもたちが校庭を駆け回っていた。とりどりのコートを着た彼らはゼンマイ仕掛けかと思うほどぎこちなく走る。数年もすればあの不安定さもなくなってしまうのだろう。モップのような長い毛を持つ薄灰色の大きな犬が、飼い主と共に信号が青に変わるのを待っていた。その隣にはスーツ姿の男性、ジョギング中の老人は足踏みを繰り返している。
 信号が変わり、バスが進み、しばらくして停車する。バス停から数人の人が乗り込んでくる。うち一人は新藤くんだった。彼は私の姿を捉えるとそのまま近づいてきて、私の座席の真ん前のつり革を掴む。私はイヤホンを外す。
「おはよう。今日もさみーね」
「あ、うん、おはよう」
 車内は空席だらけだった。新藤くんは私の後ろの席に座るでもなく、他の席に座るでもなく、私の横に立ちつらつらと淀みなく話しかけてくる。
「三上さんってどこから乗ってるの?」
「×××××っていうところ。バスターミナルから数えて二本目」
「へえ、かなり遠いんだね。だからバス通だったんだ」
「ああ、それもあるけど、私自転車に乗れないの」
「え、マジ? バランス感覚的な?」
「うーん、どうだろう。でも確かに、あんまり運動は得意じゃないな」
 新藤くんがしみじみと「大変だねえ」と言う。内心、そこまで困ったこともないのだけれど、と思いつつ適当に頷いてみせると、新藤くんは、
「三上さん、いま何聴いてたの?」
 私の膝の上のイヤホンを指さしそう言った。
 思わず固まってしまう。中学時代の記憶が一気に甦る。
 自分でいうのもなんだけれど、中学時代、私はクラスで浮いていた。当時両親の教育方針の影響で自宅にテレビはなく、やはり彼らの影響で海外バンドの陰鬱な音楽ばかりを聴いていて、流行りのポップソングなんて何一つも知らなかった。クラスメイトがアイドルだ、Jpopだ、邦ロックだ、ロキノンだと騒いでいるあいだ、私は教室でただ一人教科書を読んでいた。当時の私は彼らの聴く音楽のよさを理解しようとしていなかったし、理解したいとも思っていなかった。
 テレビ番組なんてものは、低能な親が子どもへの躾を手抜きするためだけに流すものだと母は言った。父は「あれを見ていると頭が悪くなる」とばかり表現した。二人は今も昔も私以上にインターネットにのめり込んでいる。
 今の私は邦楽も万遍なく聴くし、自室にはテレビだってある。クラスメイトの話題にも問題なくついていけている。スクールカースト上部の女の子から教えられたキュレーションサイトはくまなくチェックしているし、SNSだって皆が登録しているものにはちゃんと私も参加している。大丈夫、今の私は浮いていない。自分に強く言い聞かせる。
「えーっと、×××の新譜」
 クラスメイトの大半が聴いているバンドが先月出したアルバムを挙げる。どうやら新藤くんも彼らの音楽は好きだったらしく、
「あー、すげえよかったもんね。俺、あのアルバムだと××が好き。何曲目だったかな」
 彼はわかりやすく破願してみせた。
 それほど好きでもないバンドの名前を挙げることにも慣れた。私は高校生として、問題なくクラスに馴染んでいる。環境に溶け込んでいる。何も問題はない、不安がることなんてない。新藤くんと話し続ける。他の乗客が眉をひそめて賑やかすぎる私たちを見ている。彼はそのことに気づいていないようだった。



