「不都合な事実」が自分の渋沢栄一の研究の始まり
渋沢栄一の孫の孫(玄孫)として生を受けましたが、小学二年から父の仕事の関係で渡米し、大学を卒業するまで高祖父を意識しない環境で育ちました。大学を卒業して、日本に2年ぐらい帰国しましたが、再び渡米してMBAを獲得し、「栄一」と縁がない米系のインベストメントバンクやヘッジファンドで20代後半から30代を過ごしました。
その自分が高祖父への意識が高まり始まったのは、自分が40歳になったときに、独立しようと思い立ってシブサワ・アンド・カンパニーという会社を起業したときでした。
500社ぐらい会社を起業した曾々爺様から何か学べることがないかと新米起業家は、ふと思いました。
また、そもそも、ちょっと気になっていることがあった。
親戚の集まりでは、お酒が入った叔父からいつも絡まれていました。「ケン、渋沢家には昔、家訓があってな。そこには株と政治をやっちゃいかんと書いてあるんだぞ」と。
じゃあ、調べてみようと父の力を借りてみたら、出てきたのです。
「投機の業、又は道徳上卑しい職に従事すべからず」と。
自分は「道徳上卑しい」ことはしている訳ではないと思っていたので、ここはクリア。
でも、ずっと金融市場で買った売った、切った張ったの職に従事していたのです。どのように解釈しても、40歳になって自分は渋沢家の家訓違反していたのだと気づきました。
さて、どうする。
この訓は、自分にとって「不都合な事実」であったことに間違いない。でも、栄一は、たくさんの言葉を遺してくれているんだということに気づきました。
だったら、どこにかに自分にとって都合がよい事実があるかもしれない。こう思い立って、自分の渋沢栄一の研究が始まったのです。極めて利己的な動機でした。
父の力をまた借りて調べ始めたらびっくりしました。昔の古い言葉を現在の光を当ててみたら、活き活きと蘇ってきたのです。時代によって変わるものはたくさんある。でも、変わらないものあります。
その栄一の言葉の普遍性は未来志向でした。
もっと良い社会になれる、もっと良い企業になれる、もっと良い経営者、老人、現役、若手、若者になれる。現状に満足していない、そのような言葉でした。
渋沢栄一を過去の偉人として置いておくだけではもったいない。栄一を今の時代の文脈に「通訳」して広めなければ、これからの日本のために。
こんなことに思い立った、およそ20年ぐらい前。まさか、渋沢栄一が現在のようなブームになっているとは夢にも思っていませんでした。しかし、栄一の言葉は不変です。時代の変化が、栄一を呼び起こしているでしょう。
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