【毎日投稿】5日目・才能あるなしの話

土日は休むという事に決めた。
月曜日に決めた。

本音は「土曜サボっちゃったから、もういっか…」という事にならないためにルールを後付けした。モチベのセルフコントロール。

週末になると何もしたくなくなる病気はひょっとしたら不治の病かもしれない。

・「才能」とか「親ガチャ」とか

「人は生まれ持った才能や環境でほとんどの人生が決まる」
「努力は報われるなんて嘘だ、努力して報われるくらいの才能を元々持ってたやつがそんなことを言えるんだ」
「東大京大・プロゴルファーに声優、そこを目指せる奴は元々そういう環境が整ってただけ。親ガチャに当たっただけだ」

こういう言説がSNSを飛び越えてニュースやワイドショーにまで取り上げられる様になって、しばらく経つ。
これらの反対意見としてよく見られるのは下記のようなもの。

「努力してこなかった奴が親ガチャとか言い出す」
「成功者は自分の環境を変えようと努力してきたから成功者なんだ」
「何でもかんでも才能のせいにする奴って、失敗を恐れず挑戦した事もない臆病者なだけ」
「親ガチャとか言い出す奴の神経疑う。親に対してそんな事言っていいと本気で思ってるん?」

うーん、ぐうの音も出ない正論。
ただ、同じ努力で成功できる人とできない人がいるというのも変えがたい現実。これをどうすべきか。いやどうもできないんだけど。

親ガチャについては「人生が決まる」までは言いすぎだと思うけど、おかれた環境によって有利に人生をスタートできる、というのはあるだろうなとは思う。
スター芸能人の子供に生まれたら。
一流スポーツ選手の子供に生まれたら。
世界的な芸術家の子供に生まれたら。
少なくとも、かなりの確率で「金銭的に困る」ことはないだろう。
「有名人の子供に生まれたことで一般家庭の子供とは違う苦労があった」
というのも色々聞くけれど、我々一般人からしてみれば「それでも有名人の子供に生まれて見たかった」という人は多いのではなかろうか。
ファンタジー作品で「姫に生まれたから友達出来なかった、外で遊ばせてもらえなかった」みたいな描写あるけど、それでもお姫様になりたいとは思うんじゃねーの、ってのと似たような話で。

才能に関しては、けっこう結果論的なところがあるよね。
成功した人が「努力で成功した人」なのか「才能で成功した人」なのかは個人の主観によるところが大きいし。
才能がある人だって努力はするわけで。才能がない人がする努力とは種類が違うだけで、並々ならない努力があったからこそ成功してるってのは事実だ。
んで、才能って言うあいまいなものの差を感じながらも数値化できずに悶々としていた人のところに「親ガチャ」っていうキャッチーかつ一定の説得力のある言葉が届いてしまったもんだから、今の親ガチャ論は白熱しているわけで。

有名俳優の子供が演技上手とは限らない。
プロ野球選手の子供が野球がうまいとは限らない。
才能の遺伝にはブレがあるし、そもそも演技とか技術って才能とか遺伝の話なのか?っていうところからの話だし。
まあ、シンプルに顔の良い親から顔のいい子が生まれる、ガタイの良い親からガタイのいい子が生まれる、ってだけでかなりのアドバンテージだとは思うけど。

けれど「生まれ持った環境」は明らかに比較できちゃう。
親が大学教授なら、勉強する環境は他人より整えられるでしょう。
親がスポーツ選手なら、トレーニング環境は他人より整えられるでしょう。
もっとシンプルに、親が金持ちだったら貧乏な家庭よりも選択肢が増えるでしょう。
今まで比較として不明確だった「才能論」と違って「親ガチャ論」は自分の境遇とも比較できるし、一般・平均という水準からどれだけ上に存在しているのかをわかりやすく表すことが出来る。

「いじめ・浪人・引きこもり…人生に絶望してたけど、なんとか自分の力で人生を切り開いて、今幸せです!」
こんな記事があったとして、この体験者の実家が大金持ちだったらちょっと読む気失くす人は多いのではなかろうか。
まあ、俺も読まない。