 以来、毎朝新藤くんは私とバスで会うたび私の座る席までやってきては、両手でつり革を掴み私に話しかけてくるようになり、私はできるだけ彼の話を聞く側として適切に相槌だけを打ち、淡々とその時間を過ごした。無暗に話を広げ、中学時代のように他者を見下す自分に戻るわけにはいかないと思っていた。知っていることも知らないと言うこと。何も知らない下等な道化で在ることで、私は怠惰な高校生活をここまで乗りこなしてきたのだから。
「ああ、そういえばさあ、これ、聴いてみてほしくて持ってきたんだよね」
 信号待ちでバスが停車したと同時、新藤くんが鞄から一枚のCDを取り出す。彼が私に見せたのはイギリスのとあるバンドで、陰鬱な歌詞と、様々な音楽の旨みを適切にピックアップし再構築したような複雑なサウンドが響く、私が何年も愛聴しているそれだった。
「え、××××?」
 思わずバンド名の愛称を口走ってしまう。途端、新藤くんはわかりやすく嬉しそうな顔をして、
「え! 三上さん××××知ってるの!」
 と大声で言う。さすがに目に余る賑やかしさだったのだろう、いくらか離れた席のサラリーマンがわざとらしく咳払いをした。新藤くんが、「あ、やべ」と呟き、サラリーマンへ小さく頭を下げる。運転手は何も言わず、バスもまだ動かない。新藤くんは、
「三上さん、こっちきて」
 と小声で私を誘いながら、私の座る席の斜向かい、二人掛けの席へと腰掛けた。歩行者用の信号が赤に変わる。もうすぐバスも動き出してしまう。私は慌てて立ち上がり、彼の隣に座る。断っていい流れだとは思えなかった。私が座ったと同時にバスは発進して、私は軽く体勢を崩す。新藤くんが私の前に自身の手を差し出し、私は思わず彼の手を掴んでしまう。
「あっぶね、大丈夫?」
「あ、うん……。ありがとう」
「座席、見てないのかな」
「まあ、信号が変わりかけてるのに動いた私も悪かったわけだし」
 運転席のほうを見ながら睨むように新藤くんは目を細めている。私はコート越しに伝わってきた、女友達のそれとは明らかに違う彼の腕の逞しさにいくらか動揺していた。悟られないよう話題を音楽に戻す。ただ、あのバンドのファンだとは気づかれたくなかった。予防策として言い訳を並べておく。
「でも、新藤くんも××××とか聴くんだね。友達がこの人たち好きなんだけど、私は名前くらいしか知らないんだよね」
「あれ、うそ? えー、友達って誰?」
「他の高校の子。中学時代の同級生で、もう連絡取ってないけどね」
「ふうん……。なるほどね」
 新藤くんは明らかに残念そうだった。私が彼らの愛称を口走ってしまったことに余程驚き、それと同時、余程嬉しかったのだろう。少し申し訳ない気持ちになる。しかしもう引っ込みはつかなかった。私が自らの嘘を暴くことはない。
「新藤くんはそのバンド大好きなんだね」
「うん、俺はきょうだいの影響で聴き始めたんだけど、もうめちゃめちゃ好きで。サブスクで聴けるからCD買う必要はないんだけどさ、なんか、中古屋とかで見かけるとつい買っちゃうんだよね」
「あはは、よっぽどなんだね」
 新藤くんが私にCDを手渡す。受け取って、自分でも何度も眺めた歌詞カードをぱらぱらとめくる。全体的にボロボロになっているのが中古だからなのか、新藤くんが何度も読み返してきたからかはわからないが私は好感を覚える。
「これ、借りてもいいの?」
「あ、勿論もちろん! そのために持ってきたんだし」
「ありがとう。今日中にPCとスマホに取り込んで、明日には返すね」
「聴いたら感想教えてよ」
「うん。大したことは言えないと思うけど、それでよければ」
 新藤くんが満足そうに笑い、私も彼に笑い返す。彼らの全アルバムがすでにPCにもスマートフォンにも入っていること、中学生時代は彼らの曲ばかり聴いて過ごしていたことを新藤くんが知ったら、はたして彼は喜ぶだろうか。それとも中学時代のクラスメイト達のように気持ち悪がるのだろうか。そもそも新藤くんはなぜこのCDを私に聴かせようと思ったのだろう。訊ねてみたい気持ちはあったが、結局切り出せないままバスは高校までたどり着き、私たちは下駄箱を過ぎたあたりで何となく別れた。



