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「群れる」人たち

今日私は最寄りの駅から帰るべく、バス停へ向かった。
バス停が目に入り、バスに乗り込む列が見える。

行先の異なるバスを待つ乗客の列とバスの間に、バスの入り口を塞ぐように「群れる」女子高生が3人いた。

彼女たちを避けるようにバスに乗り込み振り返ると、どうやら友人との合流に夢中で周りが見えていないようだった。

1人がスマホを耳に当てている。
「え!まだスギ薬局で買い物してるの!バス来てんだけど~」

とうとう彼女たちは合流し、5人の「群れ」になった。
ぞろぞろと乗り込み、バスの後方で立てる部分を埋め尽くすように立つ。

バスは発車した。

満席で混雑するバスの中、彼女たちは楽しそうだった。今日のテストの話、メイクの話。彼女たちの世界がこのバスの空間を占有しているようだった。

私はイヤホンを取り出すと、ノイズキャンセリングを起動して、音楽をかけた。


「群れる」という言葉、なんかネガティブに聞こえるのは私だけだろうか。

そして、私は「群れる」人たちが嫌いだ。とても嫌い。ずーっと嫌い。

嫌いなりに「群れる」という状態を言語化してみる。
※ポジティブな内容ではないので、疲れている人はそっと閉じてほしい


「群れる」には2種類ある

自分の経験から言うと、「群れ」には2パターンいる。
弱者の群れと、自己中心的な者の群れだ。

弱者の群れ

弱者は一人では何も言えない
悪口も主張もできない。告白すら1人でできない。

群れた場合、やり口は汚い。
同じ思想の者を集め、数の暴力で訴える。
まるで自分が正義かの如く、賛同者を後ろ盾に、相手が悪いように仕立て上げる。

群れると気が大きくなるようだ。
マウントを取る。聞いてもない自慢や、傷つくような言葉を言う。
(繰り返すが、1人では言ってこない。)

恐らく自己肯定感が低いのが原因。
普段周囲と比較して落ち込んだり、自身も傷ついた経験があるのかもしれない。それを他人に振りかざすという発想になったものが「弱者の群れ」。


自己中心的な者の群れ

自己中心的な者は、基本的に視野が狭い。
他責思考で、心無いことも言える。
偏見だが、休み時間うるさいが、授業中は声が小さいタイプが多い。

群れた場合、うるさい。
声が大きく、言ったもの勝ちと言わんばかりに振る舞う。
類は友を呼ぶ。声が大きいものに似た者がぞろぞろとかたまり、同調しヒートアップする。(飲みサーはこれにあてはまると思う。)

群れたことが原因で視野が狭くなってしまい、自分たちの世界ができている可能性もある。

視野が狭いので、利害関係者を想像することができない。
結果、誰かが不快、不便な思いをすることが多い。

冒頭に書いた群れは、「自己中心的な群れ」。


「群れる」と「集まる」は違う

2つには大きな違いがある。自我の有無だ。

個人を持ち寄った集団には、各々に自我がある。
それは「集まる」。

声の大きい誰かに振り向く集団には、各々に自我がない。
それは「群れる」。

【集まる】自我ある個人

自我があれば、(個々人の)良識をもってして発言し、思いやりがあり、嫌なことは嫌という。

精神的に自立している。目的意識、相手へのリスペクトがあるので、多様性を許容する。
だから、発言したことでコミュニティで自身の立場が脅かされたり、不安に思うことがない。

行動する内容は1人でも、集まっても変わらない。


【群れる】自我なき個人

自我がないので、自身の主張や正義が揺らぐ。

精神的に自立していない。群れることが目的なので、似たような人間がそろう。多様性に欠ける。
自身の発言がコミュニティの意思に反するとき、自身が脅かされる不安がある。群れていない自身への寂しさ、1人ではできない恐怖感を持っている。

行動する内容は1人だと小さくなり、集まると悪い方向に変わる。

自身を振り返る

私は人が好きだ。話すのが好きだ。

ただ物心ついたときから群れる行為は苦手だった。
休み時間に、わざわざ友達とお手洗いに行くとかはなかった。
発言するとき、誰かが後ろにいないと言えない奴はダサいと思っていた。

だからその時々で居心地のいいコミュニティに関わっていた。

それのせいかわからないが、群れる人たちから嫌な思いや心無い言葉をかけられる時もあった。
群れる思想の人たちへの嫌悪感が強くなっていたように思う。

受験を頑張り、偏差値の少し高い高校へ進学してからは「群れ」に出会う機会は減った。努力できる人は自立し、精神性が大人びるのだろうか。
生きやすくなった。

大学生になってからは「集まる」ことを自身で選ぶことができるようになり、より生きやすくなった。多様性が増し、学ぶことも多かった。
(出会う人が多いということは「群れ」にも遭遇するが)

集まっているのが嫌いなのではない。「群れる」ことが嫌いだ。
「群れる」ことを選択し、堕落した環境に甘んじる個人が嫌いだ。
誰かに強く不便を強いる状況と、それを生み出す「群れ」を許せない。

余談だが、思春期を過ぎても「群れ」でいることから抜け出せない人もきっといる(夜中の暴走バイクとか)。
大人になって、誰も咎めてくれなくなったとき、厄介者扱いされると思う。それか、目につきにくいところで群れ続けるのか。

掘り下げると根深そうな問題だなあと思うので、いつか調べてみようかな。

何はともあれ、私は「集まる」を選択できる人間でいたいと思う。




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