・結論、言い訳…なんだけど

「才能論」とか「親ガチャ」という言葉は、結論から言ったら言い訳だ。
自分の冴えない現状を嘆いて、その原因を自分の努力以外の何かに求めたくて出てきた言葉だ。

俺はそういうことを言う人にすごく共感するし、自分も努力出来てこなかった今までを振り返って「もっと才能があれば結果がついてきて、モチベーションを維持できたんじゃないか」「もっと理解ある親の元に生まれれば自分の望む道を行けたんじゃないか」なんて考える事もある。
それが言い訳ってこともわかってる。才能のあるなしは努力しきったその向こうでしかわからない事が多いし、自分の道は自分で作るものだとわかってる。
でも、冴えない現状を直視して死にたくなる人が現代には多すぎる。
俺を含めて、今のダメな自分を真正面から見たら絶望してしまうのだ。
だからこそ、自分が今こうなっている原因を外的要因や生まれ育ちに求める事でなんとか自分を保っているという側面もある。

ただ、厄介なことに才能も環境も他者と比べる事でしか表現することが出来ない。
だからこそ
「俺には才能がなかった」「俺は親ガチャに外れた」
という言葉には
「あいつの様に才能がなかった」
「あいつみたいに親に恵まれなかった」
という言葉がセットでついてきてしまうのだ。
それは成功者への妬み嫉みも当然含まれるし、その人の努力を認めないという聞こえ方をされてしまう可能性も高い。
だからこそ対立が生まれる。

自分を守るために使う「才能論」「親ガチャ論」で、他人の成功をくさして傷つけてしまう。
そして成功者サイドから「努力もしない人間が人のせいにして」と正論をたたきつけられて逆上し、果ては過激なアンチとなったり無敵の人になったりする。

・才能論、親ガチャ論の最大の問題

対立はなくすべき。
でも現実に「才能論」や「親ガチャ論」に縋らなければ生きていけない人達は存在する。
対立をどうやってなくせるのかは、俺みたいな人間には全くわからない。

才能論や親ガチャ論の一番の問題点は、

「生まれ持った才能や環境で物事が決まるなら、何をしても無駄だ」

という気持ちが芽生えてしまう所にあると思う。

「言霊」という言葉がある。
自分を慰めるために発していた言葉が、いつのまにか自分の本心とすり替わり、夢に対して無気力になり、他者を攻撃して満足するようになる。

「才能が無くても出来るところまで努力する」
「親ガチャハズレの自分でも出来るってことを示す」

という前向きな気持ちを持てるなら才能論・親ガチャ論も捨てたものではないが、多くの場合そうではない。
才能・環境の差は無気力を引き出し、まだしてもいない努力を「無駄な努力」と切り捨てさせてしまう。

才能論は「もともと才能がある人とない人では、努力によって結びつく結果に差がつく」ということであり「才能がない奴は努力しても無駄」という文脈で使われるものではないはずだ。

成功者は「才能があった」と言われる事だけは我慢して受け入れてほしい。
努力を否定してるんじゃない。
才能があろうがなかろうが、成功するには人並み以上の努力が必要なことは分かりきっている。
でもまだ成功体験を得ていない人にとっては、自分より遥か先を行く人たちが、自分より遥かに早く結果を得た人たちが天才であってくれないと困る。心がもたないのだ。努力する甲斐が無くなるのだ。

そして、何かの成功・結果を得るためには才能のあるなしにかかわらず努力が必要であることは忘れずにいた方がいい。
親ガチャをはじめとする環境が原因で努力すらしづらい人もいることは、仕方ない。それも現実。
でもベストな環境で成功した人よりも、悪い環境から這い上がった人の方が成功した後に話すネタは多い。
いつか成功して「お前も才能あっただけだろ」「親ガチャSSR乙」と言われる側になって「うへへ、サーセン」とでも言ってやれる日を夢見て頑張ろう。

俺はあんまり頑張れないので、応援してます。

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