 教室に入る。仲のいいクラスメイトの女子が私を見つけるや否や、出し抜けに私の腕を掴み、
「瑞樹、新藤と仲よかったんだ?」
 と言った。彼女の顔はどこかせせら笑っているようにも見える。嫌な予感しかしなかった。
「えーっと、それってどういう?」
「いやあね? 瑞樹さんはああいうのが好みなんですねえってことです。ふふ、何回も見かけたよ、一緒に登校してきてるところ」
「はあ? なにそれ、飛躍しすぎ。毎朝バスで会うから話してるだけだよ。音楽が好きみたいでさ、私も俄知識で相槌打つしかしてないし」
「あのさあ、新藤さあ、ホントはバス通じゃないんだよ?」
「え?」
「新藤。アイツ、チャリ通」
 思わず彼女の顔を凝視してしまう。今度こそ彼女はわかりやすくニヤニヤと笑いながら、
「瑞樹と一緒に通いたいからってことなんじゃないの?」
 まあ、うまくやんなよ。アイツ友達少ないみたいだし、ちょっとオタクっぽそうだけどさ、たぶん悪い奴ではないと思うんだよね。そういって彼女は私の肩をパンと一度強く叩くと左腕を解放した。私は自らの両手を強く握りしめながら彼女の後姿を見ている。彼女がいう通り、きっと新藤くんは悪い人ではないと思う。
 悪い人、ではない。
 もし彼女が中学時代の私を見たら何と表現しただろうか。考えたくもなかった。



 帰りのバスでは新藤くんに会わなかった。
 鞄からCDを取り出し、ぼうっとジャケットを眺める。見慣れた写真、見慣れた文字、聴きすぎた曲。頭の中で音楽が鳴っている。イヤホンはつけていない。



