宇沢弘文と渋沢栄一と資本主義

2019年に「資本主義と闘った男」という宇沢先生の人生を振り返る大作が出版され、近年では宇沢先生の思想がリバイバルさていると感じています。時代変化が、求めているからでしょう。

一方、渋沢栄一の思想のリバイバルも様々な場面で観測できています。その背景にも時代変化があると考えていますが、栄一は「日本の資本主義の父」と言われます。

なぜ、「資本主義と闘った男」と「日本の資本主義の父」のという一見相反するような思想が同じタイミングでリバイバルされているのでしょうか。

宇沢先生の長女である占部まりさんから教えていただいたエピソードがあります。昭和天皇とのご面会の機会に、宇沢先生がご自身の研究の内容をご説明された後、天皇は一言おしゃったようです。

「キミは経済、経済というが、要は人間の心が大事であると言いたいのだね」と。

渋沢栄一が提唱したのは「論語と算盤」、道徳と経済の合致でした。道徳とは、まさに「人間の心」です。

「資本主義と闘った男」と「日本の資本主義の父」の考え方は、かなり重なっていたのではないでしょうか。

「人間の心」には価値があることに間違いないと思います。ただ、価値があるのに、それをマネタイズして可視化できない、すべきではないとも言えるでしょう。

これは、宇沢先生のシカゴ大学時代の同僚であったミルトン・フリードマンが主張する「新自由主義」が考慮していないことだと思います。要は、価値があるものは紙幣化できて、紙幣化により可視化できるので、市場で合理的に取引されて適正価格が形成され、公平に分配されるという考えです。

この方程式は機械的な合理性なので、わかりやすい概念というメリットがあり、20世紀では一般的常識とされていました。でも、紙幣によって可視化(測定)できないから、そこに価値がないと言えますえしょうか。

でも宇沢先生の社会的共通資本(Social Common Capital)という思想の根幹には「人間の心」があった。そして、「人間の心」には大切な価値がある。そして、そもそも「人間の心」は機械ではないので、合理的に動いている訳でもありません。

フリードマン博士が主張した企業の存在意義(社会的責任)とは「利益の最大化」でした。極めてわかりやすいモデルです。

ただ、いまの時代が求めている企業の存在意義とは「価値の最大化」ではないでしょうか。ここに、宇沢弘文先生と渋沢栄一の思想が共通していることではないかと思っています。

占部さんとご一緒に時代が求めている二人の巨人の思想の共通点についてウェビナーで深掘りしたいと2月下旬に企画中です。詳細が決まり次第、改めてお知らせいたします。

#日経COMEMO #NIKKEI

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