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清らかな水(小説)

 どうにも心を壊せないんだよ。
 そう言ってへらへらと笑った彼の心がいまだ壊れていないだなんて、一体誰が断言できるだろう。今も彼の身体は少しずつ腐敗している。


 この部屋を満たす、冷たく乾燥した空気のせいで酷く胸は痛んだ。
 雑菌の繁殖を防ぐため温度と湿度は極限まで低く設定され、時折彼の様子を窺いにくる看護師は、防護服で身を包んだまま、部屋中をくまなく消毒して帰っていく。
 ひび割れたような喉頭に、消毒用エタノールの尖った臭いが刺さる。と同時、どこか錆びた金属にも似た、生肉が腐っていく独特の据えた臭いが私の喉を密やかに締め上げていた。

 日に日に弱っていく彼に私がしてやれることなんて、もうほとんどない。そしてその「してやれることの少なさ」はこれからも変わることがない。あるいは、これからより一層減っていく。
 彼の顔を見る。誰よりも整っていた彼の顔の左半分は、苔色に変色していた。
 眼球は二ヶ月ほど前に腐り落ちた。眼帯や包帯は腐敗を早めてしまう。彼は腐っていく身体を隠すことも叶わない。
 痛みを感じることすらなく身体が腐っていくとは、一体どういう気持ちなのだろう。四半世紀ほど前に発生したこの病は、患者数こそ大幅に減ったがいまだ終息する様子を見せない。
 大脳皮質を始めとする複数の部位にできた腫瘍と、小さな傷口を媒介として感染する細菌の複合的な影響によって、患者はさながらゾンビのようにその身体を腐らせていく。年齢が上がるほどに侵食速度も早く、対して若く健康であった者は穏やかに腐敗が進行する。おそらく彼はあと二年ほどで死に至るだろう。この二年という数字を彼がどう捉えているのか、私は何も知らない。
 病が直接の原因となって精神が異常をきたすことはないが、大抵の患者は痛みのないまま静かに腐敗していく自らに耐え切れず、いつしか心を病んでしまうという。自死を選ぶ者も少なくない。
 今も彼は狂えずにいる。


 この病が彼の身体を蝕み始めたのは、ちょうど去年の今頃だった。
 もうじき桜も咲くだろう、次の休みには花見にでも行こうか。リビングのソファの前、タブレットで動画を見ながら爪を切る彼の背にそんな声をかけていたことを今でも覚えている。そのとき、彼が返事の代わりに小さく、
「痛て」
 と呟いたことも。左足、人差し指の爪を切り落とすと共に、彼は爪先を小さく傷つけた。大丈夫? と訊ねると、彼はへらへらと笑いながら、
「傷薬、あったっけ?」
 と返した。
 そのほんの僅かな傷がこれから腐っていく彼のきっかけになるなんて、思いもしなかった。

 三週間経っても、彼が傷つけてしまった指先は治っていなかった。それどころか傷口は黄色い膿をまとい、そのうえ指先は何かに強く触れても全く痛みを感じないと言う。
「やだ、それゾンビ病なんじゃないの?」
「うわー、だったらどうしよ。おれ、腐って死んじゃうんだ?」
 けらけらと笑う彼に顰め面を見せつけながら、私も完全に楽観視していた。多少治りが悪くて化膿しただけだとか、どうせその程度のことだと思い込んでいた。
「今度の休みまで治ってなかったら、皮膚科、行っておいでね」
「休みなー……職場、ゾンビ病になったらなったで『もう死ぬだけなんでしょ?』つって、そのまま全身腐り切るまで働かされそう」
「わはは、ゾンビだから全身真っ黒だ、超ブラックだ」
 私たちはただ、ゾンビ病、なんて安っぽい俗名で簡単に片づけてしまっていた。
 翌週になると彼の傷口は青紫に変色した。慌てて診察を受けると、ここでは診られないから、と県立病院への紹介状を渡された。
「きょう、これから、今すぐに向かってください」
 深刻そうな医者の顔を見た彼は、診察を終えた直後、私へ電話をかけてよこした。
『おれさあ、ゾンビになっちゃうのかも』
 そう言って、寂しそうに笑っていた。


 発症から約二年半。彼は左脚の膝上十五センチより先と、右足首十センチ下、左手を二本、右手首から下、左耳、左目を失った。肌本来の色を残した場所は七割を切り、変色が酷い左側の顔は皮膚が固く、うまく表情を作れない。日々範囲を広げていく腐敗によって彼は絶えず微熱が続き、慢性的な頭痛や倦怠感、治まる気配もない吐き気に苦しめられている。
 互いの貯金なんてとっくに尽きていた。私は彼の妻ではない。使える国の制度も限られている。彼が治る見込みは一切ない。この病が完治した人なんて誰もいない。皆、長くて五、六年で死んでしまう。遺体は緑色で、全身細菌にまみれている。ボロボロの身体は専用の火葬場で徹底的に焼かれ、遺骨も帰ってこない。そもそも、すでに腐り落ちた彼の肉体は都度その火葬場で焼かれていた。ぼろりと彼の肉体が彼の身体から失われるたび、少しずつ、けれど着実に彼の身体は死の範囲を広げている。

 彼の左目が彼の肉体を離れたとき、私はまさに、彼の目の前にいた。
「左目が最後に見た景色に、君がいてくれてよかった」
 そう言って彼は軽やかに笑っていた。強張った左頬を引き攣らせ、優しく微笑んでいた。
「右目が腐り落ちるときもさ、目の届くところにいてよ」
 彼は、近い将来についてそう話した。
「そしたらもう、どこに行ってもいいからさ。だって、そのときにはもう、わかんないから。見えないから。届かないから」

 無菌室の中、世界から隔離された彼が、気まぐれに外の世界からやってくる私に言う。
「化け物の、最後のお願い、聞いてよ」
 彼の顔、左側。ぽっかりと開いた空洞に目をやる。
 私はそこに、清らかな水の気配を感じている。



(「清らかな水」22.3.8)

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