 翌朝、やはり新藤くんとバスで会う。昨日のようになってはたまらないと、私はあらかじめ二人掛けの席に座っていた。乗り込みながら新藤くんはきょろきょろと辺りを見回し、私を見つけると躊躇いなく隣に座る。簡単に挨拶を済ませ、バスの発進と同時、彼へCDを返す。五曲目が好きだった、と伝えると新藤くんも「俺も好き」と笑う。
「俺、クラスではできるだけメジャーどころの邦ロックとかの話するようにしてて。まあ別に××××の話したって『誰それ?』って返されるだけで否定されるとかじゃないんだろうけど、まあでもその誰それって返しも結構寂しくなっちゃうもんだから」
 バスの中でも大声で笑えてしまう新藤くんは、私が思っていたよりもずっと繊細な人であるようだった。彼は手の中のCDを大切そうに親指で撫でながら、
「歌詞の和訳、読んだ?」
 と私に訊ねた。短く頷いてみせる。彼は言葉を続ける。
「結構暗いよなあ。うつっぽいって言えばいいのかな。あんまり褒められた内容じゃないっていうか。『友達いないやつがこぞって聴いてそう』とかって悪評もあったりするらしいんだよね。はは」
 私には彼へ返すべき言葉が見つけられなかった。一体彼がどのような言葉を求め、朝からこんな話をしているのか、皆目見当もつかなかった。だから、私には彼が次に切り出す言葉を全く予見できなかった。
「三上さんが××××を名前くらいしか知らないって嘘吐いたのも、そういう理由からだった?」
 彼は知っていたのだ。
 もちろん馬鹿にされるのだとは思わなかった。
 彼が私を馬鹿にするためだけにわざわざバス通学に変え、私に話しかけ、自らCDを買い、それを私に貸したとは到底思えなかった。おそらく彼は、私のクラスメイトが言った通り友達が少なくて、暗くて、こういう音楽を好んでしまう側の人間なのだ。彼は私と同じような人間なのだ。
 しかし、私はそれを受け入れられるほど強い人間ではなかった。
「はは……、やだな、どういうこと? 嘘吐いたって? どのあたりのこと? ちょっと新藤くんの言ってる意味がわかんないかも」
 私はへらへらと笑う。新藤くんがあからさまに傷ついたような顔をしている。彼は小さな声で、「いや、もういいや」と呟き、口を開くことをやめた。
 バスは進む。あと三つ、信号を越えたら学校だった。信号が赤に変わり、停車する。上半身が薄く揺れる。私のスマートフォンが震える。コートのポケットから取り出す。届いたLINEを読む。大した内容ではない。教室に行ったら口頭で返事をしよう。既読だけをつけ、そのまま画面を消す。再びバスが発進する。
「俺さあ、もうすぐ高校辞めるんだよね」
「え?」
「高校。辞めるんだ。引っ越すことになってさ。親が離婚するんだよね。親きょうだいは転入しろっていうんだけど、なんかもう、疲れちゃって。いろいろしんどくてさ、今さら別の高校で人間関係再構築するのも、まあ俺には無理だろうなあって。その場の空気読んで、他人と足並み合わせて、とか、そういうの向いていないんだよ、たぶん。俺」
 新藤くんが笑う。少なくとも私には笑っているように見えていた。
「LINE、返してやんなよ。どんなメッセージであれ、既読スルーは寂しいもんだよ」
 思わずスマートフォンを握り締める。同じように、新藤くんもCDを強く握っていた。
「画面。横からでも結構見えるんだよな。気をつけないとさ。同じ学校の男子生徒に覗かれて、ああ俺と同じバンド好きなんだ、とかって思われたりするんだから」
 バスが停まる。気がつけば高校最寄りのバス停に着いていた。新藤くんが立ち上がり、それと同時に、
「これ、あげるよ」
 CDを私の鞄に無理矢理ねじ込んだ。私が動揺しているあいだにも彼は運転席のほうへと歩き、料金を支払い、タラップを降りていく。私も慌てながら彼の後を追いかける。
「あの、新藤くん」
 隣に並び、私は彼に話しかける。彼は構わず自らの話を続ける。
「俺、今は一軒家に住んでるんだけどさ、離婚後は母親についていくからアパートになるんだよね。もう内見は済ませてて。てか、もうすでに母親はそっちに住んでてさ、自転車ももうそっちに送っちゃってるから今はバス通なの。いや、そもそも予定ではもうとっくに高校辞めてるはずだったんだよなあ。ただ高校の退学手続きがなかなか進まなくてさ、やっぱ教師たちも辞めさせたくないんだなー。家庭の事情とかなんとか、最終的には無理矢理言いくるめてって感じだったけど。教師も、思ったより口出してくるんだなーってさ……、はは。で、その新しいアパートの部屋のカーテンがさ、寸足らずなんだよ。十センチくらいかな。一軒家のときに使ってた薄灰色のやつをそのまま持って行ったから仕方ないんだけど、なんかその十センチ足りないってのがすげえみすぼらしくて、ダサくてさあ。その透き間からちらちらって外の世界が見えるのがさ、時々無性に嫌になるんだよ。そういう気分のとき、俺、××××の曲聴いてるんだ」
 玄関に到着する。靴を脱ぎ変えるため新藤くんが自身の下駄箱の前に向かう。私の下駄箱は四つ隣の棚だった。急いで履き替え、廊下で新藤くんの姿を探す。すぐに見つかる。彼は私のことをじっと見ていた。
「三上さんならこういう気持ち、わかるのかなあって思ったんだ。ただそれだけ」
 そういうと彼はそっと笑い、踵を返して廊下を進んでいった。
 この道の先には職員室があった。



 ホームルーム後、新藤くんのクラスメイトに訊ねると彼が今日付で退学したと教えてくれた。新藤、誰にも相談していなかったんだよ。彼女が表情を暗くする。私はその表情の変化を肯定的に捉えられない。
「でも三上さん、新藤と仲よかったんだっけ?」
 不意に彼女からそう言われ、私は少し考えて、それから、
「ううん。でも好きな音楽が一緒だったんだ。それだけ」
 と返してやる。
 彼女が「なんていう曲?」などと訊ね返してくることはなく、代わり、
「そのうちLINEでも出してやってよ」
 私へそう提案してきた。うん、と短く言葉を返し、私は再び自身の教室へと戻る。連絡先一つ知らない私が彼の携帯電話を震わせることはない。一限目の開始を告げる鐘が鳴る。教科書とノート、筆記具を取り出すため鞄の中に手を突っ込む。指先にCDのプラスチックケースが触れて、私はそれをそっとなぞり上げていた。



(「バスの中」21.2.21)

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