日本企業の「士魂商才」経営
志とは「士」の「心」。英語的にいえば、サムライ・スピリットです。では侍のパーパスとは何かと考えると、主君を仕えることです。では、会社の、経営者の主君とはなんでしょう。
つい最近まで、欧米では主君は「株主」でした。ただ、最近ではステークホルダー資本主義が新しい時代の流れとして注目されています。
一方、日本企業の主君は誰だったのか。それは「ウチ」(家)だったかもしれません。その家の将軍は代表取締役社長かもしれませんが、長年、主君の存在が曖昧でした。
渋沢栄一も『論語と算盤』の「士魂商才」で、経済人はパーパス、志を持つべきだという考えを示しています。そして、その志を象徴する(可視化と言っても良いかもしれません)のが道徳でした。
「道徳上の書物と商才とは何の関係がないようであるけれども、その商才というものも、もともと道徳を以て根底としたものであって、道徳と離れた不道徳、欺瞞、浮華、軽佻の商才は、いわゆる小才子、小利口であって、決して真の商才ではない。」と、断言しています。
ルール、コンプライアンス、法則ではなく、道徳が企業の志、パーパスを示しているという考えです。確かに、道徳ある会社であれば、昨今、紙面で目立つ経営の不詳のニュースはないでしょう。
ただ、「人間の世の中に立つには武士的精神の必要であることは無論であるが、しかし武士的精神のみに編して商才というものがなければ、経済の上からも自滅を招くようになる。」ということも指摘しています。
士魂と商才の関係は優劣ではなく、あくまでも両立しているということです。
渋沢栄一の功績は「五百社をつくった」と一般的に言われますが、渋沢栄一のパーパスは500社をつくることではなかったです。「家」の繁栄でもなかった。あくまでもよりよい社会を実現させるための価値創造の最大化だったと思います。栄一の主君は、「社会」だったのかもしれません。
そして、「士魂商才」の最後の締めくくりに栄一はこのように指摘します。
「欧米諸国の日進月歩の新しいものを研究するのも必要であるが、東洋古来の古いものの中にも棄て難い者のあることを忘れてはならぬ。」
日本企業のパーパス経営に期待しています。